第20話 峯雲

 朝の柔らかい日差しを目に感じる。

 気持ちの良い風が顔を撫でている。

 胃の辺りは少し重だるいがいつまでも寝ていられそうな、とても良い優しい気持ちでウトウトと寝ている。

 おや、いつ寝たんだ?


 慌てて飛び起きた。

 周りを見ると飛田家のソファーの上だった。

「やってしまった」

 頭を抱える。

「お目覚めですか」

 不意に声を掛けられビクッっと体を震わせる。

 洗濯物を持って庭に出ようとしていた飛田さんが笑いながらこちらを見ていた。

「すいません」

 もう私は酒を止めようと思った。

「いいえ、少しだけ重かったですけど」

 しかもちゃんと歩いて戻って来なかったらしい。

 途中から全然記憶が無い。

 また泥酔してしまったか。

 もう申し訳ないやら恥ずかしいやら、で胸がいっぱいになる。

「キッチンにサンドイッチがありますから、お腹空いていたらどうぞ。今コーヒーでも淹れますね」

 時計を見るともう十時過ぎを指していた。

 慌てて立ち上がりおずおずと話しかける。

「あの、私も手伝います」

 一緒に洗濯物を干そうと思った。

 よく見たら私のシャツまで入っている。

 いつの間に脱いだのかTシャツ一枚だった。

 慌てて下を見るが下は履いていてホッとする。

「別に大丈夫ですよ。ゆっくり寝ていて下さい」

 何でもない様に笑顔で言われる。

「いや、しかし」

 尚も食い下がる。

 飛田さんは少し考えた後、

「では、車を取ってきて頂いても宜しいですか。大林モータースさんといいまして、ええと、場所は」

 場所を説明しようとしたのか、紙とペンを探す仕草をする。

「ひょっとして、昨日ゆにーくろに行く途中にあった、可愛い犬の看板のお店ですか。だったら場所はわかります」

「あっ、そうです。そこでポルテ君……私の車が整備終了しているので。ロードスターのバッテリーもそこで買ってきていかがですか」

「わかりました、ではすぐにでも」

「あっ、でもポルテ君、少し運転しづらいけど大丈夫かなぁ」

 こちらを心配そうに見る。

 ポルテの何処が運転しづらいのだろうか。(トヨタのコンパクトカー)

 あっ、ひょっとして可愛い塗装でもしてあるのか、それは少し嫌だなぁ。

 しかしこのまま寝ているのも恐縮すぎる。

「大丈夫ですよ。車は詳しいので」

 そう言ってこの場から走り出す。

 後ろからあっ、と言う、呼び止める様な声がしたがまた飛田さんの気遣いだろうと思い、大丈夫ですという風に左手を挙げそのまま走って行く事にした。


 飛田家から十分もしないで大林モータースに着く。

 外車から軽自動車まで扱い、しかも値段が安いので私が高校生の頃から評判が良かった。

 そういえば飛田さんとここにロードスターを見に行ったな。

 店のスペース一杯に車が展示されていて、その奥が整備工場になっている。

 その左横に事務所がある。

 すいませんと言いながら、引き戸を開ける。

 いらっしゃいませとスタッフが出てきた。

 飛田さんから連絡頂いています、バッテリーは新品とリビルトどちらにしますかと聞かれる。

 勿論新品を買い会計を済ませる。

「飛田さんの車は整備工場の手前に停めてあります、鍵はささっていますので。ではお気をつけて」

 どうも、と頭を下げて店を出る。

 その昔、買いもしない高校生の私と飛田さんをロードスターの席に座らせてくれたこの人は今も元気に働いていた。

 懐かしい気分になりながら工場の前に来て絶句した。

 これかぁ。真っ赤の車体、ボンネットに可愛らしい浦安黒ねずみが大きく書かれている。

 ポールには白い手が付いていて、アンテナには何だか知らないが可愛いのが付いている。

 車の中に目をやると黄色い熊と浦安黒ねずみが後部座席一杯に所狭し、と犇きあっていた。

 これは確かに、運転しづらいなぁ。

 苦笑する。

 大丈夫と言ってしまった手前、やっぱりごめんなさいと言う訳にはいかず、ドアを開けようとするが開かない。

 おかしいな、鍵刺さっているって言っていたのに。

 あれっ、これよく見たらポルテじゃなくてパッソだぞ。

 周りを見てもポルテが無かった。

 工場の前に停まっているのはこれの他は外車が二台。

 まさかな、と思いながら外車の方のドアを開けると開いた。

 すげえポルテだな、おい。

 マセラッティのクワトロポルテの事だった。(新車で一千万円以上する)

 運転席に座ると国産とは比べ物にならない位の質感、白い内装、金のアナログ時計、正に高級車。

 左ハンドルなんて初めて運転するぞ。

 緊張しながらエンジンを回し、恐る恐る出発した。

 人が走っても十分かからない距離、車なのに同じ位時間が掛かってしまった様な気がする。

 擦らない様、ぶつけない様、物凄く慎重に運転した為飛田家に着いた時足はガクガク、背中は汗で濡れていた。三台は入りそうな大きな車庫だが車庫入れにも時間が掛かってしまった。

