第21話
車庫は屋根付で大きくライトバンが三台は入る大きさ。
ポルテ君(マセラッティ)が堂々と停まっている横で、小さくなっているNAロードスターのトランクを開ける。
ロードスターのバッテリーはトランクに在り、交換は普通車に比べて少し時間が掛かる。
暑いなぁ。
Tシャツ、ジャージ姿だが、みるみるうちに汗だくになる。
バッテリーを取り出すと、その周りが大分汚くなっているので錆止めを塗り、トレーを水で洗う。
そして新しいバッテリーに変える。
もうすぐ終わる所まで来た時、
「何か手伝う事はありませんか」
郁美さんが来て声を掛けられる。
「いえ、もうステーを付けて終わりですから」
「もっと早くに来たかったのですが、電話が長くて」
呆れ顔でそう言い、私にコーラを差し出す。
「これはどうも」
早速開けて一口飲む。
よく冷えていた。
こういった気遣いが出来る人だ。
友達も本来多いだろうに。
周りがしょうもないからこういう境遇にしてしまうのだ。
そしてこういう境遇になってもなお電話が来る位なのだから、やはり素敵な人には変わりないのだ。
体調が戻れば、元気になってくれればもう一度彼女の時間は始まるのかな、そんな事を考える。
「随分長い電話でしたね」
また作業に戻りつつ何気なく聞いてみる。
「ええ」
傍らに座る。
こちらを眺めている視線を感じる。
「暇人だと思って長電話してくる人がたまにいるもので。まぁ間違いでは無いですけど」
ふと笑う。
そういえば聞き上手だったな、と思い出す。
「こうなってしまってからも、何人かは電話してきてくれるので。有難い話です」
完全に外部と切れている訳では無いのだな、少し安心する。
作業を終えたので、工具を片付けコーラに口をつける。
「中には彼氏を無理矢理紹介してくれる人もいるんですよ」
飲んでいたコーラを吹きだす。
「……大丈夫ですか」
「はい、少しむせてしまいました。そそっかしくてすいません」
咳き込んでいる私を見てクスッっと笑い、続ける。
「男前だったり、お金持ちだったり、自信に満ち溢れていたり、素敵な方ばかり。でも全てお断りしていてもう悪いから、いきなり出会い頭での紹介は辞めてって言っているのですけどね」
「いい条件ではないですか。何故断るのですか」
トランクを閉めながら何気なく聞いてみた。
「少し、男性が苦手で」
それもそうか。
「でも、秘書さん……名可男さんにさっき頭を撫でられながら、抱きしめられた時は大丈夫だったなぁ」
長い髪が扇状に揺れる。
「それは婚約者だからではないですか、偽者ですが」
少し寂しい気持ちを押さえつつ、含み笑いで言う。
「そうですね」
郁美さんは笑顔でこちらを見る。
その笑顔は混じりけの無い物に見えた。
私が彼女の役に立っている事が嬉しかった。
体も、そして心も、私が居る時間に少しでも良くなってくれればそれで良い。
心からそう思った。
日差しはいよいよ高くなっていた。
とにかく暑い。
肩の治療前にシャワーを浴びさせて頂く事にした。
大きなリビングのフローリング部分にタオルを敷いて、そこに座って頂いて本日の治療を行う。
腫れは引いてきたし、内出血もあれ以上広がっていない様に見える。
順調に回復している様だ。
安堵しメンタームを患部にすり込む。
しかし治療の都度思うのだが、郁美さんからは頭がクラクラする位良い香りがする。
キャバクラで働いていた頃だって、どんないい女でもこの様な事は無かった。
白いメンタームをそれよりも白い肌にすり込みながらボーっと横顔を眺める。
「どうしました」
目が合う。
「いえ、別に……」
慌てて湿布を取り出す。
「何かおかしいですか」
「何か?」
「今、ずっと見ていましたよね」
いたずらっ子の様に笑いこちらを窺う。
答えに窮する。
「いや、別に。失礼しました」
それだけ漸く言って患部に湿布を当てる。
目も見られず包帯を巻く。
静寂が流れる。
郁美さんが少し笑った様な気がしてそちらを見ると、穏やかな表情で目を瞑っていた。
何かを待っている様にも見える。
これは……ひょっとして……。邪まな考えが頭の中に浮かぶ。
しかし私の勘違いだったら大変な事になる。
すぐに考え直す。
いや、せめて私位は。
