3.繋がる声
最初は、空耳だと思った。
はっきりと聞こえるようになってからも、どこかの軽音楽サークルがゲリラライブでも始めたのかと考えた。
しかし、それにしてはあまりにも近くから聞こえる。
鼻歌は、音程をまったく外すことなく、メロディを奏で続けた。ノイズが混じっているが、綺麗な高音だとわかる。
どこから聞こえているのだろう。
「あの……誰か、いるんですか?」
僕はおそるおそる、問いかけてみる。
すると、鼻歌がピタっと止まった。反応をうかがうが、何も起こらない。
この小屋の中に隠れる場所はない。だとすれば、小屋の外だろうか。しかし、窓から顔を出してみても、人の姿は見えない。
どこかにスピーカーが設置されていて、そこから聞こえたのだろうか。
先ほどの僕の問いかけに反応して鼻歌が止まったことを考えると、こちらの声も聞こえている可能性が高い。
「どこにいるんですか?」
次は、具体的な質問をぶつけてみる。
僕の発言から数秒後。
〈どこって、公園のベンチですけど。あなたこそ、どこから話しかけているんですか?〉
少しこもったような声が返ってきた。高さからして女性のようだ。
「公園? いや、ここはキャンパス内で、公園なんて……」
僕がいる場所はキャンパスの端である。柵の外側にも、道路を挟んで工場が建っているだけだ。
〈キャンパス……ということは、大学ですか?〉
僕は、隣に置かれているバッグに手をかけた。バッグの近くで声がしたように思えたのだ。いったん持ち上げて、床や壁を念入りにチェックする。だが、何も仕掛けはなさそうだ。
「はい。そうですけど……。あれ?」
バッグの中も確認し、おかしなことに気付く。
僕は、約二年前に拾った石を小さな巾着に入れ〝お守り〟として、常に持ち歩いているのだが、そのお守りが淡い光を放っているのだ。
そして、僕が巾着から石を取り出した瞬間だった。
〈どうかしました?〉
思わず、身体をのけ反らせた。相手の声が、その石から聞こえたような気がしたのだ。
「お守りが、光ってるんです?」
〈お守り?〉
今度ははっきりと、石から音が聞こえた。その声からは、先ほどのこもった感じは消えていて、僕の耳にはっきりと届いた。
「あ、ええと……昔、拾った石のことです。それをお守りにして持っているんですけど、今、淡く光っていて……」
僕は簡単に説明した。
〈石? ……あっ!〉
声の主は何かに気付いたようで、ガサガサとどこかを漁るような音がした。
〈私のも、光ってます〉
「〝私の〟ってことは……あなたも石を?」
〈はい。父から譲り受けたものなのですが……。その石からあなたの声が聞こえます〉
「白くて、五センチくらいの石ですか?」
〈そうです。キーホルダーに加工されていて、いつもバッグにつけているものです〉
どうやら、こちらと全く状況が同じらしい。
「なるほど。僕たちはこの石を通して、離れた場所にいながら音声のやり取りをしている、ということですかね」
自分で言ってバカらしくなる。だが、大学の敷地内にいる自分と、公園にいるという彼女が話している状況は、正当な理論できちんと説明できる気がしなかった。
〈そうみたいですね。信じられませんが……〉
信じられないのは僕だって一緒だ。
どこかにトリックがあると考えるのが普通だが、それにしては、彼女の声はあまりにも自然すぎるのだ。若干のノイズは混じっているものの、石から発されていることは間違いない。
大学のボロ小屋にいる僕と、公園のベンチにいる彼女。二人の声は、不思議な石を通して繋がった。
物理法則を完全に超越した不可解極まりない現象に、頭が追い付かないでいる。
しかし同時に、心のどこかでは受け入れている自分がいた。
二年前、空から落ちてきた光を見たときや、石を拾ったときに感じた不思議な何かが、今たしかに証明されている。
僕たちは、声が聞こえる範囲を調べるために簡単な実験を行った。
最初に、「聞こえますか?」「聞こえます」という会話を繰り返しながら、彼女はその場を移動する。
その結果、ベンチから二メートルほど離れると僕の声は聞こえなくなるようだった。
同じように僕も石を持って小屋の中を移動してみたり、小屋の外に出てみたりした。小屋の外でも声が届かないことはないが、何を言っているか聞き取れない。
基本的に彼女と会話が成立するのは、小屋の中と言ってよさそうだ。
次に、二人で同じ方角に移動しながら、声が届くかどうかを試した。位置が同じ方角に同じ距離だけずれていても、会話ができる可能性があるのではないかと考えたのだ。
結果は予想と違うものだった。やはり彼女はベンチを中心に半径二メートル程度、僕は小屋の中にいるときにしか声が聞こえなかった。
〈つまり、ある決まった空間に二つの石が存在する場合に、私たちは石を通して音声をやり取りできる。こういうことでしょうか〉
彼女は、簡潔に実験の結果をまとめた。
「はい。おそらくは」
この現象はもちろんだが、平然と理性的なやり取りができている彼女に対しても、僕は驚いていた。
