第19話 潮

 


「ピアニストとして成功してからは外国を沢山回りました。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア……それこそ数え切れない程行きました。いくつか賞も取らせて頂きました。ファンと言ってくれて、サインを求められることもありました。付き合いも多くなり、パーティに出席することも多くなりました。そこでお友達が出来ることもありましたが、多くは男性から声を掛けられました」

 美は洋を隔てずという訳か。

「大抵は紳士的な方だったと思いますが、中には下品な事を言ってみたり、露骨に触ってきたりする方もいて困りました。相手にせず、時には怒ったりしてかわしていましたが大ファンです、と言われるとどうも怒る訳にもいかず、たまに私もお友達を連れてそういう方とお食事に行ったりしました。抱きついたり、キスをしたりは向こうの文化だと割り切れましたが、子供の頃の事もありそれ以上は中々」

 簡単には出来ないよなそれは。

「ハイキングに誘われた時の事でした。ずっとお誘いを受けていた方でしたし、向こうも何人かいて、こちらも友達を連れてきても良いと言っていましたのでお受けしました。楽しく山登りをして山頂に着きました。そこで誘ってくれた方がこっちから見る景色が素晴らしいから、と林の様になっている所に私を案内しました。私もついていかなければ良かったのですが、その方が普段紳士なのと、山頂の景色が良くて……つい油断してしまいました」

 少し左手を見て、また話し出す。

「不意に抱きつかれました。ずっとファンでした、と言って色々な所を触りだしました。拒否しましたが、力が強くて。暴れて振りほどいて逃げました。しかし、来た道と反対方向だったみたいで、いつまでたっても林の中から出られませんでした。迷っていると不意に後ろから抱きつかれました。日本人が高くとまるな、と怒鳴られました。服に手がかけられました。思い切りキスをされました。私はなおも拒み続け暴れました。お互い柵に気づかない位取っ組み合ってしまいまして……またこれが低い柵で……」

 呆れた様に笑い、続ける。

「柵の向こうは崖でした。二人で縺れ合う様に落下しました。落下中左の肩に痛みを感じたのが最後でした。そこで気を失いました。気がついたのは次の日、病院のベッドでした。すぐに先生が駆けつけて状態の説明をしてくれました。肩が外れていたので今固定しているから動かない、擦り傷はすぐ治る」

 ふと飛田さんは外を見る。

「そして手は人差し指と親指は多分動く様になる。先生は説明を続けましたが、もう頭に入ってきませんでした。三本指が無くなっていました。他の指も取れかかっていたみたいです。それと……翌日警察が来て相手の方が亡くなったと教えてくれました。秘書さんは本当に変わっています。レイプ未遂に何度もあい、その度に人を殺し、身体障害者、こんな面倒な人間のファンなのですか」

 目を合わせず、諦めた様な口ぶりで言う。

 飛田さんは一つ勘違いしている。

 これだけははっきり言わなくてはならない。

「一つ言わせてください」

「はい」

 こちらを見ないで身構えた様に感じる。


「貴方は何一つ悪くない。それで責任を感じるのは明らかに間違いです」


 悲しい事に彼女はそれを理解していない。

 抱きしめたかった。

 しかしそれが出来る訳も無く、優しい笑顔を作るだけに留まった。

 飛田さんの横顔の表情は変わらなかったが、穏やかな息が漏れた様な気がした。 そして意を決する様に言葉をこちらに向ける。

「秘書さん、我侭を一つ言っても宜しいですか」

 本当に言ってくるとは思わなかったので少し面食らったのだが、飛田さんの恐らく本当に滅多に言わない我侭なのだろう。

 聞くのは初めてだ。

 何を言ってきても叶えようと、心に誓った。

「ええ、どうぞ。何でもいいですよ」

「では秘書さん、ケガの治療もう少しお願いしても宜しいですか。病院へ行くほどではなさそうですが痛みはありますし、湿布も貼りづらい位置なので」

 何か高い物を強請られるかと思って身構えていただけに少し拍子抜けした。

 何だ、そんなので良いのか? 