「はい終わりました。服を着ても良いですよ」
振り払う様に、いつもより大きな声で郁美さんに告げる。
その声を合図に目を開け、こちらをしっかり見る。
「ありがとうございました」
全幅の信頼しきった様な表情をこちらに向ける。
小さく息を吐くのが聞こえた。
これで良かったのだ。
正しい選択だったと思う。
第一もう資格は無い訳だし。
道具を片付け時計を見るとまだ十五時過ぎ、時間が潤沢に有る。
皮肉な物だ。
あれだけ欲しかった時間、お金も今は沢山有る訳だから。
いや、逆に考えるとここまでかかってしまったと言うべきか。
もっと良い方法は無かったのだろうか。
いや、もう遅いな。
私が今、しなくてはいけないのは郁美さんが元気になってくれ、時計を進める事が出来るようにする事のみ。
「さあ、この後はどうしましょうか」
勤めて明るく聞いてみる。
郁美さんは少し考えた後、
「明日花火大会があるので、浴衣買いに行きませんか」
「おお花火ですか、それは良いですね。ぜひ行きましょう」
「じゃあ着替えてきますね」
楽しそうに言うと、トタトタと部屋を出て行った。
車庫で待っていると、涼しげな長袖のシャツを着て出てきた。
ふと手に目を落とすと、左手があった。
美容義手という物であろうか、ほとんど本物と変わらない。
「本物みたいでしょ」
視線に気がついたのか、気恥ずかしそうに聞いてきた。
「いや失礼。しかし本物みたいですね」
「偽者には変わりないのですけどね」
笑顔で返すが、少し、本当に少し残念そうに言った。
つい凝視してしまった事を悔いる。
もうこれ以上この話題にならない為、話しを変える様に切り出す。
「どこまで買いに行きましょうか」
「銀座に行き着けの和装のお店があるのでそこまで」
そこまで言って、少し考える仕草になりやがて、
「近くのデパートにしましょうか」
と結論づけた。
「私はどこでも良いですよ、では出発しましょう」
声を掛ける。
それでは、と車のキーを渡された。
「……ポルテ君今日はもういいです。私の車で行きましょう」
「この車、誰も運転したがらないんですよね」
キーを指でくるくる回し少々残念そうなご様子だがさすがにそれはそうだろうて、と心の中で突っ込んでおいた。
デパートの一階の喫茶店でアイスコーヒーを飲んで待つ。
郁美さんは長く掛かるそうで、別々に売り場に行く事になった。
早く終わった方がここで待っているという手はずになり、私は早々に甚平と雪駄を買ってしまったので先に着いた。
大分時間が経った様な気がしてふと時計を見るとまだ十五分程だった。
まだこんなものか。
一時間位経っているかなとも感じたのだが好きな人を待っている時間と言うのは長く感じる様だ。
そこで気づく。
郁美さんもこの様な思いをしていたのかな。
この何千倍、何万倍の気の遠くなる時間を。
やっぱり渡邉は名乗り出られる訳がなかった。
冷房が良く効いている喫茶店、少し寒くなり今度はホットが飲みたいなと思い席を立ちグラスを返却棚に置き、レジに並んでいると大きな袋を持って郁美さんが店内に入ってきた。
大きく手を振るとこちらに気づき、小走りに近づく。
「待ちました?」
「いえ私も今来たところですよ、何にしますか」
「すいません、では名可男さんと同じ物で」
すっかり下の名前で呼ぶのが定着してしまった。
彼女も寂しかったのかな。
機械から出てきたコーヒーを店員がトレーに載せる。
そのコーヒーの色が何時もより黒く見えた。
帰りの車の中では外国の花火の話題となった。
郁美さんの話では外国の花火とは日本の花火の様に正しく円にならない様だ。
「花火の美しさは、日本が一番だと思います」
日本の花火しか見たことの無い私はへぇー、と言っているしかなかった。
しかし彼女の外国の話は興味深く、日本でしか生活したことのない私にはとても新鮮だった。
イギリス英語とアメリカ英語、微妙に言い方が違うなんて初めて知った。
楽しそうに外国の話をする郁美さん。
少し疑問が浮かんだ。
では何故帰って来たのだろう。
あの家は家族で住む為の家で一人きりの彼女は随分寂しい思いをした筈だ。
「では日本では、しかも少々田舎のこの辺では生活していて物足りないでしょうね」
