第27話 夕凪

 もう二十時になろうかというのに新聞が読める位明るい。

 島独特のものなのだろうか。

 確か大家は昼喫茶店、夜はバーをやっていると言っていたからもうやっているだろう。

 車を走らせている間、郁美さんは終始無言で何かを考えている風であった。

 オレンジ色の空が藍色に変わりそうな頃、先程契約したばかりのマンションに着いた。

 真っ白の外観な店舗の茶色いドアを開け中に入る。

 思ったより広く、程好く落としてある照明が白い壁、フローリングを浮かび上がらせる。

 八つある木のテーブルにロウソクが灯っている。

 大きな窓からは外が見え、月の光が照らす黒い海が広がっていた。

 空は星空が広がっている。

 こんな雰囲気の良い所は東京でも大阪でも中々無いぞ、と思いながら周りを見るが人が居なかった。

「すいませーん」

 大きな声で呼んでみるとカウンターの方でドシンと大きな音がした。

「あっ、いらっしゃい」

 身長百六十センチ位、細身で顎髭の男が目を擦りながら言う。(完全に寝ていたようだ)

「すいません、3Fに今度引っ越して来た者ですが」

「はじめまして、飛田といいます。宜しくお願い致します」

 丁寧に挨拶をして深くお辞儀をする。

「ああ、どうも。上に住んでくれる人ね。私ここのオーナーの高江洲といいます。ええと、普段は嫁と二人でやっているのですが、今日モアイで居ないので」

 モアイ? 何の事だか解らないが地元の行事だろうか。

「まぁ、お近づきの印に一本サービス」

 泡盛のボトルを出し、ピッチャーで水割りを作り出した。

「二人ともお酒は飲めますか」

 作ってから聞くあたり商売っ気が無いなぁ、とある意味感心してしまう。

 