 もうその後の治療は病院の方が良いのだろうに。

 しかし誓った手前駄目とも言えず、

「わかりました。脳外科の結果を聞きに病院に行くまで私がやらせて頂きます」

 やれやれまた帰れなくなった。

 しかしこのやれやれは嬉しさも含んでいた。

 そして、

「その間は家の部屋をお使い下さい。三食、昼寝付きですよ」

 飛田さんの楽しそうな申し出を聞いて嬉しさの方が勝ってしまった。

 携帯の音が無粋にもこのタイミングで鳴ったのでマナーモードにした。


 穏やかな夏の午後、二人でお茶を飲みながら風鈴がそよぐのを厭きもしないで聞いていた。

 蝉の鳴き声、照り付ける太陽、緑の芝生を見ながらどうでも良い事を話す、心地良い時間が流れていた。

 今日のお夕飯は何にされますか、と聞かれて不意に思い出す。

「今日は外で食べませんか。この辺ではベネチアというお店が有名と聞きましたが。何だか石釜で焼くピザが絶品だとかで」

 高校生の頃、連れて行きたかった雰囲気の良いイタリアンのお店。

 当時の私には高すぎて、さいぜーりあ、しか連れて行ってあげられなかったが今なら安過ぎる位だ。

 飛田さんは少し考える仕草になった。

 これは私の配慮が足りなかった。

 飛田さんは東京のスーパーの位置を迷わず誘導した。

 家の近くにもスーパーが在るのに。

 何故遠くのスーパーの位置を知っているかを考えなかったがここで気がついた。

 どうしようかなと思っていたら、飛田さんの方が口を開くのが早かった。

「はい、じゃあそうしましょうか」

 

