23.一途な気持ち
バイトが終わり、僕はバックヤードで温かい肉まんを食べていた。急な勤務を引き受けてくれたお礼ということで、店長におごってもらったものだ。
昼の伊澄との会話を思い返して、心が落ち着かない。モヤモヤのせいで、いくつか小さなミスをしてしまった。
肉まんを食べ終えて帰る支度をしていると、扉が開き、コートに身を包んだ少女が入って来る。
「あれ、どうしたの、文月さん。風邪はもう大丈夫なの?」
姿を現したのは文月さんだった。マスクを着けているせいで、吐息がかかった眼鏡の下の方が白く曇っている。
「はい。代わっていただいてありがとうございます。ご迷惑をおかけしてしまってすみません」
文月さんは深々と頭を下げる。
「いや、僕は大丈夫だけど。文月さんは、安静にしてた方がいいんじゃない?」
「家は近いので、用事を済ませたらすぐに帰って寝ます」
いつもより険しい表情を浮かべているのが、マスク越しでもわかった。声もどこか不自然に感じる。体調が悪いのに無理をしているのではないかと心配になる。
「用事って?」
「先輩に、大事な話があります」
彼女の顔が赤くなっている。外が寒かったからだろうか。いや、熱があるのかもしれない。
「大事な……話?」
なんだろう……。愚鈍すぎる僕は、この時点で彼女の心の内を察することができなかった。
一度深呼吸してから、彼女は切り出した。
「あの……もしよければ、クリスマスに、一緒に出かけてくれませんか?」
真っすぐに僕の目を見つめる文月さん。その声は不安そうに揺れていながら、力強い意思を感じさせた。
僕がいくら鈍くても、さすがにその誘いの意味は察しがつく。あまり驚かなかったのは、きっと伊澄に散々言われていたからだろう。それでも、心の準備ができていたわけではなく、非常事態であることには変わりない。心臓の鼓動が速くなる。
「あ……ごめん。その日はちょっと」
声を絞り出すようにして、なんとか答える。
「そしたら、別の日に。クリスマスとかじゃなくてもっ!」
いつもは穏やかに話す彼女が、必死に言葉を紡いでいる。それも、僕のために。
「私、先輩のことが好きなんですっ!」
文月さんが続ける。彼女の顔は真っ赤に染まっていた。
生まれて初めての異性からの告白に、心が温かくなった。誰かに想ってもらうということが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。加えて、その相手はとても素敵な子だ。
けれど、僕がその気持ちに応えられるかどうかとは、残念ながら無関係で。
恋愛の難しさを、また一つ学んだ。
「なので、クリスマスとかじゃなくていいので、一緒に――」
「いや、実は好きな人がいて……」
これ以上言わせるのは申し訳なくなってきて、彼女の台詞を遮った。
「……そう、ですか」
文月さんは下を向いてしまう。
「うん。だから、ごめん。気持ちは、すごく嬉しいんだけど」
気まずい沈黙が訪れる。
一瞬たりとも、気持ちが揺るがなかったと言えば嘘になる。
文月さんに対して、恋愛感情は抱いていなかった。しかし、彼女はとても魅力的な女性だ。真面目で努力家で、いつも周りのことを見ている。年下だとか女性だとか、そんなことは関係なく、彼女は僕の尊敬の対象だった。
だけど――
それでもやっぱり、僕は明李さんのことがどうしようもなく好きだった。
静寂を破ったのは、文月さんだった。
「……あの、パンフレットに載ってた綺麗な人ですか?」
二ヶ月くらい前、彼女に大学のパンフレットを見せてもらったときのことを思い出す。そこに明李さんの写真が載っていたのを、僕が見つけたのだ。
「まあ、告白もしてないし、勝算もないんだけどね」
僕に質問する文月さんの声が、今にも泣き出してしまいそうな湿り気を纏っていて、僕は無理やり明るく答えた。
「そんなことないです。先輩ならきっと大丈夫です。私、先輩のいいところ、たくさん知ってます!」
僕だって、文月さんのいいところはたくさん知ってる。でも、今それは口にすべきではないと、なんとなくわかった。少しだけ成長したみたいだ。
「ありがとう。僕も頑張ってみる」
文月さんみたいに、を省略して決意表明。
「応援してます」
もしも僕が明李さんに告白をして、好きな人がいるからとフられてしまったら、今の文月さんのように応援することはできるのだろうか。
「先輩」
文月さんが呟くように言った。その口調からは、迷いが感じ取れる。
「ん?」
「最後に一つだけ、お願いがあるんです」
「お願いって?」
「私の名前って、知ってますか?」
「知ってるけど」
前から、すごく素敵な響きだと思っていた。
「その……一回だけ、名前で呼んでいただけませんか? 好きな人に、名前で呼んでもらうのが夢だったんです」
文月さんはうつむいて恥ずかしそうに言った。
「うん。わかった」
一度だけ深呼吸して、文月さんの目をじっと見つめる。
「こんな僕を、好きになってくれてありがとう。――
彼女の気持ちに応えられないのが、とても悲しかった。またいつか、素敵な恋をして幸せになってほしいと思う。僕なんかよりもいい男の人なんて、そこら中にたくさんいるのだから。
でも、僕以上に悲しいはずの文月さんは笑って言った。
「……あっ、ありがとうございました。思ったより、すごいですね、これ」
「うん……。僕も、なんか恥ずかしい」
ようやく収まったと思った心音が、再びうるさくなる。
「もう一つ、わがまま言っていいですか?」
「ん?」
さっきのよりも強めなものがくるのだろうか。もしそうだったら断ろうと思い、僕は身構える。
「また、今まで通り接してください。すぐには無理かもしれませんが、私も今まで通りにするよう努力しますので。勉強とかも、また見てくれると嬉しいです」
儚げな笑顔に、胸が痛む。
「うん、わかった」
「ありがとうございます。それでは、お疲れ様です」
僕を好きだと言ってくれた初めての女の子は、最後まで涙を見せずに去って行った。
彼女のバッグにつけられた星型のキーホルダーが、きらりと光ったような気がした。
バックヤードから店内に出て、菓子パンのコーナーを物色する。適当なパンを三つ選ぶと、レジに持って行き会計をする。
「今日はありがとう。本当に助かったよ」
レジに入っていた店長がダンディな声で言った。五十歳を過ぎている彼は、優しい笑みを浮かべながら、僕の明日の朝ごはんを袋に詰めていく。
「いえ、大丈夫です。お疲れさまでした」
僕はバイト先のコンビニをあとにして、帰路についた。
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