第13話 初夏2


「どちら様でしょうか」

 沈黙を破ったのは彼女だった。

 会うのはあの時以来だから十年以上経っている。

 とにかく私は人相が変わりすぎていた。

 親父の七回忌の時、親戚の大半が私の姿を見て誰だか判らなかった。

 いやっ、ひょっとして全員判らなかったのかもしれない。

 彼女が判らないのも仕方がないか。

「ごめんなさい、目の調子が悪くて」

 目が? そうか。

 その言葉で少しほっとする私がいた。

 しかしすぐに目の調子が悪いの言が心配になり目を覗き込む。

 久しぶり、十年以上ぶりに彼女の目を見る。

 あの透き通っていて眩しくて、ろくに合わせる事も出来なかった目は少々濁り、 真っ赤に充血していた。

「すいません、音楽関係の方ですか? それとも雑誌社の方?」

 いよいよ正体を現す時が来た。

 しかし本当に何て言ったらいいんだ? 

 だいたい夫や彼氏は居ないのだろうか。

 本当に私の事なんか覚えているのだろうか。

 今更正体を明かしてどうしたいんだ。

 考えが交差し混線しまとまらない。

 さっきから一言も喋っていない。

 もう普通にただいま、とか迎えに来たよ、でいいか。後は勢いに任せよう、そう考え口を開く決意をすると、

「帰れ! 売人」

 彼女の怒鳴り声に体ごと飛び上がる程の衝撃を受ける。

 知っていたのか。

 固まり戸惑う私。

 彼女は暫くこちらの様子を伺っていたが、ゆっくりと口を開いた。

「……ごめんなさいこれから目の治療に行きますので。ピアノはもう弾けませんから音楽関係の仕事は全て遠慮させて下さい」

 それだけ言うと口だけに微笑みを浮かべながら俯いた。

 もう喋りたくない、という感じだった。

 売人は私の事ではなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろす。

 もうピアノはもうやっていないのか。

 しかし何故彼女の所に薬の売人など。

 成功の絶頂にいるのではなかったのか。

 そういえばここ数年噂も聞かなくなったしメディアにも出ていなかった。

 また訪ねて来る人間が彼女にとって好ましくない人間ばかりだということは、先ほどの言と今の態度で解かってしまった。何故こうなってしまったのか。


 突然目の前に居る彼女の目つきが変わり震えだした。

 そして門柱に体ごとぶつかりはじめた。

 何度も何度もぶつかった。

 何をしているのか私には見当もつかず、ただ唖然と見ているしかなかった。

 はっと我に返ったのは何度目かの衝突の後、彼女が転倒した時だった。

 額は割れ血が流れていた。

「何をしているのですか」

 慌てて彼女を力いっぱい抱きしめていた。

 暴れて息の荒かった抵抗が少しずつ弱まっていく。

 やがて抵抗は完全に無くなり、放心状態で私の腕の中に納まっていた。そこでタクシーが来た。

 当然帰ってもらった。

 小刻みにまだ震えている彼女。

 幾分正気に返った様ではあったが、目がまだ定まらなかった。

 とりあえずゆっくりと落ち着かせた方がいいな。

「立てますか」

 聞いてみたけどまだ喋れる様な状態では無い様だ。

 仕方がない、肩を貸して立たせる。

 そして家の中に入ろうとした。

 十年以上前と変わらぬ立派な門。

 懐かしさがこみ上げてくる中レバーを引くが開かなかった。そうか、今出かけようとしていたのだから当たり前か。

「すいません、鍵をお貸頂けないですか」

 彼女はまだ放心状態であった。

 困ったな、と思っていたがふと気がついた。

 私の左ポケットから、キーホルダーを取り出す。

 その中の一本を鍵穴に差し込む。

 ガチャリ

 開いた、まだ変わっていなかった。

 お守り代わりにずっと持っていた、あの時渡された鍵は十年以上ぶりに本来の役割を果たした。


 とりあえずリビングのソファーに寝かせた。

 はぁ、どうしちまったんだ。

 対面のソファーに座り空を仰いだ。

 部屋を見渡す。

 昔見たのと印象はそれ程変わらない。

 家具が少なく、相変わらず何となく生活感は無かった。


 どのくらい時間が経っただろう。

 ゆっくりと起き上がる気配がした。

 そちらに慌てて向き直る。

「おはようございます」

 笑顔で言う私。

「あの……あなたは……」

 おどおどと口を開きかけたのを遮る様にまくしたてる。

「私はあなたの知り合いの……秘書なのでご安心下さい」

 不思議そうな顔でこちらを伺う。

「知り合い……の?」


 秘書とは我ながら思い切った嘘をついたものだ。

 金髪でこんな目つきの悪い秘書などいたらお目にかかりたい。

 こんな嘘がすぐに出てきてしまう私に対して笑いがこみ上げてくる。

 しかし彼女はどうしてこうなってしまったのだろう。       

 気がついたのだが彼女の左手の指は第三指から第五指まで無く、小指側の肉が削げ落ちていた。

 目は真っ赤に充血し、先ほどは発作を起こして暴れだした。

 知り合いにいるからわかるがあれは癲癇発作だ。

 更に薬の売人が来る様な言動、売人を心底嫌う様な怒鳴り声。

 彼女も色々あったのだな。

 その色々あった時間の中で生活してきた彼女が、私の事などを覚えていてくれているはずが無い。

 それに私も現職は薬の売人の様なものである。

 万が一覚えていてくれた場合、現職を言わなくてはならないだろうからとても名乗り出る訳にはいかなかった。

 第一仮に私の事を覚えていたとしても、昔の私などとうに死んでしまっているのだから名乗り出るのは不適切だ。

 大体十年以上ろくに連絡もしないで何が約束だ。

 待たせすぎた。

 もう渡邉は彼女の前に出ることが出来ない。

 しかし今の私にはお金もふんだんにあり、一流の医者にも知り合いがいる。

 ならばせめて罪滅ぼしの代わりでもさせて頂けませんか。

 心の中でそう祈りながら言葉を続ける。

「そうです、あなたが元気になる為の全ての治療をしてくる様に言われて来ました。お金は必要ありません。その方が全てお支払い致します」

 治るかどうかは判らない。

 しかしこのまま放っておく訳にはいかない。

 目や癲癇の治療は医者に任せればいい。

 それに彼女は顔色が悪く痩せていた。

 健康になってもらいたい。

 心底そう思う。

 ふと彼女の方を見ると、きょとんとした表情でこちらを見ている。

 どこか心配というよりは不審な感じを読み取る。

「心配ありません。その方はあなたの大ファンであなたには随分勇気付けられて生きてきて成功された方です。何も見返りを望んでいません。望んでいるのは貴方が元気になる事だけです」

 言い終わり彼女の方を見ると今度は口元に安堵と思われる笑みを浮かべ、こちらを見ていた。

「そうですか、それでは……お願いしても宜しいでしょうか」

 部屋の中は電気がついていなかったが暗くは無かった。

 外からの日差しは夕方だというのにまだ強く、カーテンを貫いて入ってきていた。

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