 カウンターには泡盛のグラス三つと塩辛が置かれた。

 乾杯の後、ちょっと失礼と言って、マスターは奥で何かを作り出した。

 泡盛は久しぶりだなと思いながら、確か味きつかったなと思い出し口を付けてみたが案外飲みやすく、割と好きな感じだった。

 また何の塩辛かは解らないがこれと非常に良く合う。

 やばいなぁ、これ進んじゃうよと隣を見るともう一杯飲み干していた。

「ペース速いですね」

 空のコップに注ぐ。

「凄く良い飲み口で。これは進みますね」

 と言いながらまた一気に飲み干していた。

 奥からマスターがソーセージと島らっきょうを持って現れた時は四杯目を飲み干し、五杯目に入っていた。

「あら、随分とペース速いね。もうこんなに飲んだの」

 笑いながらピッチャーに泡盛と水を追加する。

「ええ、とても飲み易くて。それにこの塩辛も合いますし」

 少し赤ら顔で郁美さんが答える。

「そうでしょう。それ、伊良部で獲れた魚の塩辛で、それで飲むと進みますよ」

 マスターも泡盛を一気に飲み干す。

 空になったグラスにすかさず郁美さんが注ぐ。

「お二人共出身はどちらですか」

「私は茨城県です。あっ名可男さんは……」

「石垣です」

 先を制して言った。

「へぇ、沖縄ですか。何だか内地の方みたいな顔をしていますよね」

「……大阪が長いもので」

「大阪ですか。私も大正区に居たことがありますよ」

 良かった、話が逸れた。

 私の出身の話題には触れられたくなかったので。

 そこからは安心して飲むことが出来た。

 しかしこの泡盛というのは飲み口が良く、三人ですぐ一本空けてしまった。

 マスターが二本目を開けようとしていたので二本目から払わせて下さいと言ったのだが、気にするなと笑いながら言うと平然と開けた。

 本当に商売っ気は無い様だ。

 そして大量にチーズを切ってきて大皿に載せてきた。

 このマスターは陽気で気さくな人の様で、また良く喋る。

 もう何年も前からの友達の様に話が出来た。

 郁美さんも大笑いしている。

 そして二本目もすぐ無くなった。

 何の躊躇いも無く三本目を開けようとしているマスターを見て、この人が近所なら大丈夫だと感じるものがあった。

 彼女の再出発の地としては最高の場を得た様だ。

 安堵と共に酔いが回ってきた。

 よし、今日は飲んでしまえ。

 グラスを傾け一気に飲み干した。

 三本もあっという間に無くなり、何の躊躇いも無く四本目を取り出したマスターに、

「じゃあ今度は洋酒を、私からと言う事で」

 棚のジャック・ダニエルを指差す。

「そう、じゃあこれは頂こうかな」

 マスターがどうも、という様に手を合わせボトルを出した。


 大分酔ってきたな、と思っていたらもう零時を回っていた。

 さすがにマスターは沖縄の人らしく、それ程酔った感じは見受けられなかったが私の隣はもう顔は真っ赤、ベロベロになって常に笑っていた。

「お姉さん大丈夫」

 さすがに心配になったマスターが私に話しかける。

「そうですね、じゃあ今日はそろそろ。郁美さん、それ一杯飲んだら帰りましょう」

 真っ赤な顔がこちらを向き、赤い目が私を見据える。

 そしてニヤッと笑ったかと思うと、

「もう一本飲んでいきませんか」

 棚にあるジョニ赤を指差す。

「いや、もうさすがに……」

 やけに飲むなぁ、少々驚いていると店のドアが開いた。

 女性が入ってきてこっちを見るなり、怒りの形相でカウンターの中に入ってきた。

 奥さんかな、と思って見ていると、いきなりマスターの胸倉を掴んだ。

「あなた。また無駄遣いして」

 カウンターには泡盛のボトル三本とジョニ黒が空いていて、チーズにスパム(ソーセージではないらしい)、島ラッキョウ、塩辛とおつまみが大量に並んでいた。

 伝票も書いていなかったからお金を取らないつもりでいたのだろう。

 こんな事を繰り返しているのだなというのが感じられて、とても好感が持てた。

 財布を持って間に入ろうとしたその時、大きなため息を一つした後、奥さんがマスターを怒鳴りつける。

「何で飛田郁美なんて連れてくるの」


 三人とも何を言っているのか解らない、という顔をしてしまい、その後互いに顔を見合わせてしまった。

「もう有名人は連れてくるなって言ったでしょ。結局高くつくんだから」

 怒りの意味が一つも解らず、戸惑うマスターが口を開く。

「ええと、こちらが三階に住んでくれる事になった飛田さんだけど」

 戸惑いつつも漸くそれだけ言う。

 奥さんはえっ、という顔になった後、ゆっくりとこちらを見た。

 どうも、という風に郁美さんが挨拶をする。

 するとマスターの胸倉を離し、気まずそうに笑いかける。

「す、すいません。またうちの人が有名人を連れて来たのかと」

 奥さんもカウンター席に座る。

「ごめんなさいね、うちの人よく来島している有名人連れてきてうちでコンサートさせたりするんですよ。多額のお礼を出して」

 不満げにため息をつく。

「いいだろ、店の宣伝にもなるんだから」

 マスターが抗弁の声を上げるものの、睨まれて黙ってしまった。

 この家は女性優位の様だ。

 その様子を見て先程から上機嫌の郁美さんはケラケラ笑っていた。

 奥さんはそちらに視線を向け、愛おしそうに言う。

「しかしこんな不便な所に建てたマンションに飛田郁美が入ってくれるとは思ってもみなかったわ」

 ご満悦の奥さん。

「しかし、よくご存知でしたね。もう暫く演奏もしていなかったと思いますが」

「私、音大出ているの。それにこれだけの美人だからよく覚えているわ」

 見えないでしょ、と小声でマスターが私に囁く。

 奥さんは機嫌よく、一気にグラスに入ったジョニ黒を飲み干すと立ち上がって泡盛のボトルを出してきた。

 ピッチャーで水割りにしてみんなに配る。

 やばい、と思って郁美さんの方を見ると一気に飲み干してしまった。

 心底笑いつつも目の焦点が定まっていない。

 しかし妙に色っぽいのも事実で今日の夜は困ったな、などと酔いの中考えていると上機嫌の奥さんが軽い感じで口を開いた。

「良かったら、一曲聞かせてもらえないかしら」

 私は飛び上がってしまった。

 この人は知らないのか。

「だからアーチストに軽くそんなお願いをするな。そういうのはストレスになるんだぞ」

 マスターが奥さんを嗜める。

 奥さんがこういう風にたまには金かけないでやってみろ、と言い返す。

 夫婦喧嘩が始まりそうになる中、当の本人はふらりと立ち上がり、

「いいですよー」

 酔った勢いか軽請け合いをしていた。

 フラフラとおぼつかない足取りでピアノのある方に向かう。

 ガタン

 途中椅子にぶつかり大きくよろめく。

 慌てて駆け寄ろうとするが、こちらを見て大丈夫という風に手を振り、また歩き出す。

 ピアノの前に立ち蓋を開け崩れ落ちる様に席に座る。

 高江洲夫婦は目を輝かせ、その様子を見守っている。

 私は不安で一杯だった。

(本当に弾けるのか)

