21.まだ、間に合うのならば……


 先輩のことを初めて知ったのは、中学の美化委員会だ。彼は私の二つ上で、副委員長だった。


 美化委員会の、その年度で初めての集まりが開かれた日。私は、中学校に入学してからまだ数週間だった。


「主な活動内容は、学校行事での美化活動だな。それは行事のときに細かく説明されるからよしとして……あとは、美化委員が中心となって教室を綺麗に保っておくように。たまに抜き打ち検査がある。それともう一つ。委員会で自主的な活動をすることになってる。じゃ、あとは委員長よろしく」


 まだ若い教師である委員会の顧問が、面倒くさそうに言った。

 委員長が「はい」と返事をして、教壇に上がる。そのときに一緒に横に並んだのが、副委員長の先輩だ。


 委員長と副委員長の先輩が簡単に自己紹介をする。そのときに初めて、先輩の名前を知った。


「美化委員会は、毎年、自分たちで内容を決めて活動しています。それでは、活動内容を決めたいと思います」

 委員長は、いかにも真面目そうな女子生徒だった。


 しかし、彼女の説明だけでは要領を得ない。委員会に初めての参加となる一年生は、私も含めて、自主的な活動の意味がよくわかっていなかった。二、三年生に任せようといった雰囲気がある。


「ちなみに去年は、週一回交代で学校内の掲示物の見回りだったかな」

 副委員長の先輩が口を開いた。わかりやすい例が提示されて、一年生もしっくりきたようだ。


 つまり、学校を綺麗にするための活動を何か一つ自分たちで決めて実行する、ということらしい。


「あー、掲示物って意外とはがれやすいんだよな」「画鋲とか落ちてるのも危ないし」「もうそれでよくない?」

 二年生の何人かが、口々に言った。早く帰りたい様子がひしひしと伝わってくる。


「他に案がないようでしたら、これで決まりでもいいでしょうか」

 委員長も流れに沿って、まとめに入ろうとした。


 そこで、

「はい」

 私は挙手して、発言の許可を求めた。

 委員長が戸惑いながらも「どうぞ」と促す。


 自分で言うのもどうかと思うが、私は真面目な人間で、不器用で、融通が利かない。

 中学生の頃は特に、空気を読まない発言をしてしまうことが多くあった。


「朝、少し早く登校して、学校の周りのゴミ拾いをするというのはどうでしょう」

 学校内のことではなかったが、美化活動であることには変わりない。


 通学路に、タバコの吸い殻やお菓子の袋などが落ちているのを見ると、やるせない気持ちになる。

 やりがいもあるし、何より、地域の人にも喜んでもらえるのではないか。そう思って提案した。


 ところが他の人にとって、委員会の活動に求めるのは、楽であるということだけで。

 めんどくせー。どうしてそんなこと……。先ほど早く決めたがっていた人たちから、そんな声が聞こえる。


 またやってしまった。

 周りに合わせることも大切なのはわかっている。けれど私は、そういったことが苦手だったのだ。

 立ったまま下を向く。責めるような視線もちらほら感じた。


「いいんじゃない?」

 ぎくしゃくした雰囲気が流れている中、よく通る声で言ったのは副委員長だった。

 その場の全員が彼に注目した。私はその隙に腰を下ろす。


「朝早く起きるのも大変かもだけど、内申に書けるじゃん。高校って、そういうボランティアやってる人大好きだし。有利になるんじゃないかな。ねぇ、先生」


「ん、まあ、ボランティア経験のある受験生とない受験生だったら、高校はほぼ確実に前者を合格させるな」

 ボケっとしていた顧問の教師が、突然自分に話を振られたことに驚きながら、そう答えた。


 このときの私には、まだ内申の意味はよくわかっていなかったけれど、三年生と一部の二年生の雰囲気が少し変わったことには気づいた。


「それに、他人から感謝されるのって結構気分いいよ」

 笑顔を作ってそう続けると、先輩は教室全体を見回した。

 生徒たちはしーんとしたまま、反応はない。本来場の主導権を所持しているはずの委員長も、成り行きを見守っていてる。


「で、さっきめんどくさいとか言ってたそこの二年生は、どう?」

 先輩が二年生の一人に向かって問いかけると、

「まあ、別に月に二、三回くらいだったらやってもいいですけど……」

 その男子生徒は、ばつが悪そうに言った。


 無事に委員会を終え、解散となった後、私は先輩にお礼を言った。

「ありがとうございました」

 私は勢いよく頭を下げた。顔を上げると、先輩は驚いたように目を丸くしていた。


「いや。むしろこっちこそ、ありがとう。去年と同じなのもつまらないし、何か案出さなきゃって思ってたから助かった」


 それが、中学生の時に私と先輩が交わした唯一の会話で。そんなことなど、向こうはとうの昔に忘れているのだろう。

 私がバイト先の書店に採用されて、初めて先輩に挨拶したときも、彼は覚えている素振りを見せなかった。


 今のバイト先を選んだ理由だって、大学生になった先輩がそこでバイトしていることを知っていたからだった。

 バイトを始めようと思って募集のあるところを探したときに、他にも候補があったが、一方的にでも知っている人がいた方が良いという判断だった。