それとなく聞いてみる。
すると当たり前の様に答えた。
「待っていますので」
まだ家族を待っているのかな。
健気である。
たまらず、
「もう、ご家族は来ないと思いますよ」
正直な所を言ってみた。
あの家は一人で住むには寂しすぎる。
「そうですね、じゃあそろそろお引越ししようかな」
左折なので横をみる。
笑顔で言う郁美さんの顔が夕日に照らされて更に眩しく見えた。
少しでも日当たりが良い場所へ。
それが、それだけが私の願いでもある。
夕食はイエロー餃子と韓韓亭のお弁当を買った。
郁美さんは夕食くらい作りますよ、と言ってくれたのだがいつも作らせてばっかりで恐縮なので、これ絶対おいしいですからと言って買ってきた。
昔大好きだったメニュー。
少々お値段は高いが、とても美味い。
味は変わっていなかった。
食後はお茶を飲みながら、テレビのニュースなんかを二人で見ている。
ゆるい時間、満ち足りた時間、ニュースが終わり、続いてお天気コーナーになる。
「本日、藤堂さんはお休みの為、変わって大沢さんがお伝えします」
アナウンサーが笑顔でそう告げる。
思わずえー、と言ってしまった。
それを見て郁美さんが笑いながら聞いてくる。
「名可男さんも藤堂さんのファンですか」
お天気お姉さんの藤堂愛子さんは顔が小さく可愛らしくて愛らしく、年は私の一つ、二つ下位だろうが随分若くも見える。
夜のお天気お姉さんの中ではおそらく日本で一番人気が有るのではないだろうか。
何度彼女に癒されたことか。
「ええ、まぁ」
曖昧な返事を返す。
「でもあの子、つきあうとなると結構面倒かもしれませんよ。とにかく電話は長いし、いろんな所に引っ張って行かれるし、気も強いですから。この前の彼氏さんは、キャバクラの女の子からのメールを見られて、ガラスの灰皿で殴られたそうですよ」
可笑しそうに笑う。
「よく知っていますね」
何気なく言って、お茶を飲む。
「だって、さっきの長電話アイコン……藤堂さんからですよ」
お茶を噴き出してしまった。
「だっ、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
ゲホゲホむせながら答える。
郁美さんが台所から布巾を持ってきて、テーブルの上を拭いてくれる。
落ち着く為にもう少しお茶をすする。
「よかったら紹介しましょうか。寂しいから彼氏欲しいって言っていましたから」
もう一度噴き出す。
「ほっ、本当に大丈夫ですか」
「いやっ、そそっかしくてすいません」
慌てふためき平謝り。
少々、いや大分驚きつつも、少し間をとって冷静に答える。
「いや、いいです」
大きく手を振り、拒否する。
郁美さんはテーブルを拭きながら、
「何故ですか、今彼女さんいらっしゃらないのですよね」
窺う様な顔で笑みを浮かべこちらを見る。
「いや、本当に。大丈夫ですから」
まさか郁美さんの紹介で他の女性と付き合う訳にもいかず、必死に拒否の意思を示し続ける。
その様子を見て、
「名可男さんは本当に、本当に変わっていますね。アイ……藤堂さんを紹介する、なんて言ったら普通の男の人だったら飛びつくでしょうに」
少し呆れた様な笑いを向けられる。
そして、
「好きな人でもいるのですか」
目で射抜かれた。
「あっ、あの……」
郁美が居なくなった後、何度か女性と付き合った。
全てそれは練習台、高みに行った郁美と再び会った時、しっかりエスコート出来る様に、しっかりリード出来る様に、と考えて付き合っていた。
寂しさに負けたというのもあるかもしれない。
しかし次第に何の為の練習台と考える事もしなくなった。
やがて女性に心と心の繋がりを求めなくなり体のみを求め、今に至った。
そんな私を郁美さんの目は射抜き続けた。
目の前にいるあなたです。
言ってしまおうか。
言える訳もなく睨まれたカエルの如く黙り続けた。
「いるんだ」
いたずらっ子みたいにからかう様に言う郁美さん。
そして息を少しだけ吐いた。
私から目を逸らす。
「明日の花火、楽しみですね」
黒髪が揺れた。
「そうですね」
そう言うのが精一杯だった。
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