 鍵盤を見て首を傾げながら押していたが、やがて流れる様に弾き始めた。

 ツェルニーの片手の為のピアノ曲。

 そうか、その手があったか。

 高江洲夫婦から感嘆の声が上がる。

 私も胸を撫で下ろし聞き入る事にする。

 目を瞑り暫し酔いしれ、思い出に浸っていたのだがそのまま二曲目に入ろうとしたその時、急に音が止まった。

 郁美さんの方を見ると動きを止めていた。

 高江洲夫婦はどうしたのかと言う様に顔を見合わせている。

 私は彼女の方に駆け寄ろうとするが、酔っている事を忘れていて派手に転んでしまった。

 その音に気づいてか、ゆっくりとこちらに振り返る。

 笑顔でこちらを見る。

 その笑顔は他人が見れば自然な物に見えるだろうが、私から見ると痛い、とても痛い。

 地べたに這いながらその顔を見る。

 高江洲夫婦は大きな拍手をしていた。

 郁美さんは真っ赤な顔をしながらフラフラとカウンターに戻ってくる。

 途中、倒れている私に手を差し伸べる。

 その右手を握ると一気に引き寄せられて、勢い余って抱きついてしまった。

 慌てて離れようとするが、郁美さんも倒れそうなのか、私からしがみついて離れない。

「あらあら、仲の良いこと」

 奥さんがからかう。

 マスターがピィ、と口笛を向ける。

「もう帰りましょう。歩けないなら私が抱えていきますから」

 そう言うとはい、と小さく返事を返して頷き、力が抜けた。

 その返事を聞いて、肩と膝に手を入れてお姫様抱っこで抱きかかえる。

 奥さんからわぁ、と声が上がった。

「すいません、今日はこれで帰ります。お代は此処から取って下さい」

 お尻を向け、ポケットの財布から取る様に言ったが、

「何言っているの。いいものを聞かせてもらったし、これから住んでもらうのだからお近づきの印と言う事で」

 手を大きく横に振っている。

 これにはマスターも驚いていた。

「どうもすいません、ご馳走様でした」

 深く頭を下げる。

 彼女をこれからも宜しくお願い致します、と言う様に。

「タクシー呼ぶからちょっと待ってね」

 マスターが電話をかけようとしたその時、凄く小さな声で吐きそう、と訴えるので抱えたまま慌ててトイレまで走り、降ろすとドアも閉めずに吐き出した。

「だ、大丈夫ですか」

「車乗ったら、また吐きそう」

 困ったな、と思ったが問題はすぐ解決した。

 マンション今日契約したばかりだった。

 上に早速泊まる事を告げ、タクシーを辞退した。

 再び姫を抱え、高江洲夫婦に挨拶をする。

「お騒がせしました。では……おやすみなさい」

 また明日、とマスターの陽気な声が返ってきた。

 また、と続けたかったのだが、私はもう来る事は無いであろうから言葉を飲み込み、頭を下げた。

 右手の甲でドアを開け、外に出る。

 包み込む様な、暖かく、柔らかい風が私達を撫でた。

「ねえ、来週うちの一周年記念でピアノコンサートするんだけど、良かったらお願い出来ないかしら」

 店の中から奥さんの声が耳に届く。

 私には背筋の凍る様な要望。

 しかし言われた本人は、

「ええ、良いですよ」

 気軽に答えた。

 やったー、と奥さんの大声が上がる。

 宜しいのですか、と伺いを立てようとも思ったがそれも失礼だし腕が痺れてきた。

 何かやり様が有るのかなと思い、高江洲夫婦に軽く頭を下げて足でドアを閉めた。

 時計は一時を軽く回っていた。


「郁美さん、鍵を出して頂けますか」

 階段を登りながら、腕に抱えている愛おしい人に話しかける。

 ポケットを弄りゆっくりと鍵を私に差し出した。

「いや、二本も要りませんよ」

 一本返す。

