第17話 夏雲

「大丈夫ですか」

 声をかけるが、痛くて聞こえていない様だ。

「失礼」

 一言断ってから彼女の肩と膝に手を入れ持ち上げる。

 姫に拝謁する資格も無いのにお姫様抱っこで家の中に向かう。

 リビングのフローリングの上に仰向けで寝てもらう。

 左の肩から血でにじんでいた。

「すいません、服を取ります」

「はい」

 恐る恐る服を取る。白い肌が表れる。

 出血は少しだったが内出血がひどかった。

 冷凍庫から氷をもってきてそれをビニール袋にうつす。

 そしてそれを彼女の肩に置く。

「冷たくないですか」

「いえ、気持ちがいいです。すみません、余計な事をさせてしまって」

 申し訳なさそうな顔で私に謝る。二階からタオルケットと枕を持ってきて、彼女に掛ける。

 後は……。

 リビングから出ようとドアを開ける。

「秘書さん」

 不安そうな、何かを見透かされた様な、小さな声が私の背中に届く。

「ええと……今から湿布と包帯を買ってきます」

 実は後は救急車を呼んで帰ろうとしたのだが、不安そうな彼女を置いて行くのが躊躇われこんなことを言ってしまった。

 しかしまだ帰ろうという気持ちはあった。

 これ以上私が居てもすることが無い。

 そう思い彼女の方を見ないで出ようとした時、

「ありがとうございます。では、待っています」

 安堵の表情を浮かべて目を瞑る。私の好きだった、彼女の口癖を聞いてしまってはもう帰る訳にもいかなくなってしまった。


 近くにあった薬局に行き、冷湿布と綿包帯、脱脂綿と消毒液、メンタームを購入する。

 そこでふと気づく。

 明日会社に行けないなぁ。

 美貴さんに電話を入れ予定を聞いてみる。

 明日は警察のOBの接待、あさっては同業者の集まりがあった。

 その他にも細々とした用事がある様だ。

「申し訳ない、少し……帰られなくなった」

 あと一日の猶予を申し出る。

 美貴さんは四日後にまた新しいクラブを作る為の交渉に間に合って頂ければまだ何とか会社を回していく、と言ってくれた。

 美貴さんに特別ボーナスを約束し、電話を切った。


 彼女の家に戻りリビングを開ける。

 すやすやと寝ている様だ。

 起こすのも悪いかな、と思っていたら目から涙が流れていた。

 痛むのかな、と思い様子を伺っていたらタオルケットから細くて白い手が何かを掴みたい様に伸びてきた。

 しゃがんでその手を包み込む様に握る。

 冷たい手を温める様に甲を撫でた。


 どの位その様にしていただろうか。やがて彼女が目を覚ました。

「おはようございます」

 笑顔を作り、声を掛ける。

 最初まどろみが抜けきらなかった彼女だったが、やがて心からの安堵の表情となり、泣き出してしまった。

 そうとう痛むのかな、と心配になり声を掛けるがそうでは無いと返答が返ってくる。

 では何故? 

 困惑する私に語りだす。

「家族が居なくなってしまう、夢を見ていました」

 涙を拭い、何でもなかった様に言った。

 沈黙が流れる。

 沈黙を止める様に彼女が語りだした。


「私はご存知の通り、以前はピアノの奏者でした。でも最初から音楽が好きだった訳ではなく、アメリカに居る子供の時は女優さんになりたかった様です」

 たしか彼女は帰国子女だったな。

 だから英語がペラペラで、留学もすんなりと決まった。

 懐かしく思い出す。

「向こうでは美少女コンテストみたいなものが盛んで、私も親に言ってよく出させてもらっていました。女優になりたい、というよりは可愛い服がたくさん着てみたいという願望の方が強かった様です」

 小さい女の子ならこういった事もあるのかな、などと思いながら話を聞き続ける。

「小さかった頃は私も可愛かった様で、コンテストで優勝することもありました」

 三十近い今でも美人の中に可愛らしさを残していますよ、と言いたかったが黙って聞くことにする。

「しかし、こういうので有名になってしまうとやはりリスクもある様で。怖い人に……襲われそうになりまして……」

 言葉が途切れがちになる。

 止めようかとも思ったが彼女は続けた。

「走って逃げたのですが……子供の脚力なんて知れています。すぐに追いつかれそうになって。もう逃げられない、と思ったので川に飛び込みました」

 思い切ったことをする子供だ。

「その日は雨上がりで川の流れも速く、相当流されましたが、何とか自力で這い上がりました。家にずぶ濡れで帰ったものですから、母がまず驚きの声をあげました。その声に驚いてか父が自宅のアトリエから出てきました。そこで安心してしまったのでしょうね。私は父に抱きついて泣き出してしまいました」

