17.君の幸せだけを願う


 十一月が過ぎ去り、季節はいよいよ本格的な冬へと突入する。今年もあと一ヶ月で終わってしまう。時間の経過を速く感じるのは、年をとった証拠だろうか。人間の体感する時間は、二十年でちょうど人生の半分くらいだという。そんなことを思い出して怖くなってきた。


「先輩! 期末テスト、すごく良い結果でした。物理なんて、クラスで三位でした!」

 勤務後、バックヤードで帰りの支度をしていると、同じくバイトを終えた文月さんが言った。


「すごいじゃん!」

 目を輝かせて話す彼女に、僕まで嬉しくなってくる。


「先輩のおかげです。本当にありがとうございます」

 感謝されることにあまり慣れていない僕は、気恥ずかしさを覚えて目を逸らす。

「いや、文月さんが頑張ったからだよ。僕でよければ、また教えるから」


「そう言っていただけると嬉しいです! またお世話になると思います!」

「うん。それじゃ、お先。お疲れ様」

 僕は荷物を持って立ち上がり、バックヤードのドアを開いた。


「はい。お疲れさまでした」

 ロッカーの前で帰り支度をしている文月さんが振り向いて挨拶を返す。そのとき、ちょうど彼女はスクールバッグを肩にかけていて、そのバッグにつけられた星型のキーホルダーが揺れ、蛍光灯からの光を反射して煌めいた。


「そのキーホルダー、いいね」

 そんなことを唐突に口走ってしまったのは、伊澄のアドバイスをふと思い出したからだった。


――女の子は褒められるとすごく嬉しくなるの。どんなに小さいことでも。


 前からつけていたのは知っている。ずっと、お洒落なデザインだと思っていた。


「ありがとうございます」

 彼女は笑って言った。社交辞令的な笑みではなく、本当に嬉しそうに。

 そんな文月さんが眩しすぎて、僕は逃げるようにドアを閉めた。




 伊澄にも言った通り、明李さんとは相変わらずだった。前よりずいぶんと距離は縮まったように思うが、恋人には程遠い。


 ある日、大学内のメインストリートを歩いていると、前方に明李さんを発見した。黒い髪が太陽の光を反射して麗しく光っている。後ろ姿を見ただけで胸が高鳴った。恋の病は順調に、僕の全身を蝕んでいるようだ。


 声をかけようとして歩み寄った僕だったが、近くまで来て動きを止めた。男が現れ、明李さんに声をかけたのだ。

 その場で二、三言交わすと、明李さんと男は、楽しそうに喋りながら歩き出した。


 わかっていた。明李さんは僕とは違って、他にも仲のいい友達がいる。理解していたつもりだったが、事実として突き付けられると、思ったよりもショックは大きかった。


 今までそういった姿を目撃しなかっただけで、明李さんの世界は僕よりもずっと広いのだ。

 何の取り柄もない根暗な男と、欠点の見当たらない完璧美少女が結ばれるのは、フィクションの世界だけだ。現実はそんなに甘くはない。


 明李さんの隣を歩くその男は髪を茶色くしていた。チャラチャラした印象はなく、お洒落だと思ってしまうような控えめな染め方。身長はそれほど高いわけではないが、体型はすらりとしている。服も、ファッションに無頓着な僕が見てもセンスのある着こなしだと思ってしまう。


 横顔だけでもわかるような整った顔に、人懐っこい笑顔を浮かべて、隣にいる明李さんに話しかけている。

 男はいわゆる、爽やかなイケメンだった。


 僕はどうあがいたって勝てそうもない。

 二人が並んで歩く姿はとてもお似合いだった。

 結局声はかけられずに、明李さんたちの数メートル後ろを、わざと歩調を緩めて歩いた。


――誰かにとられちゃうよ?

 伊澄が言った通りになってしまう。いや、もともと僕のものなんかじゃないのは重々承知だけど……。


 もしかして、すでに明李さんとあの男は……。最悪の事態を想定する僕の悪い癖は、今日も健在だ。

 とにかく、その光景を見た僕が抱いたのは、危機感と焦燥感と劣等感で、明李さんへの片想いは難航を極めていた。




 その週も、金曜日は明李さんと一緒に食堂で昼食をとった。

 明李さんのバイト先のカフェのことや、僕が電気化学の中間試験で散々な点数をとってしまったことなどを話した。


 明李さんがきつねうどんを食べ終わったタイミングで、僕は意を決して男のことを聞いてみた。

「朽名さん、この前、男の人と一緒にいましたよね」


「え? この前って?」

 彼女は首を傾げて聞き返す。はぐらかしているわけではなさそうだ。


「たしか、昨日か一昨日おとといだったと思うんですけど……。暗い茶髪の爽やかな男の人です」

 その出来事は昨日のことだとはっきり覚えていたが、明李さんと男との関係が気になっているという事実を隠すためにも、あえてぼかして伝える。


「ああ、昨日のことね。同じ授業で知り合った人だよ」

 明李さんが一瞬だけ浮かべた困惑気味な表情を、僕は見逃さなかった。だてに片想いを一年半以上続けているわけではない。


 あの男との間に、何かあるのだろうか。

「どうかしたんですか?」

 なんとなく嫌な予感がして、僕は聞いてみた。


「え?」

「あ、いえ……。なんとなく、元気がないように見えたので……」

「時光くんって、人のことよく見てるんだね」

 明李さんのその評価は、半分は正しかったが、半分は間違っていた。


「実は……ちょっと困ってて」

 数秒だけ逡巡を見せたあと、明李さんは口を開いた。

「その男に何かされたんですか?」

 僕は思わず、テーブルに両手をついて身を乗り出す。


「別に、何かされたってわけじゃないけど……。あ、時光くんには関係ない話だし、私の問題だから。心配しないで」

 彼女の視線が下を向く。心配するなと言われても、どうしても心配になってしまう。元気がない明李さんを見るのは嫌だった。


「少しでも力になれませんか?」

 僕は食い下がった。迷惑だと思われているかもしれない。それでも、好きな人が暗い表情でいるのを放っておくことはできなかった。


「……実はこの前」明李さんが、ゆっくりと切り出した。「その人から、クリスマスに一緒に出掛けないかって言われて」


 クリスマス、一緒、男女。これが何を意味しているかは、さすがの僕でもわかる。その男も明李さんに対して好意を抱いているということに他ならない。ショックだった。


 他にも明李さんのことが好きな男がいるというだけでも大打撃なのだが、その男のスペックが高いという事実が、さらに僕を追い込む。

 誘われた本人があまり乗り気ではなさそうなのが、唯一の救いだった。


「この前、恋愛をしないことに決めてるって言いましたよね。それで困ってるってことですか?」

「うん。そんな感じ」


「恋愛をしないっていうのは、どうしてなんですか? もちろん、話すのが嫌であれば無理には聞きません。でも、誰かに話せば少し楽になるってこともありますし、もし僕でよければ聞くので、話してくれませんか?」


 興味本位で聞いているわけではない。明李さんの抱えているものが何であれ、僕は彼女の味方でいるつもりだった。

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