 ようやく車庫に入れてホッと息をつき車外に出る。

 庭掃除をしていた飛田さんがこちらに視線を向ける。

「運転しづらくなかったですか」

 申し訳なさそうな笑顔でこちらを窺う。

「いえ、全く」

 引きつっていたかもしれないが笑顔で答える。

 勿論嘘である。

 震える手でドアを閉めた。

「しかし、凄いのに乗っていますね」

 維持費だって高いだろうに。

 それこそトヨタのポルテにした方がいいのに。

 車が好きなのかな、等と考えてしまう。

「もらい物なんですよ」

 視線を逸らし、遠くを見て言う。

「ファンの方からですか?」

 暑さからTシャツをパタパタさせながら聞く。

 少し間があった。

 これは聞いてはいけない分野の話だったんだなと感じ、話題を変えようとしたが彼女の方が口を開くのが早かった。

「外国で亡くなった方のご両親がくれました。たくさんのお金も。職業と未来を奪ったお詫びだそうです」

 夏なのに背筋が寒くなった。

「本当に使い切れない位お金を頂きました。宝石も車もたくさん、もう一生働かなくても良い位に。これでただの事故と言う事にして欲しいと。もうどうでも良くなってしまい、頷いた様な気がします」

 口元は笑っているが、目が笑っていなかった。

「最初はこの車もすぐ売るか捨てるかしようと思ったのですが、私みたいに捨てられたり、お金に換えられたりしまっては可愛そうで。車は修理したり、部品を交換したりすればちゃんと動きますしね。しかし……」

 飛田さんが両手で顔を覆った。

「何で人の体は替えが利かないのでしょうね」

 肩が振るえ泣いているのが解った。

 飛田さんは割と身長があるのだが、小さく見える。

 二十歳代後半なのに子供、少女の様に泣いている。

 そして泣き止む様子が見られなかった。

 抱きしめたかった。

 しかしその様な事が出来る訳が無……い訳でもなかった。

 今まで甘える相手がいなかったんだ。

 少しくらい良いだろう。

 胸が高鳴り、手先が震える。それを感じ取られない様に一呼吸置く。

 そしてゆっくりと、壊れそうな細工を包み込む様に抱きしめた。

 飛田さんは少し驚いた顔でこちらを見る。

 その頭を優しく撫でた。


「飛田さんとは婚約している……訳ですからこれ位宜しいですよね」


 しかし視線を逸らされる。

「嫌です」

 駄目か。

 調子に乗りすぎたか。

 慌てて手を離す。

「そうじゃなくて」

 そう言うと今度は抱きついてきた。

 私の胸に顔を埋めたまま言う。

「婚約しているなら……名前で呼んで」

 はぁ、と声に出てしまったかも知れない。

 十年以上呼んでいなかった、この名前をまた言えるとは思わなかった。

 しかし、許可が出たからには言わざるを得ないだろう。

 かみ締めるようにゆっくり、優しく、

「郁美……さん」

 呼んでみた。

「はい。名可男さん」

 名前で返ってきた。

 千葉の田舎町、夏の正午前、擬似の婚約者が誕生した。


 お昼になり、二人で素麺を啜っていると電話が鳴った。

 私の着信音では無い。

 向かいの席から呆れた様なため息一つ。   

「食事中なのに」

 そう言って見向きもしない。

「よろしいのですか」

「多分長くなりますからね」

 何でも無い様に言う。

 はぁ、などと気の無い返事をして、私も麺を啜っているととんでもないことに気づいた。

 携帯鳴らないなぁ、と思っていたらマナーモードにしていた。

 着信音が無かったので見もしていない。

 こっちに来てから少し浮かれていたのもあるかもしれない。

 着信四十件。

 無言で携帯を閉じた。

 食後は二人共電話タイムとなった。

 とりあえず私は庭に出る。

 着信四十件の内、三十七件は美貴さんからだった。

 震える手で会社に電話を掛ける。

 若いのが出てどなたですかと聞かれたのでテドコンです、と答えた後、間違えた渡邉です、と言い直す。

 どちらの渡邉さんですか、と聞かれたので社長の渡邉です、と答えると若いのは慌てて電話を保留にした。

 誰かを呼びに行ったのだろう。

 緊張の時間、保留音の間抜けな音を聞きつつ、さぁどうしようか……と考えていると音が消え、

「何で電話に出ないの!」

 美貴さんの怒鳴り声がした。

 正直怖かった。

「いやいやすんません」

 もう完全に平謝り。

「心配したよ。正直さらわれたか逮捕されたか、最悪殺されたか。無事なんだよね」

「はい、大丈夫です」

「それで何時帰ってくるの。本田さん(警察のОB)があさって位にでも会いたいと言ってきているけど」

「それまでには帰ります」

「本当にお願いしますよ。社長が居ないと肝心な所でうちは駄目なんだからね」

「はい、すいませんでした」


 終始平謝りで電話を終える。

 相変わらず怖いなぁ、可笑しくなり笑いながらリビングに戻るとまだ郁美さんは話をしていた。

 本当に長電話だなと思いつつ手持ち無沙汰なので、ロードスターのバッテリー交換でもしようと車庫へ向かった。

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