5.恋の始まり


「この本ですよね。どうぞ」

 僕は、買おうとしていた本を指で示して言った。おそらく彼女も、同じものを購入しようとしていたのだろう。


 どうしても今すぐ読みたいというわけではなかった。また入荷したときに買えばいい。僕は本を譲ることにした。

 相手が綺麗な女性であったことも、ちょっとだけ関係あるかもしれない。


 ところが、話はそれで終わらなかった。

「いえいえ。そちらこそ」

 彼女の方も同じように譲る意志を示したのだ。

「いや、そんな……」


 ここは彼女の厚意に甘えるべきか。いや、本心ではものすごく欲しいが礼儀として譲ってくれているという可能性も考えられる。それならもう一度、僕も退くべきだろう。けれども、面倒くさい人間だと思われるのも嫌だ……。


「実は私、この本は昔に一回読んだんですよ」

 次の一手に悩む僕に、彼女が言った。

「そうなんですか」

 昔と言うからには、ハードカバーで発売されたものを読んだという意味だろう。


「ええ。とても面白い本なんです。実家に置いてきちゃったんですけど、文庫化するって聞いてまた読みたくなっちゃっただけなんです。そんなわけで、どうぞ」

 なんだか、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。一度読んだことがあるとはいえ、彼女だって、この本を読みたいことには変わりないではないか。


「僕も実は、この作家さんの本は読んだことなくって、でも少し面白そうだなって思って、興味があっただけなんですよ。あらすじを見てから買おうかどうか決めようとしてたんです。だからやっぱり」


 ――お譲りします。そう続けようとしたのだが、

「え? 読んだことがないんですか?」

 彼女は、信じられないという風に大きく目を見開いて言った。


 ずいっと、僕の方に身を乗り出してくる。顔が近い。柑橘系のいい香りが鼻腔をくすぐった。香水だろうか。心拍数が十パーセントくらい上昇したような気がする。


「あ、はい……」

 僕はやっとの思いで返事をした。

「もったいない。あんなに面白い作品がいっぱいあるのに!」

 先ほどよりも彼女の声のトーンは上がっている。


 たしかに、誰もが知っているであろう国民的な人気作家だったが、そこまで驚かれることなのだろうか。


「そういうわけで、あなたに読んでもらった方がきっとこの本も幸せだと思います」

 僕はそう言って退散しようとした。


 しかし、

「待って待って! これをきっかけに、キミも読んでみてよ。そしたら、絶対ハマるから!」

 彼女は、自信満々の眼差しで僕を見る。逃げられそうもない。


「はぁ。わかりました」

 そこまで言うなら、読んでみたくなってきたし、彼女も譲ると言っているのだから問題ないだろう。


「読みやすさ、構成、そしてもちろんミステリーとしての面白さ。そのどれもが高水準。生み出した作品のドラマ化、映画化は当たり前。三年前には国際的なミステリーの賞にだって選ばれた。他にも色々あるけど、とにかくすごい人なの」


 僕に向かって熱弁する。どうやら彼女は、この先品を書いた作家のかなりのファンらしい。文庫に比べて値の張るハードカバーを買うほどなのだから当然か。


「この作品もね、ドキドキハラハラなの! あれ? ハラハラドキドキ? ま、どっちでもいいや! 何がすごいかって、最後に生き残っ……おっと危ない! まだ読んでないんじゃネタバレになっちゃうね。とにかく、人間の強さが描かれてて、すごいの!」


 瞳がキラキラ輝いている、という表現は何度も聞いたことがあったが、実際にその様子を見たのは初めてかもしれない。

 そこまで覚えてるんだったら、もう一度読まなくても……とは思わなかった。僕にも、内容は覚えていても繰り返し読みたい文章はある。


「あ、あの。わかりました。この作品も、この作者もすごいのは十分伝わりましたから」

 隙を見て、手のひらを彼女の方に向けて突き出し、再び話し出しそうな彼女を止めた。


「本当? 嬉しい! うああああっ! どうしよう! 色々話してたら私も読みたくなってきちゃった。ねえ、私が先に読んで、読み終わったらあなたにあげるってことでどう?」


 笑ったり嘆いたりと、次々に変化する彼女の表情は、落ち着いた容姿とのギャップがあった。しかし、彼女の魅力は決して損なわれることはなかった。それどころか、より可愛らしい印象を僕に与えた。