 先輩に対して抱いていたのは、元々は尊敬の念だけのはずだった。それが、一緒に仕事をすることで、徐々に別のものに変わっていったのだろう。


 先輩を好きな気持ちは、もう誤魔化しようがないほどに、私の中に確実に積もっていた。




 宗平に、直接会ってみたいと言われた日の夜。

 母が窓から夜空を見上げていた。今日は仕事が休みで、久しぶりにショッピングに出かけるというようなことを朝に言っていたっけ。


 バイトから帰ってきた私には気づいていない様子で、ため息を吐き出す。どこか落ち込んでいるように見えた。

「どうしたの?」


 そこでやっと私の存在を認識したらしく、母は振り向いた。

「ああ、伊澄。お帰り。いや、ちょっとね」

 困ったように笑う彼女の表情が見ていられなくて、私は「そう」とだけ答えて、自室へ向かった。


 制服のまま、ベッドに寝転がる。

 母が元気がない理由は、なんとなく予想することができた。おそらく、父のことを想っているのだ。


 父が遠くへ行ってしまう前、よく三人でショッピングモールに出かけたことを覚えている。父は、母が時間をかけて服を選ぶのを、疲れた私をおんぶしながら嫌な表情一つ見せずに付き合っていた。

 そんな昔の出来事を、母は思い出していたのではないか。


 世界中の誰よりも愛している人なのに、約十年間、顔も合わせていなければ、声すら聞いていなのだ。

 そんなの、あまりにもつらすぎる。

 なぜか私まで気持ちが沈んできた。


 そんなときにはいつも、窓から夜空を眺める。果てしない空と綺麗な星たちを見ることで世界の大きさを再確認し、自分の悩みなどちっぽけなものだと思うことができるからだ。


 カーテンと窓を開けて、首から先を外に出す。十二月の空気は冷たく、自分の吐息が白くなるのが見えた。

 夜空には、綺麗な弓張り月が煌々と輝いていた。


 明日は、いよいよ宗平が告白する日だ。

 私は、彼の相談に乗ってしまったことを後悔していた。

 今さらもう遅いことはわかりきっている。ずっと、彼を応援するような態度で接してきたのだ。

 

 でも、まだ間に合うのならば、私は――。


 彼を応援したい気持ちはもちろんある。

 けれども、彼の恋が上手くいかない未来だってあるはずだ。

 私の行動次第で、それを変えることができるかもしれないわけで。


 相反する二つの気持ちが、心で渦を巻いて溶け合ってゆく。

 もう十分、真面目に生きてきた。ほんの少しくらい、ズルをしてみてもいいのではないだろうか。


 そんなことを考えてしまう自分が、どうしようもなく醜く思えてくる。

 消えてなくなってしまいたい。

 久しぶりに、そう感じた。




 次の日、生まれて初めて、私は学校をサボった。

 今までずっと、真面目に誠実に生きてきたはずなのに、突然すべてがどうでもよくなってしまったのだ。


「伊澄、体調は大丈夫?」

「うん。たぶん明日には治る。今日も午後から学校行けるかもしれない」

 母には具合が悪いと言ってある。勘の鋭い母のことだ。もしかすると、娘が嘘をついていることに気づいているかもしれない。


「そう。無理しなくても一日くらい大丈夫よ。今日はゆっくり休みなさい」

 気づいた上で言っているのだとすれば、とても優しい母だ。そして、私はダメな娘だ。


「でも、テストも近いし……」

 本当は、テストのことなんて気にしていなかった。授業も成績も何もかも、今はどうでもよかった。

 嘘を重ねると同時に、罪悪感が積もっていく。


「本当に伊澄は真面目ね。誰に似たんだか……。それじゃあちょっと買い物行って来るから。何かあったらすぐ電話してね」


 昼前に、私は家を出た。母はまだ買い物から帰って来ていない。

 一応制服を着てはいるが、できるだけ人に見られたくない。顔を伏せて、いつもとは違う人気ひとけの少ない道を通る。

 学校には行かず、直接公園へ向かった。


 彼に、言わなくてはならないことがある。

 私はいつものベンチに座った。弱い風が吹いただけでも、鳥肌が立つ。マフラーに鼻から下をうずめた。


 鞄に付けられた石には、小さなひびが入っていた。その小さなひびを、私はじぃっと見つめる。そんなことをしても、修復はされないと知っていながら。


 私と彼の関係は、もうすぐなくなる。

 不思議な力で出会った二人の軌跡は、跡形もない決別へ、問答無用で進んでゆく。


 石が、淡い光をたたえて――

〈あれ、伊澄。今日は早いんだ〉

 彼の声。


 かなり聞こえづらくなっている。

 私の名前を呼ぶ彼の優しい声が、大好きだ。

「……そうだね」

〈ん、なんか今日は元気ないね。体調でも悪いの?〉


「いや、ちょっとね」

 言ってから、昨夜の母の台詞とそっくり同じだと気づく。


〈そっか。何かあったら聞くよ?〉

 ありがとう。口にはせずに、心の中で呟く。


 だけど私は今から――キミのことを裏切るんだ。


「やっぱり諦めなよ」


 石の向こうの彼に向けて、はっきりとそう言った。


 これは、私の人生最大の賭けだ。

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