4.きっかけの一冊
伊澄との会話を終えた僕は、そのまま十分ほどボーっとしていた。
まるで、夢の中にいるような感覚。
昼休みはすでに終わっているが、三限に授業は入っていないため問題はない。
離れた場所にいる高校生の少女と、光る石を通して会話をした。
そんなことを昨日までの僕に教えたら、間違いなく頭がおかしくなったと思われるだろう。
二年前に僕が拾った石は特殊な力を秘めていて、遠く離れた場所にいる石を持った人間と通話することができる。とりあえず、混乱を収めるために、そういう風に解釈した。
自分の理解を大幅に超えた現象に直面し、全てを受け入れてしまった方が楽だと判断したのかもしれない。
そうして無理やり納得させると、僕の思考は、どうやって四限までの時間を潰すかという案件へとシフトした。
十秒ほど悩んで、僕は生協の書籍購買部へと向かうことに決めた。
生協とは、キャンパス内に存在するコンビニのようなものだ。食品や文房具の販売だけでなく、自動車教習所やサークル合宿の斡旋など、学生をサポートするためのサービスも充実している。
また、ほとんどの大学では書籍購買部も併設されていた。教科書や参考書の占める割合が多いが、小説や漫画、雑誌なども売られている。
僕の通う大和学園大学も、例に漏れず書籍購買部が存在していた。定価の一割引きで購入できるため、読書好きの僕は、週に二、三度は通っている。
小屋を出ると、さっきの出来事が全て嘘に思えてきた。
木々の向こうには、大学という学びの場を象徴するかような四角い建物が並んでいて、学生たちの話す声が遠くから聞こえてきた。
小屋の中だけが非日常な空間で、そこから一歩でも外に出ると、途端に日常へ戻る。そんなイメージだった。
書籍購買部は、正門の近くにある建物の二階に設けられていた。その建物の一階には、学生相談室……で合っているかどうか自信はないが、そんな感じの施設が入っている。
今日は、
僕は階段を上りながら、そんなことを考えていた。明李さんと話をする場面を想像するだけで、自然に頬が緩む。
僕が
大型連休も終わり、授業をサボり出す学生が急激に増加する五月半ば。
僕が大学に入学してから、一ヶ月以上が過ぎた。
友達を作るタイミングも、サークルに入るタイミングも逃した僕は、灰色のキャンパスライフを送っていた。
入学する際に実家から離れ、アパートを借りて一人暮らしを始めたため、帰宅してからも孤独だった。朝起きてから夜寝るまで、一言も発さずに終える日もあったように思う。心細さは多少あったものの、寂しさなどはあまり感じなかった。
一人でいることが気楽だったことに加えて、本を読むのが好きだったことも幸いしたのだろう。
有限な文字だけで、無限に世界を創り、生命を生み出し、感動を与えることのできる小説という娯楽は、いつの間にか僕の人生の一部になっていた。
その中でも特に、SF小説がお気に入りだった。
想像の及ばない遥か未来の話。時間や空間を飛び越えた出会い。宇宙や並行世界を舞台にした壮大な世界。そのどれもが、僕の心を大いにくすぐった。
大学に入ってからは、以前よりも自由に時間が使えるようになった。友人もおらず、サークルにも所属していない僕の増えた時間は、必然的にページを捲る時間へと変わった。
その結果、常に面白い物語との出会いを探し求めて、生協の書籍購買部へと足繁く通うようになった。
明李さんと出会ったのも、書籍購買部だった。
ちょうどその日は気になっていた本の発売日で、僕は授業の入っていない空き時間に、書籍売り場に向かっていた。
気になっていた本というのは、とある有名なミステリー作家の作品だった。ハードカバーで何年か前に出ていたものが文庫化するということで、興味を持ったのだ。
今まで作者の他の作品は読んだことがなかったが、その作品にはSF要素が入っているらしい。
また、作者本人が理系の学部出身ということもあり、以前から気にはなっていたのだ。
出す本が必ずと言っていいほどベストセラーになるような作家で、作品数も多く、どこから手を付ければいいか迷っているうちに数年が過ぎてしまっていた。
そんなわけで、今回の作品をきっかけに手を出してみようと思った。
目的の本を探しに、文庫の新刊コーナーへと向かった。
新しく入荷したばかりの本が、平台に整然と並べられた中で、その本は一冊だけ残っていた。入荷数が少なかったのだろうか。それとも、売れてしまったのだろうか。
タイトルと著者名が大きく印刷された比較的シンプルな表紙に、読者の期待を煽るインパクトのある帯。面白そうだ。直感的に思った。
購入することはほぼ決定していたが、あらすじも一応確認してみよう。僕がその本を手に取ろうとした瞬間、横から一本の綺麗な腕が伸びてきた。
「っと。すみません」
僕は反射的に腕を引いた。それと同じタイミングで「ごめんなさい」という女性の声とともに、隣の腕も引っ込んだ。
僕は視線を上げ、相手を見る。
心臓が大きく脈打った。
恐ろしいほどに整った顔がこちらを見ていたからだ。
陶器のような白い肌に、黒目がちで愛らしい目と鼻梁の通った小ぶりな鼻、潤った薄紅色の唇がバランスよく配置されている。全体的に華奢な雰囲気であるが、身長は百六十近くありそうだった。肩のあたりまで伸びた黒い髪は、見ただけでサラサラだとわかる。
美人。そんなありきたりな言葉ではとても形容できないほどに、非常に美しい女性がそこに立っていた。
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