20.二人の距離は永遠で
小屋で温かいほうじ茶を飲みながら、僕は伊澄を待っていた。明李さんに告白しようとしている日は、二日後に迫っている。
ちょうどお茶を飲み終えたタイミングで石が輝き、
〈お待たせ〉
凜とした伊澄の声が響く。
「……ああ」
〈何、その気の抜けた声は!〉
会話開始から三秒ほどで叱責を浴びる。
「あ、いや」
〈わかってる。不安なんでしょ。告白するのが〉
「まあ、それもあるけど……」
〈他にも何かあるの?〉
「こうして、伊澄と話せるのはあとどれくらいなんだろうって」
石から聞こえる伊澄の声は、かなり音量が下がっているように感じる。僕の声もきっと向こう側に届きにくくなっているはずだから、なるべく石の近くで喋るようにしていた。発する光も弱々しくなっている。
〈うーん……どうなんだろうね。もう、一ヶ月前に話したことも細かく思い出せない〉
「僕もそんな感じ」
遠くから見たその形はどうにか識別できるのに、ズームアップするとモザイクがかかっていて輪郭がはっきりしないような、そんな変な感覚。ファンタジーなどでよくあるような、記憶を消す魔法を受けたら、こんな感じになるのだろうか。
〈キミが恋愛相談を持ち掛けてきたのって、ちょうど一ヶ月くらい前だよね〉
「そうだね。伊澄は『さっさと告ってフラれてきなさい!』とか言ってそう」
〈あはは。あり得る。キミは『僕じゃ無理だよぉ。助けて! ママぁ!』って言ってたっけ〉
「ものすごく悪意に満ちた捏造だね」
憶測で話す二人の会話は何だか楽しくて、僕たちは声を出して笑った。
近いうちにやって来る、お互いを知らない未来。もう、覚悟はできている。きっと伊澄だってそれは一緒だ。それでも、寂しい気持ちがないわけではなくて――。
〈今こうして笑ってることも、そのうちなかったことになっちゃうんだね〉
呟くような伊澄の声からは、哀愁が漂っている。
「うん。でもさ、もし僕たちが出会わなかったら、未来は違ってたかもしれないんじゃない? 少なくとも、僕は伊澄のおかげで明李さんと仲良くなることができたし、これから気持ちを伝えようとしてる」
僕一人では、到底たどり着けなかった今が存在している。
〈うん。その通り。全部私のおかげだね〉
「肯定されるのもなんか癪だな。だからさ、伊澄はたしかに僕の人生を変えたんだよ。僕は伊澄にとって、なんでもない人間かもしれないけど」
〈キミ、すごく恥ずかしいこと言ってるのわかってる?〉
「どうせ忘れちゃうんだし、いいかなって」
〈私たち、何のために出会ったんだと思う?〉
「さあ、どうだろうね」
そもそも、僕たちの出会いは必然だったのだろうか。それとも、ただの偶然で、意味なんか何もないのだろうか。
そんなことは、考えても答えなど出るはずがない。けれど、二人で過ごした声だけの昼休みが、伊澄にとってプラスになっていればいいなと思う。伊澄と出会って、僕の人生が変わったように。
〈キミはさ……〉
伊澄が唐突に切り出す。
「うん」
〈もし、クラスでそれなりに仲が良い友達がいじめられてたらどうする?〉
彼女は、どういう意図を持ってこの質問をしたのだろう。
今まで生きてきた中で、幸運なことに、僕自身がいじめられるようなことも、友人がいじめに遭うようなこともなかった。だから上手く想像はできないけど、なんとなく自分がどうするかはわかる。
「そりゃどうにかしたいけど、見て見ぬフリしちゃうかな。自分が標的になるのが怖いし」
〈そうだよね。それが普通なんだよ〉
伊澄はきっと、その友達のことを助けるのだろう。いや、間違いなくそうする。推測ではなく、確信だった。
「でも、絶対に後悔する。ものすごく自己嫌悪に陥ると思う。あのときもう少し勇気があればって。僕は、間違ったことが嫌いなくせに臆病で、そんな自分も嫌いで。だから、真っすぐに、自分の思った通りに行動できる人になりたいと思うし、そういう人をすごく尊敬する」