 お父さんは画家だったんだ。

 つきあっている時も家族の事は一切言わない子だったから初めて知った。

「激怒した父は、警察署に駆け込みました。しかし犯人は捕まりません。未遂事件だったからかもしれませんが。しかし、私は怖くなってしまいコンテストどころか学校にも行けなくなり、家に引きこもる様になりました」

 それはトラウマになるだろう。

「父は私の為だけに決断してくれました。日本に帰ろうと。それで父の故郷、茨城県に引越ししました」

 いいお父さんだな、率直に思う。

「ここで中学生を迎えた私は水泳部に入りました。髪の毛を短くして、真っ黒に日焼けして、ジャージでいるとたまに男の子と間違われる事がありました。案外泳ぐのは早いみたいで大会に出ると県大会までなら優勝することもありました」

 そんな時代があったなど知らなかった。そういえば、泳ぐのが上手かったな。

「中三の夏休みでした。中学総体に向けて学校だけでは無く、スイミングクラブにまで通わせてもらっていました。水泳選手になりたい、なんて漠然とした夢もありました。しかし……」

 少し言いよどんだが、続ける。

「スイミングクラブの帰りでした。夜遅くになってしまい急いで自転車で家に帰っている途中です。ミニバンが後ろから追い越して行ったかと思ったら、私の目の前で停まり中から二人組みの男性が出てきました」

 続きは何となく聞きたくなかった。

「薄ら笑いで私の体を抱え上げ、ミニバンに押し込まれました。車が走り出すと、腕を後ろ手に縛られました。その後、男性は私のワイシャツのボタンを一つ、一つ外し始めました。そこからは……よく覚えていないのですが、想到暴れた様です」

 言葉が出ない私を見る事無く言葉を続ける。

「随分叩かれた様な気がしますが、私も凄い暴れ方をした様です。蹴りを随分浴びせました。しかし」

 ここでまた言いよどんだが、意を決した様で続ける

「運転している人に……また角度も悪かった様で。思い切り私の蹴りが当たってしまいました。急に車が傾いたかと思うと……そのまま川に突っ込んでいました」

 虫の鳴き声すら私の耳に入ってこない。

 彼女の言葉には重みがあった。

「完全に水没した車のドアを後ろ手で何とか開けました。もう夜だったので水の中も真っ暗です。必死に水面に上がろうとしました。後ろから助けて、と声がした様な気がして振り返りましたが真っ暗で何も見えません。それに後ろ手に縛られていますから浮かび上がる事すら困難に思いました」

 夜風も完全に止まっている様な気がした。

「必死に足をばたつかせ、何とか水面に顔を出し、明かりの方向に泳ぎ、川岸に倒れこみました。助けを呼ばなくては、と思いましたが、水泳の練習に加え、さっき暴れて抵抗したのと、今の必死の脱出でもう体力は限界でした。気力で立ち上がりましたが、立っているだけでも足がガクガクと震えます。しかし人命がかかっています。気力で近くの民家まで走る事にしました」

 彼女が少し笑った。

「しかし、田舎ですね。民家が少なくて。必死に探したのですが中々見つかりません。何度も転びながら、探しました。それらしき物が見えても納屋たったり、牛舎だったりの繰り返し。もう走りすぎてもどしてしまった時、漸く一件民家の様なものが見えました。何とか立ち上がり走り出し、近くまで寄ってみると漸く民家でした。大きな農家らしく立派な門です。しかし、ここで困った事が起こりました。門が開きません。門柱にはインターホンが有りません。すいません、ありったけの大声で中の人を呼びますが、返事がありません。明かりが漏れているので誰かしら居ることは確実なのですが、応答が全くありません。耳が遠いのだろう、と思いました。塀を見ると一部ブロック塀でここから何とかよじ登れそうです。よし、と思いましたが、ここで私は後ろ手に縛られている事を思い出しました」

 ここで小さくため息をつく。

「もうその場に崩れました。このまま倒れてしまおうか、とも思いましたがまた走り出しました。と言ってももう歩いている様な速度だったと思いますが。それからどの位時間が経ったかは判らないですが、ようやく数件の民家が見えましてそこに助けを求めました。水浸しで後ろ手に縛られて、シャツのボタンが開いている私を見て、出てきたおばさんはビックリしていましたが、すぐに電話を掛けてくれました。車の中にはまだ人がいます、最後にそれだけ言って私は意識を失いその場に倒れた様です」

