18.恋の本質


 明李さんは斜め下あたりに視線をやりながら沈黙していたが、最終的には少し迷いを見せながらも話し始めた。

「……過去にね、恋愛関係で酷い目に遭ったことがあるの」


 酷い目とはどんなことだろうか……。最悪の事態を想像して、すぐに脳内から追い出す。


「ああ、そんな深刻なことじゃないよ」顔に出てしまっていたらしい。「ごめんね、大げさだった。ちょっとしたトラウマっていうか、恋愛が怖くなっちゃっただけだから」


 なるべく重い雰囲気にならないように振る舞おうとしているみたいだが、無理をして笑顔を作っているのは明らかだった。彼女にとってはつらい出来事だったのだろう。


「具体的にどんなことか、聞いても大丈夫ですか?」

 踏み込み過ぎただろうか。でも、明李さんが心のどこかで助けを求めているような気がしてならなかった。それは、僕の都合のいい思い込みかもしれないけれど。


「中学三年生の……夏頃だったかな。同級生の男の子から告白されたの。私もそのときは恋愛に興味があったし、特に好きな人もいなかった。それに、その子は格好よくてスポーツもできる人気の男子だったから、断る理由もなかった。そんなわけで、付き合ってみることにしたの」


 好きな人の、昔の恋の話を聞くのはキツいものがあった。それが本人にとってもつらい話であればなおさらだ。


「付き合ってから何ヶ月かはすごく楽しかった。中学生だから、学校から一緒に帰ったり、休みの日にファミレスに行ったりするくらいだったけどね。……でも、徐々にその人は私に対して素っ気なくなってきた」

 疑いようもなく幸せだったエピソードに、暗雲が見え始める。


「それでも、当時の私は彼のことが好きだったから、必死でいい彼女になろうって頑張ってた。でもある日、彼が友達と話してるところを偶然通りかかって。そしたらちょうど、私のことを話してる最中だった。そこで、こう言ってたの。『あいつは顔は可愛いけど、一緒にいて楽しくない。隣に並べて歩く用』って」


 僕は絶句した。どうすれば、そんな不誠実な発言ができるのだろうか。中学生だからといって、許容されることではない。実際に、心に傷を負った女性が僕の目の前にいるのだ。しかも、〝用〟と言うからには、別に付き合っている人がいた可能性もある。


「その言葉は、たぶん一生忘れられない。向こうも、私が気づいてることに勘づいてたんだと思う。最終的には、お互い連絡しなくなって、自然消滅した」


 同情も励ましもその男に対する怒りも、経験した本人の目の前では何の意味も持たなくて。僕は何も言えず、明李さんの話を黙って聞くことしかできなかった。


「きっとその人は、私のことが好きだったんじゃなくて、私っていうアクセサリーと並んで歩いてる自分が好きなだけだった。そのことがすごく悲しくて。また同じような気持ちを味わうくらいなら、もう恋愛なんてしなくていいやって」


 残念ながら、僕には恋愛でそういったトラブルを抱えた経験がない。だから、明李さんの苦悩は想像することもできなかった。そのことがとても悔しい。


「もちろん、この人いいなって思うことも今まであった。でも、また裏切られるのが怖かった。私に好意を持ってくれてる人に対しても、上辺だけしか見てないんだろうなって思うと、どうしてもダメで」


「それは、その男がそうだっただけで、朽名さんのことを好きな人が全員そういう人ってわけじゃ……」

 少なくとも僕は、明李さんの魅力的なところを、外見以外でもでたくさん知っている。


「わかってる。わかってるんだけど、どうしても前に進めないの。人から好意を寄せられることが……人を好きになることが怖いの」


 大好きな人の声が湿っていたから、僕はつい言ってしまったのだ。


「僕なら、絶対に朽名さんを不幸にしません!」


 思いがけず大きな声が出てしまった。近くの学生が数人、何事かと僕たちをうかがうが、それも一瞬のことだった。

 そんなことよりも……こんなの、ほとんど告白のようなものじゃないか。ああ、もう……どうにでもなれ!


 ところが、明李さんは驚いたように目を見開いてから、ふっと柔らかく笑って、

「ありがとう。時光くんは優しいね」

 そう言った。


 どうせなら、僕の気持ちが彼女に全部伝わってしまえばよかった。でも、今はこれでいいのかもしれない。少しずつ、彼女に歩み寄っていければ――。


「聞いてくれてありがとう。少し、楽になったような気がする」

「なら、よかったです」

 僕は、赤くなっているであろう顔を背けて答えた。


「私も、ちょっと前向きになってみようかな」

「それって、どういうことですか?」


「ふふ。秘密」

 明李さんは、口元に人差し指を近づけてそう囁いた。そのしぐさがとてもキュートで、『好き』がまた一つ積もっていく。


「あっ、もう時間だ。時光くんも次は授業でしょ」

「はい」

 明李さんがお盆を持って立ち上がり、食器返却口へと歩いていく。仕方なく、僕もそれに倣った。


 結局、発言の真意がわからないまま、僕たちはそれぞれの教室へと向かう。

 キャンパス内の木々はいつの間にか、色づいた葉を脱いで裸になっていた。


 ――明李さんを好きになって、本当によかったと思う。

 僕は歩きながら、そんなことを考えていた。


 なかなか気持ちを伝えられない自分への苛立ち。二人の距離が一向に近づかないことへのもどかしさ

 そういったものを全て含めて、素敵な体験だと思う。

 僕は明李さんのおかげで、人を好きになることの素晴らしさを知った。


 相手の幸せを願うだけで、自分も幸せな気持ちに染まる。それが恋という、解析不可能な現象の本質なのだと、僕は思う。

 明李さんにも、この幸福を味わってほしい。

 そしてできれば、その相手が僕であればいい。


 ――私も、ちょっと前向きになってみようかな。

 その言葉の意味を考える。何に対して前向きになるのだろうか……。話の流れからして恋愛で間違いないと思う。


 例の男と歩いていたとき、明李さんが楽しそうに笑っていたことを思い出す。言い寄られて困っていると言っていたが、基本的には話していて楽しい相手なのだろう。


 明李さんが幸せになるのならのば、それで構わない。頭でそう思い込もうとしても、心はズキズキと痛む。

 相手の幸せを願っているのに、僕は苦しくなっている。

 恋は複雑で、幸せで――とても切なくて痛い。

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