声と話し方の感じからして、まだ中学生か高校生くらいだろう。
いきなり知らない男の声が聞こえてくれば、パニックに陥るのが普通なのではないか。僕ですら動揺していたのに。
そんな彼女と会話をしながら、思ったことがある。
僕がこうして彼女と出会ったことには、何か理由があったのではないか、ということだ。
今までに経験したどの出会いよりも、この邂逅は特別だった。
運命とか巡り合わせとか、そんなものは何一つとして信じていない僕が、必然性を感じるほどに。
しかし、その根拠はどこにも見当たらない。なんとなく、としか言いようがないのだが、とにかく僕は、彼女ともっと話していたいと感じた。
僕たちの間には、沈黙が漂っていた。
こんなとき、何を話すのが正解なのだろうか。いや、石から声が聞こえるなどという、常識の範疇を超えた状況においては、正解も何もないのだろうが。
「ええと、せっかくですし、自己紹介でもしますか?」
僕は何を言っているのだろう。気味悪がられて、相手が二度とその場所に来なくなってしまうかもしれない。もしくは石を破壊してしまうということも考えられる。
しかし彼女は、僕の心配とは裏腹にこう答えた。
〈そうしましょう。ですが、お互いに初めて会話したわけですし、住んでいる場所や学校名を教えるのは抵抗があります。そんなわけで、個人を特定されない最低限の情報ということで、明かすのは下の名前だけにしておきませんか?〉
善良な一般人としては、知らない人と話すのは危ないからやめておけ、と注意すべきなのだが、その『知らない人』というのが今は僕自身であり、決して危険な人物でもないと自負しているため、口にはしない。そもそも、僕から言い出したことでもあるのだ。
結局、僕は「わかりました」と賛同の意を示した。
〈ありがとうございます。私はイズミといいます。伊豆の伊にさんずいに登るで、
頭の中で、彼女の言った漢字を並べてみた。お世辞ではなく、いい名前だと思った。
「伊澄さん、ですね。僕はソウヘイです。宗教の宗に
僕も同じように、名前と必要最低限の身分を告げる。
〈宗平……?〉
伊澄が、僕の名前を小さく呟いた。一瞬、呼ばれたのかと思ってドキリとする。
「どうかしましたか?」
〈いえ、知り合いに同じ名前の方がいまして……〉
僕が尋ねると、彼女はそう答える。
「まあ、そんなに珍しい名前ではないので」
僕の方は、知り合いに伊澄という名前の女性はいなかった。なので、伊澄の知っている宗平という人物は僕ではないはずだ。
〈そうですよね。たぶん別人だと思います〉
「あ、そうだ。さっき伊澄さんが歌っていた曲、僕も好きです」
ある音楽グループの有名な曲だった。僕もよく聞いている。
〈なっ……止めてください! 恥ずかしいです〉
初めて伊澄の声に、感情らしき感情が現れて、僕は少し嬉しくなった。
「ああ、すみません。でも、かなり昔の歌ですよね。高校生が知ってるなんて、驚きです」
〈小さい頃、よく聞かされていたんです。両親に。おかげで、いつの間にか私も歌えるようになっていました。逆に、最近はやっている曲なんかはほとんど知りません〉
「最近はあまり曲は出してないですからね」
〈あれ……。でも、そのグループってもう解散したんじゃ……〉
彼女は当惑の入り混じった声で言った。別のグループと間違えているのかもしれない。
「えっ? 解散はしてないはずですよ。ライブとかも結構やってるみたいですし」
〈そうなんですか。すみません〉
「いえ、謝ることは……」気まずい沈黙が流れたので、話題を変えてみる。「さっき、公園にいるって言ってましたよね。その……学校はお休みなんですか?」
少しためらいがちに聞く。普通だったら高校生も昼休みの時間だが……。
〈ここ、学校の近くの公園なんですよ。昼休みなので、ここでお弁当を食べようと思って。そろそろ授業が始まってしまうので、戻らなければいけません〉
どうやら、学校に行っていないというわけではないらしい。だが、女子高生が一人、公園で昼食を食べているというのは、少し不自然なように思った。
「そうですか。……今日は、お話しできて楽しかったです」
少しためらいがちに付け加えたひと言は、彼女を困らせていないだろうか。
〈私も、まあまあ楽しかったです〉
まあまあ……か。
「あの……明日も、同じ時間に試してみませんか?」
伊澄との関係が今日だけで終わってしまうのが惜しかったし、この不思議な現象自体にも興味があった。
〈はい。そうしましょう。それでは失礼します〉
それからすぐに、彼女と僕をつないでいたものは光を失って、ただの白い石となった。伊澄がベンチから離れたのだろう。
この不思議な現象は、今日だから起きたことなのだろうか。
それとも、場所の条件さえ揃っていれば、明日も明後日も、時間に関係なく起きる現象なのだろうか。
できれば後者であってほしい。そう思っていたことに、自分でも驚いていた。
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