 少し早めに家を出る。

 靴下と下着の替えがもう無いので近くの大型衣料品店に寄ってから行く事にした。

 先程シャツ下着は洗濯機に入れて下さい、と何でも無い様に言われたが、さすがにそれは申し訳ないので固辞した。

 別にかまいませんけどね、と笑ってはいたが。

 大きな飛田家の駐車場に向かう。

 ロードスターに乗り込みエンジンを回す。

 掛からない。

 おかしい、いつも一発で掛かるのに。もう一度回すが掛からない。長回ししても掛からなかった。

 何してんの……。

 割と長い付き合いの相棒だがこんなことは初めてだった。

 悪態をつきつつトランクを開けたらバッテリーがもう切れていた。

 あれっ、もうダメ? 前回交換したのは何時だったかな、と思い返すが思い出せない。

 それ程長くないと思っていても長い事なんて沢山あるのだな、と考えてしまう。 後ろから心配そうに覗き込まれる。

「バッテリーですか」

「ええ、どうやら。タクシーを呼びましょう」

 携帯を取り出すが何でも無い様に提案される。

「じゃあ明日車屋に行く用事が有るので、その時一緒に買ってきます。ゆにーくろ(大型衣料店)からベネチアまでもそんなに距離無いですし、歩いていきませんか」

 そう言うと軽い足取りで車庫から出た。

 私は良いのだが、彼女は良いのだろうか。


 閑静な住宅街を二人で歩く。

 人とすれ違うとジロっと見られた。

 飛田さんは少し困った笑顔で挨拶するのだが、ほとんど返ってこない。

 田舎街だから彼女に何があったかはみんな知っているのだろう。

 彼女はこれが嫌で食料品も東京まで買いに行っていたに違いない。

 それに気づくのが遅かった私の愚鈍さに本当に呆れると共に腹がたった。

 住宅街の小さな道を抜け大きな道に差し掛かる前、前方に幾つかの塊が小さく見えた。

 序所に大きくなるそれを見た時、表情が少し固まってしまった。

 高居軍団と呼ばれている、うるさいおばさん達の集団が立ち話をしている。

 最後に見てもう十年以上経っているのにほとんど昔と変わっていなかった。

 そしてこっちを確認すると、ヒソヒソと話を始めた。

 早く通り抜けよう。

 私は早足になる。

「……人殺し」「引きこもって……」「……美人って得ね」小声で言っているのが聞こえてきた。更に早足になってしまう。

 聞きたくない。

 飛田さんはもっと聞きたくないだろうに表情をふと見ると俯きかげんであったが、笑みを浮かべ割と平然としていた。

 もうすぐで大きな道に出る。

 そしてそこを右に曲がればもう聞こえる事は無いと半ば走る様な速度になっていたと思う。

 もう少し、もう少しの所で少し大きな声が背中に刺さった。

「出張ホストかしら……誘ったのかしら……あの人もまた死ぬんじゃないの」

 耳の良いのが本当に嫌になるが、

「おい」

 気の短いのはもっと嫌になる、気がつくと私は怒鳴っていた。

 周りのおばさん達はビックリして声も出ないが、高居さんは意地の悪い笑みを浮かべてこっちを見ている。

 走って近づき、

「彼女のことを何も知らないくせに、変な事ばかり言うな」

 つかみ掛からん位の勢いで怒鳴りつけた。

 他のおばさん達は怯んでいたが、高居さんは変わらずに言い放つ。

「だって本当の事を言っていただけじゃないの。じゃあ貴方は何を知っているの。て言うか貴方は何なの」

「私は……」

 言いよどんでしまった。

 何て言ったらいいのだろうか。

 金髪にブランド物のシャツ、純金のネックレス、悪趣味なブレスレット、時計はロレックス、おまけに人相も相当悪い。自分で政治家や資産家の秘書、と言っても何の説得力も無いだろう。

 答えに困り黙っていると、

「体しか知らないんでしょ」

 呆れ笑いで言われてしまった。

 怯んでいた他のおばさん達もこの言葉で一斉に大笑いとなる。

 もう悔しくて泣きそうになった。

 気がつくと飛田さんが横にいた。

 そして平然と私の手を取り、とんでもない事を言った。

「うちの夫が失礼しました」

 笑顔でそう言って高居さんに一礼すると、私に体を寄せた。


 高居さんは驚いていた。

 おばさん達も驚いていた。

 私はえっ、という顔をして固まってしまった。


 高居さんは急に話かけられて、その内容にも驚きつつ飛田さんに聞いた。

「えっと……ご主人なの?」

「はい、結婚はまだですが婚約をしています。病気やケガの治療につきあって頂いているうちに私の方から好きになってしまいました。私の事を全て知った上で結婚して頂けるとても優しい方です。式はまだなのですが近いうちに」

 飛田さんは満面の笑みで答えた。

「それは……失礼しました」

 高居さんは飛田さんから直接話しかけられると弱いみたいで、ばつの悪そうな愛想笑いを浮かべながら他のおばさん達を引き連れて、逃げるように何処かに行ってしまった。

 まったく何なんだ、親子揃って。(高居さんは高居先輩の母親)

 道路に唾を吐いて横を見ると、真っ赤な顔をして固まっている飛田さんがいた。 その顔がとても可笑しかったが、笑っては失礼なので黙って優しく手を引いた。

「行きましょう」

 促すと恥ずかしそうに、気まずそうについてきた。

 手を握っているのを思い出してか慌てて放そうとする。

 その手をしっかりと握る。

「婚約しているのだから、これ位いいですよね」

 飛田さんは更に赤い顔になりながら、無言で何回も頷く。

 ずっとこうして歩きたかった。

 図らずも願いが叶い、高居さんを少しだけ許す事にした。

 天気の良い夏の日の夕方、擬似の夫婦ではあるが、本物以上に仲良く寄り添って歩いた。


 ベネチアは個室もある洒落たイタリアンのお店で、評判は当時から良かったがお値段もよく、高校生の頃はとてもじゃないが連れて来られなかった。

 評判に違わぬ美味しさに大変満足する。

 調子に乗ってワインを三本空けた。

 心地よく、意識は深く落ちていった。



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