16.思い出は彼方へ
僕が毎週金曜日に、明李さんとお昼をご一緒することになってから、約二週間が経過した。本のことはもちろん、明李さんのバイト先のカフェに来店した面白い客や、僕が実験中に経験したハプニングなど、様々なことを話した。
その度に、新しい明李さんの一面を知ることができる。金曜日になるのが待ち遠しい日々が続いていた。
しかし残念ながら、今日は月曜日。僕は閑散とした小屋で、伊澄と会話をしながら昼食を食べていた。
〈例の件は順調?〉
「うーん、特に大きな進展はないかなー」
例の件というのは、明李さんへの片想いのことだ。同じようなやり取りを、すでに三、四回繰り返している。
〈先週も一緒にお昼食べたんでしょ?〉
「そうなんだけど、距離が縮まらないというか、彼女の方が一線を引いてる感じがあって。結局、当たり障りのない話しかしないで終わっちゃうんだよ」
それでも、何でもないような会話を繰り返して、彼女の好きなものや嫌いなものがわかってきた。少しずつだけど、距離が近づいていることはたしかだ。
しかし、恋愛に関する話題は明李さんからは出してこないし、僕も触れないようにしていた。最初に食事をした日に見せた、明李さんの哀しげな表情は気になるけれど、彼女が話したがらない以上、僕にはどうすることもできなかった。
〈それなら、どうにかして踏み込まなきゃ〉
それは僕だってわかっている。わかってはいるのだが、今の心地よい関係が終わってしまうのは嫌だった。
「でも、嫌われるの怖いし」
もちろん、このままで終わりたくない気持ちだってある。
〈相変わらずウジウジしてるなぁ。そんなんじゃ誰かにとられちゃうよ?〉
伊澄の言葉にドキッとする。
明李さんはものすごく美人なのだ。その上、性格も申し分ない。男から言い寄られても全部断ってきたとは言っていたが、それは同時にモテるということでもある。それに今この瞬間だって、僕の他にも、彼女のことを好きだという男がいてもまったく不思議ではない。
「とられちゃうって……。別に僕のものじゃないし」
そう言ってはみたものの、内心では不安が渦巻いていた。
〈じゃあ、明李さんに彼氏ができてもいいの?〉
「それは……よくない、けど……」
明李さんが、誰かと手をつないで笑っている場面を想像すると、不愉快な気持ちがこみあげてくる。
〈なら、早いとこ仕掛けないとダメだよ〉
「仕掛けるって言ったって、何を……」
行動しなければダメだということは理解しているけれど、まともに恋愛なんてしたことがない僕は、具体的にどんなことをすればいいのかわからなかった。
〈それくらい、自分で考えれば?〉
伊澄は素っ気ない口調で言った。
「伊澄、最近適当になってきてない?」
女子高生に頼る情けない自分を棚に上げて、僕は不満を露わにする。三週間前はあんなに丁寧にアドバイスをくれていたのに……。
〈だって、よく考えてみて。もし今より二人の仲が進展して、どこかに出かけることになったとするでしょ。デートのたびにどこ行けばいいとか、どんな服着て行けばいいかなんていちいち助言してらんないから。いつまでも私に頼ってばっかでどうすんの!〉
一気にまくし立てられる。それは紛れもなく正論だった。いつまでも伊澄に助けを求めるのはよくない。もし、仲が進展すればの話ではあるが……。
「おっしゃる通りです」
それでも不安なものは不安で、心細さが声ににじんだ。
〈それに、私が背中を押さなくても、キミならきっと大丈夫だから。頑張って〉
先ほどとは打って変わって、彼女は優しい声で言った。
「ありがとう。なんか、伊澄には励ましてもらってばっかりだね」
さっきまで伊澄に頼り切っていたことを反省して、僕はお礼を言った。
ただの栄養補給だった昼休みの時間は、ずいぶんと楽しいものになった。
明李さんと仲良くなれたのも、伊澄のおかげだ。
彼女には、色々と助けられてばっかりだ。そんな彼女に、何か僕がしてあげられることはないだろうか。
もうすぐ、伊澄と出会ってから二ヶ月が経とうとしている。当初に比べると、ずいぶんと打ち解けたものだ。お互いに名前と年齢以外のことを詳しく知らないまま、週の半分以上、昼休みに会話をしているという奇妙な関係ではある。
彼女と話していると安心感があるし、きっと伊澄も僕のことをよく思ってくれている。会話の内容も、お互いの素性を隠しつつではあるが、かなり親しい人同士のそれだと思う。僕の方は、恋愛相談にまで乗ってもらっていた。
誰かに恋愛相談をするなんて、以前は想像もできなかった。しかも、その恋のために、かなり積極的に行動している。伊澄に出会って、僕は変わりつつある。
今でこそ自然に話しているが、改めて考えると本当に不思議な現象だ。
石を通して離れた場所にいる二人が会話をしている。