僕がそう続けると、伊澄は〈キミらしいね〉と、少し嬉しそうな声で言った。
彼女はきっと、その友達を助けて、代わりにいじめの標的になってしまったのだ。それは同時に、高校生が一人で昼休みを過ごしている理由でもあるのだろう。
伊澄の真面目な性格は、僕としてはとても素敵なように思うが、同年代の女の子から見ればわずらわしいものなのかもしれない。
父親の話のときもそうだったが、伊澄は隠し事が下手すぎる。
正直であることは彼女の美点であり、同時に大きな欠点でもあった。真っすぐで誠実な人間には、この世界は生きづらいようにできている。
〈今の会話で予想はついたと思うけど、私、友達から無視されてるの。出会ったばかりの頃、どうして昼休みに一人で公園にいるかキミに一回聞かれたときは、友達と喧嘩してるからって誤魔化したような気がするけど、少し違うの。喧嘩っていうよりも、一方的に嫌われちゃっただけ〉
そんな話をしたことは、まったく覚えていなかった。出会った頃といえば二か月前だ。その頃の記憶は、もうほとんどないようなものである。
伊澄の声には確かに痛みが含まれていて、こちらまで悲しくなってくる。
僕にはどうすることもできないのだろうか。
胸に愛しさがこみあげてくる。
「伊澄は、今どこにいるの?」
思わず口走ってしまった台詞に、自分でも驚いた。
〈え?〉
「いや、会ってみたいなって思って」
伊澄と知り合ってから今までずっと、直接会うというような話題は避けてきた。しかし、彼女との思い出が消えてしまうかもしれないとわかった今、このままで終わってしまうのは嫌だった。
もしも彼女が場所を教えてくれれば、僕はどこへだって会いに行こう。北海道でも沖縄でも。たとえ地球の裏側でも。
〈……私も、キミに会ってみたいよ〉
伊澄は数秒だけ迷ってから言った。僕と同じ気持ちだったことに安堵する。
「じゃあ――」
〈でも、それは今じゃない〉
僕の発言を遮るように、彼女の声がかぶせられる。
「え?」
〈今じゃないけど、会いに行く。絶対、キミに会いに行くから。だから、待ってて〉
そんな台詞を紡いだ伊澄は、何だか歯切れが悪いように思える。
伊澄は正直者で、姿の見えない僕との会話の中でさえ、ほとんど嘘をついたことはなかった。そんな彼女が、僕に会いに来ると言っている。
彼女だって、僕のことなど名前以外に知らないはずだ。
伊澄に嘘をつかせてしまったのだろうか。それだけ、彼女を困らせてしまっているということだ。
「……変なこと言ってごめん」
僕は冷静になって謝る。
〈ううん。大丈夫〉
胸が、ギュッと締め付けられるような感覚。
伊澄に対する、僕のこの気持ちはいったい何だろう。どうしようもなく愛しい。
伊澄は、いつだって真っすぐに生きてきた。知り合って二ヶ月しか経っていない。しかも声だけの関係であるにも関わらず、そう断言できるほどに彼女は公明正大だ。
どこまでも他人に対して誠実で、そしてそれ以上に、自分に対して正直だ。
僕は、そんな彼女に惹かれていた。
僕もそんな風に真っすぐに生きることができたら、もっと自分に自信が持てるのに。
しかし、憧れであると同時に、その正直さが心配でもあった。まだ高校生の彼女は、これからたくさんの悪意に触れるだろう。僕は、そんな彼女を守りたかった。
叶わないことだとはわかっていても、心のどこかでそうなることを願っている。
〈それじゃ、また明日……かな?〉
「うん。また明日」
交わしたのは、不確かな約束だった。
石が媒介する伊澄の声は、すでに聞き取れない箇所を脳内補完するほどになっていた。いつ届かなくなってもおかしくはない。
今までは、ただの友達だと思っていたのに――。
別れの時間が近づいてくるたびに、切なさが募っていく。心が戸惑いと喪失感に包まれ、僕にとっての伊澄という存在が、どんどんわからなくなっていく。
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