「あ、はい。それでも大丈夫です」

 それなら最初から譲りますよ、なんて言えば、またさっきの繰り返しになってしまうような気がした僕は、頷くことしかできなかった。


「ん。じゃあ、はい」

 彼女はポケットからスマホを取り出して、僕の前に差し出してくる。

「え?」

 このとき、僕はずいぶん、間抜けな表情をしていたと思う。


「連絡先、交換しなきゃまた会うこともできないでしょ」

「ああ、そうですね」

 言われて、慌てて僕もポケットからスマホを取り出した。


 スマホを操作しながら、彼女が綺麗な女性だということを思い出した。首から上が熱を帯びるのを感じる。そんな中、平静を装って彼女と連絡先を交換した。

 交換した連絡先の名前の欄は、朽名明李となっていた。そこで初めて、僕は彼女の名前を知った。


「明日のお昼くらいまでには読み終わるはずだから、そしたら連絡するね」

 彼女はそう言うと、慣れた手つきで平台から本を取り、レジへと向かった。かなり分厚い本のはずだが、本当に一日で読めるのだろうか……。じゃなくて、お金!


 財布をバッグから引っ張り出しながら、急いで彼女のあとを追いかけた。

「あの、お金払います! 最終的に僕が所持することになるんで」


「いや、いいっていいって。私が先に読むんだし」

「それはさすがに申し訳ないです」

「ああ、でも今月地味にピンチだから半分出してもらおうかな」

 彼女は、苦笑いしてそう言った。


 その後、簡単な自己紹介をして明李さんと別れた。彼女は経済学部で、学年は僕の一つ上だということがわかった。


 その日の夜、僕は彼女に騙されたのかもしれないと思ってしまった。

 彼女は、僕に半額を出させてそのまま本を自分のものにしてしまおうとたくらんでいるのではないか。連絡先も架空のものかもしれない。しかし、そこまでして騙す理由もなかった。たかが五百円程度だ。


 そんなことを考えたのも、僕のネガティブ的な思考に起因する。

 僕は、幸せに対して何かしら同程度の不幸がないと落ち着かないような性格なのだ。

 結局、確かめるすべもないまま、僕は一日を終えた。


 幸い、悪い予感は当たらず、明李さんの宣言通り、翌日の朝に連絡が届いた。一日の始まりに彼女からのメッセージを眺めた僕は、いつもよりも活力に満ちていたような気がする。


 昼休みに生協の前で待ち合わせをし、本を渡された。

「いやぁ、やっぱりめちゃくちゃ面白かった。あ、読むならたっぷり時間を作って読んだ方がいいよ。止まらなくなるから」

 明李さんはそう言って、うっすらと隈のできた顔ではにかんだ。


 彼女の言った通り、その本は面白かった。特に後半、息もつかせぬ展開に、夢中でページを捲った。

 読み終わって、無性に彼女と感想を話したかったけれど、連絡するかどうか迷っているうちに、数日が過ぎてしまう。


 以上が、去年の五月の、僕と明李さんの出会いだった。




 それ以来、明李さんとは、キャンパス内で会うと挨拶をしたり、たまに話をしたりするような関係になった。もちろん、きっかけとなった本の感想についても話した。


 明李さんはミステリーが好きで、お互いのオススメの本を紹介し合うこともあった。


 生協の書籍購買部に行くときは、明李さんに会えることを期待した。

 大学では、彼女と話すことが唯一の楽しみだった。


 はっきりと、いつからだったかというのは自分でもわからない。

 初めて会ったその日からかもしれないし、徐々に坂道を滑り落ちるように緩やかにかもしれない。

 気づいたら、僕は彼女に恋をしていた。


 容姿端麗な彼女は、ただそこに立っているだけでも、つい視線がいってしまう。実は芸能人だと言われても驚かない。そんな特別なオーラさえも纏っていた。


 性格も明るくて、僕みたいな人にも普通に接してくれる。普段は落ち着いているが、本の話になると目を輝かせながら饒舌になる。


 まだ彼女のことを深くは知らないが、とても素敵な人だということだけはわかる。


 それに比べて僕は、友人と呼べるような人間は片手で数えられる程度、これといった特技もなく、身長が高いわけでもイケメンなわけでもない。典型的なぼっち大学生である。


 真面目しか取り柄がない僕には、彼女は高嶺の花すぎる。

 会話できるだけでも奇跡なのだ。もちろん告白なんてできるはずがない。


 つまり、出会いから現在までの一年半、僕と明李さんの関係は全くと言っていいほど進展がなかった。


 もし僕が、そういう気持ちを向けていると知ったら、彼女とは今まで通りに話せなくなってしまうかもしれない。だから、これでいい。


 店内をぐるっと一周するが、明李さんらしき姿は見当たらなかった。残念ながら、今日は彼女はいないみたいだ。僕は肩を落とす。文庫の新刊コーナーを一通りチェックしてから、書籍購買部をあとにした。

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