まるで魔法のような出来事に、最初はずいぶんと悩んだけれど、すでに当たり前のことのように彼女と話している自分がいた。
初めて彼女に出会ったときのことを思い返す。あのときは確か、僕が彼女の鼻歌を聞いて――。
「……ねえ」
悪い予感が、全身を駆け巡った。
〈どうしたの?〉
僕の声がこわばっていることに気づいたのか、怪訝な様子の伊澄。
「僕たちが初めて会った日のことって覚えてる?」
勘違いならいいのだが……。
〈覚えてるよ。当たり前じゃん。すごいびっくりしたんだから〉
「じゃあさ、あのとき伊澄が歌ってた歌って、何だった?」
そう。伊澄が歌っていた鼻歌がきっかけで、僕たちは出会った。そこまではいい。しかし――。
〈ちょっと! やめてよ恥ずかしいから! ってか、そんなのも忘れたの? あの歌でしょ? ほら、あの…………あれ?〉
若年性アルツハイマーかよ! と笑いながら曲名を答えてくれることを期待していたのだが、伊澄も思い出せないでいるようだ。僕の悪い予感は当たっているのかもしれない。
「やっぱり、伊澄も思い出せないか」
〈〝も〟ってことは、キミも?〉
伊澄も僕と同様に、不安げな声になっていた。
「うん。僕たちの記憶が消えていってるかもしれない」
かもしれない、と付けたが、僕はほとんど確信していた。
〈記憶が……消えて? それってどういうこと?〉
「昔、どんな話してたか思い出せる?」
〈私の好きな漫画の話とか、キミが大学でやってることとか。色々話したよ〉
そこまでは、僕も思い出せるのだが……。
「具体的な内容は、どう?」
〈……待って、今思い出すから〉
長い沈黙が流れた。その静けさは、絶望に侵された僕たちの未来を暗示しているようだった。
「思い出せた?」
一分ほど経って、雰囲気の重さに耐え切れなくなった僕は口を開く。
〈ダメだ。忘れちゃってる。でもさ、それって昔の話だからってだけじゃないの?〉
「いや、昔っていっても一ヶ月くらいだし、内容まで全部忘れてるのはおかしいよ」
僕も、最近の会話についてはかなり思い出せるが、昔の話になるとぼんやりとして思い出せない部分が多くなる。
〈じゃあ、私たちは……〉
「うん。これは最悪の場合なんだけど、僕たちは最終的に、お互いに関する記憶がなくなってしまう」
常に起こりうる最悪の事態を想定するという癖が、僕にはあった。
〈話した内容だけじゃなくて、キミのことも、そのうち全部忘れちゃうってこと?〉
もともとが現代の技術では説明のつかない現象なのだ。いつかこの不思議な力は消えて、僕と伊澄の出会いは、全部なかったことになったとしてもおかしくない。むしろ、そうなることが正しいようにも思える。
「わからないけど、そうなる……かもしれない」
〈そっか〉
謎の力に導かれて、不思議な出会いをした僕たち。すべてを忘れてしまうには、お互いの大切な存在になりすぎていた。
そしてこのとき、何日か前に感じた引っ掛かりの正体にも気づいた。
「あと、なんか声が小さくなってるような気がするんだけど……」
石から聞こえる伊澄の声の音量が、前よりも小さくなっているのだ。声に混じるノイズも、若干増えているように感じる。
少しずつ変化していったのだろう。一日ずつだとわかりにくいが、もうすぐ二ヶ月が経とうとしている。僕たちの声は、確実に届きにくくなっていた。
追い打ちをかけるようで、言うのを躊躇ったけど、今のうちに話しておきたかった。
〈え、そんなこと……〉
「そっちはどう?」
〈……わからない〉
そう言った伊澄の声は、今までにないほどに弱々しかった。おそらく、彼女も僕と同じように、音の劣化に気付いたのだろう。
〈まあ……でも、そっちの方がいいんじゃない? それならほら、お互いが知られたくないことだって話せるし〉
きっと、石の向こう側で彼女は、無理やりに笑顔を作っている。そんな声だった。
「うん。そうだね」
伊澄の声がはらんだ切なさが痛々しくて、僕はそれだけ言うのがやっとだった。
〈じゃあ、そろそろ行くね。また明日〉
「また明日」
そう答えたが、明日には声が聞こえなくなってしまっていることも考えられる。
数秒後、石が光を失った。
伊澄にはたくさんの勇気をもらった。
彼女のおかげで、僕の運命は変わった。
彼女の笑い声。彼女に言われた言葉。楽しかった会話。そして、彼女という存在。何もかも全て、綺麗さっぱり忘れてしまう。
元々は出会うはずのなかった二人だ。いつか別れが来るのだろうとは思っていた。しかしこれは、あまりにも悲しい終わり方ではないか。
僕と伊澄は、他人に戻る。お互いがお互いを知らないまま、残りの人生を生きていく。
――僕たちは、何のために出会ったのだろうか。
小屋の外に出ると、北風が通り過ぎて行った。寒さが厳しくなっている。
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