 リン、と少し風鈴が鳴った。

「次の日起きたら家で寝ていました。横を見ると父が居ました。お前は何も悪くない、とだけ言って抱きしめてくれました。二人とも遺体で発見されました」

 昔、彼女が二人殺していると高居先輩が言っていたのはこの事か。

「田舎町だったので噂になるのも早くて。同級生や部活の後輩、大人からも好奇の目で見られ続けました。部活の練習にも行けなくなり、大会にも出られなくなってしまい、新学期が始まっても登校出来ませんでした。コンビニにも行けず、残暑が残っているのに、一日中タオルに包まってほとんど食事もしない私を見て、父はまた引っ越しを考えてくれていた様です。でも……。髪の毛が伸びすぎたので、何日振りかで外に出ようと、部屋から出た時、下の階から妹の声が聞こえてきました。またお姉ちゃんのせいで引越しするの? 私嫌だよ、と。恐る恐るリビングのドアを少し開け、様子を見ていると明らかに怒っている妹が居ました。母も困った表情でした。父は背中しか見えませんでした」

 昨日の事の様に話す。脳裏に鮮明ということか。

「また友達一から作り直さなきゃならないし、仲良くなった友達とも別れなくてはならないし……。それに前回の引越しの時もそうだったけど、引越しの理由、新しい友達に今度は何て説明すればいいの。姉がレイプされそうになったから? それとも今回は人を殺してしまったから?」

 ここまで言って、少しこちらを見た。

 彼女をずっと見続けていた私は目を逸らしてしまったが、また彼女の目を見た。 それを確認する様にして、彼女は私から目を逸らすとまた話し出した。

「父は苦しい時に助け合うのが家族だろ、と妹に言いました。妹は納得いかない様な表情でした。本当にあの子は……何でこんな目に会うのかしら、と母の声も聞こえてきます。家族で行かないでお姉ちゃんだけマンションにでも住んでもらったら、と妹が言います。何を言っているんだ、そんなこと出来る訳が無いだろう。もう家族で住む家も買ってある。珍しく父が怒った声を出しました。でもあなたもPTAの会長ですから、代わりの方を探すとなると、母もその案に少し傾いた様な事を言い出しました。そこから仲の良い家族が私のせいで喧嘩を始めました。我慢できなくなり、リビングのドアを勢いよく開けました。みんなの驚いた顔が吸い込まれる様に私の目に焼きつきました。一呼吸の後、こう言いました。お父さん、私知らない所で一人暮らしがしたい、と」

 右手が冷たい。

 気がつくとまだ彼女の手を握っていた。

 両手で包み込む。

「それから……家族で集るということは無くなりました。その日から……家族が突然居なくなるという夢を何百回と見ました。その度に泣くんです私。お会いした時目が赤かったのも泣きすぎたからで、よく眼科も行くんです。怪我が痛くて泣いていた訳では無いです。ご心配をお掛けして、申し訳ございません」

 そう言って体を起こそうとするが、ケガした方を使って起きようとして痛みが走った様で顔が歪んだ。

 慌てて私が抱き起こす。

「道具一式買ってきました。治療しましょう」


 白くて細い彼女の体に真っ白の包帯が巻かれる。

 湿布もしたし、肩の処置はこれでよし。

 出血は擦りむいただけの様なので消毒液の後、脱脂綿を当てる。

 これで処置は済んだ。

 まさかこんなところで役に立つとは思わなかった知識。

 空手をやっていて本当に良かった。

「少し気分が悪くなるかも知れません。寝た方が良いでしょう。寝室はどちらですか」

 許可も得ずに抱きかかえる。

 遠慮がちな彼女のことだ、私で歩きますとか言いそうだからな。抱えあげられ少し驚いた顔になったが、すぐに寝室の道案内を始めた。

 ベッドに寝かせてタオルをかける。

「今日は夕食私が作ります。そのまま寝ていて下さい。出来ましたらお持ちします」

 えっ、という声がした。

「味の方は勘弁してください。何しろ自炊自体久しぶりなもので」

 お金を持つ様になってからは外食ばかりになってしまったから、まず炊事場に立たなくなった。

 それに私は料理が伝説的に下手で、堀川には殺人食と呼ばれていた。

 ただ、お粥くらいは作れる。

「調理場をお借りします。少し時間が掛かるかもしれませんが」

 彼女に背を向け、キッチンに向かう事にする。

 その背中に弱弱しく、しかしはっきりと声が届く。

「はい、いつまでも待っています」


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