 三階の奥の部屋にたどり着き、カード型の珍しい鍵でドアを開ける。

 中はフローリングが月光で照らされていて、それ程暗くない。

 電気のスイッチを入れてみるが、当然まだ手続きをしていないので点かない。  まぁ後は寝るだけだから良いかと思いリビングの中央に郁美さんを静かに降ろした。

 少し離れた所に私も寝転がる。

 静寂の中に、波の音と郁美さんの寝息だけが聞こえる。

 何気なくその横顔を見る。

 気持ち悪いのか、少し顔を歪めている。

 少しでも楽になってもらおうと、周りを見回すが無かった。

 仕方がないので、高江洲夫婦に貰おうと思って外に出ようと立ち上がる。

 声がした様な気がして振り返ると、郁美さんの目が開いていて目が合う。

「何も敷かないと寝づらいでしょうから、ダンボールを貰ってきます」

 そう言うと、

「またダンボールですか。本当に好きですね」

 少し笑った。

「すぐ行って来ますので暫しの辛抱を」

 外に出ようとする私の背中に、

「はい、待っています」

 と優しく声が届いた。

 エレベーターが無いので一階まで走って駆け下り、まだまったりと飲んでいた高江洲夫婦に綺麗なダンボールを貰うと、走って駆け上がった。

 

「ダンボール敷いただけなのに凄く楽」

 そう言ってこちらに顔を向ける。

 喜んでくれている。

 良かった、私も寝転がる。

 銀砂の様な海を照らす月光が、部屋の中に入ってきていて、隣の愛しい人の顔が視認出来る。

 ふと気がついたが、少し離れてダンボールを敷いたはずなのに少し近づいている様に感じる。

 それにその表情は怯えている様にも見えた。

「どうしましたか」

 優しく語りかける。

「あの……ちょっと寝られなくて。あの、良かったら、良かったらでいいのですが……」

 上目遣いでこちらを窺う様にして言いよどむ。

「どこか具合が悪いですか」

 心配になり、こちらから問いかける。

 しかし、その問いにははっきりと首を横に振る。

 そして、意を決した様に口を開く。

「手を握って頂けないでしょうか」

 欠けた左手を差し出す。

 だだっ広いリビングに二人きり、淋しくなったのかな。

「わかりました」


 包み込む様に握る。

 郁美さんの顔に安堵の様な表情が見られたので安心し、天井に視線を戻す。

 静かな夜、波の音と彼女の寝息しか聞こえない。

 ウトウトとしかけた時、小さな、とても小さな声で、

「寒い」

 声が聞こえた。

 この真夏で寒い? 戸惑いながら郁美さんの方を見ると、青白い顔をしながらこちらを見ていた。

「寒いですか」

 小さく頷く。

「ではもう少しダンボールを貰ってきます」

 そう言って行こうとすると、手首を掴まれた。

 その手は確かに冷たかった。

 そしてその手の主は小さく首を横に振る。

 ダンボールでは駄目か、それでは毛布か布団だな。

「高江洲さんから布団を借りてきます」

 そう言って行こうとするも、更に手の力が強くなった。

 よく二本の指でここまで、という位に。

 どうすれば良いのだろうと考えていると、

「手を握っていて下さい。どうか……このまま離さずに」

 弱弱しくもはっきりと言うのが聞こえた。

 手が冷たかったのか。

 納得して両手で左手を包み込む様にする。

 軽く息を吐いたのが感じられたので、横を見たら体を寄せてきた。

 何も心配する事は無い、という風に頭を撫でて再び左手を包み込むと、長く息を吐き、笑みを浮かべ、頭を私に預ける様にして眠りにつく。

 その安堵の様な表情を見ながら、私にも次第に眠気が訪れた。


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