2.日常を変える歌
だらだらと続いた残暑が終わりを迎え、肌寒さを覚えるようになった初秋。
大和学園大学のとある教室で、僕は量子力学概論の授業を受けていた。
波動関数、シュレディンガー方程式、トンネル効果……。今までは言葉そのものについて、なんとなく聞いたことがある程度だった。授業では深く、理論的にそれらの現象を学ぶ。現象の本質まで理解できると、また違った世界が見えてくる。
そんな風にして、知識を増やし、世界を広げていくことが楽しかった。僕は紛れもなく理系の人間らしい。
教授がレポート課題の説明を終えたところで、ちょうど時間になった。
午前中の最後の授業が終了し、昼休みとなる。
ある者は友人と談笑しながら、ある者はスマホを操作しながら、ある者は一人で黙って教室から出ていく。その様子はまるで、排水溝に吸い込まれる水のようだ。
僕も教科書とレジュメをまとめてバッグにしまい、流れに加わる。
同じような教室がたくさん詰め込まれた建物を出ると、ある場所へと向かって歩き出した。
キャンパス内に点在するモミジは、紅く色づき始めている。
空は快晴で、眩しい陽射しが降り注いでいた。心地よい秋風が涼しい。こんな過ごしやすい日が一年中ずっと続けばいいのに。四季のもたらす色とりどりの美しい風景を度外視して、そう思ってしまうくらい爽やかな正午過ぎ。
多くの学生たちが食堂や学内の購買を目指して歩く中、僕は一人だけ流れに逆らって、人口密度の低い方へと進んでいた。
静かで
上から見ると台形のような形をしたキャンパスの、四隅のうちの一つ。二方向を柵に囲まれた一角。
そこには、木製の古びた小屋が一軒、ぽつんと建っていた。
かなり前に建てられたものらしく、ボロボロで汚い。変色した板が、今にも剥がれ落ちてしまいそうだった。
建付けの悪いドアを開けて中に入る。
床面積は六畳ほど。天井は低く、一七〇センチもない僕ですらつま先立ちをして手を伸ばせば届いてしまう。電気はないが、窓からは適度に日光が入ってきている。
僕が大学一年生の終わり頃に見つけた、お気に入りのスペースだった。構内を散策していて偶然発見した場所である。
床には、実験装置らしき大きな機械や、何かを分解して出てきたようなガラクタが散乱している。そのいずれにも、埃がうっすら積もっていた。
昔、どこかの研究室が、倉庫として使用していたものなのだろう。
極端に暑かったり寒かったりする日や、雨の降っている日以外は、僕はほとんどこの場所で昼食を食べている。
今のところ、食事中に誰かが入って来たこともなければ、僕以外の誰かが使った形跡もない。そもそもこの辺りに有用な施設はなく、誰も近づかないのだ。
つまりこの小屋は、僕専用の昼食スペースとなっている。
他に誰も知らない場所で、ひっそりたたずむボロボロの小屋。適度な狭さも相まって、まるで秘密基地のようだ。
たくさんの人がいる大学内で、この場所を知っているのは僕だけかもしれないという優越感が、胸を躍らせる。
いつまで経っても少年の心を忘れることができない。僕を含めた男の大半は、きっとそういう人種なのだ。
錆びついたパイプ椅子に腰かけると、金属が軋む音がする。この椅子は、元から小屋の中にあったものだ。
朝のうちにコンビニで買っておいたパンを一口かじると、口の中にほんのりと甘さが染み渡った。
僕がなぜ、こんな
大学というのは非常に恐ろしい場所で、入学してすぐに自分の居場所を見つけなければ、いわゆる〝ぼっち〟というものになってしまう。
この残酷極まりない事実を知ったときには、僕はすでにぼっちになっていた。手遅れというやつである。こんな重要なことは、高校の授業で教えておくべきではないか。僕みたいな人間をこれ以上出さないためにも、文部科学省に提案したい。
ぼっちになった経緯も、これといって特殊なものではなかった。
去年の四月に行われた、新入生歓迎オリエンテーションというイベントを、僕は欠席した。少し風邪気味で体がだるく、行けないこともなかったのだが、無理をして参加するほどのものでもないと思っていたのだ。
その選択が間違っていたことを知るのは、それからすぐだった。
授業が始まる日には、すでに学科内でグループが形成されてしまっていたのだ。
僕には、そこに入っていくような社交性も勇気もなかった。僕は昔から、人から話しかけられるのを待っているような消極的な人間だった。
同じように一人でいる学生に声をかけようかとも思ったが、そういった人は全員、一癖も二癖もありそうなヤツらだった。
ピアスをジャラジャラつけて銀色の髪を逆立てていたり、移動が常に全力疾走だったり、授業中に黒魔術の本を真剣に読んでいたり……。そういう、少し変わった方々で、正直に言って僕はあまり関わりたくない。
この大学に、友人と呼べるような人間はいない。入学してから現在に至るまで、僕のキャンパスライフは灰色の一色だけで塗りつぶされたままである。
しかし、一人でいることはそれほど苦痛ではなかった。これは決して強がりなどではなく、単独行動は気楽であるという僕自身の主観的事実に基づく主張だ。誰かといるときに気を遣ってしまう性格の僕は、長い時間他人といると疲れてしまう。
とは言ったものの、楽しそうに大人数ではしゃいでいる学生を見て、羨ましさを感じることもある。せめて、一緒にご飯を食べる友人くらいは欲しかった。
もちろん、僕だってまったく友達がいないというわけではない。
高校時代に仲の良かった友人たちと、長期休暇などに集まることもある。だが、彼らは進学先の大学でも交友関係を広げているようだった。サークルの飲み会や寮の鍋パーティのことを話す彼らは、とても楽しそうだった。
そもそも、大学には勉強をするために通っているのだ。別に、友達作りは学士の学位取得における必修科目ではない。
そんな言い訳をしているうちに、結局一人でいることに慣れてしまった。そしてこれからも、僕のキャンパスライフは灰色で塗られ続けていくのだろう。
大学が人生の最終地点ではない。まだまだ先は長いのだ。真面目に生きていれば、いつかきっといいことがある。
明るい未来を心から願って、僕は二つ目のパンを食べ始める。
ひびの入った窓ガラスから見える木々の並び方すら覚えてしまった。枝のみの寂しい姿だったそれらは、やがて葉をつけ緑に染まり、色づき散ってゆく。
この場所から見える、季節と共に訪れる変化は、もうすぐ一周する。
今日も、暖色に彩られた木の葉がひらひらと、風に揺られながら舞い落ちる。
そんな何でもない、いつも通りの日常に――。
何の前触れもなく、不思議な出来事はやってくる。
突然、透き通ったメロディが僕の耳に届いた。それは聞き覚えのある旋律で、曲名を思い出すまでに三秒もかからなかった。
誰かが、鼻歌を歌っている。
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