9.未来を見据えて


 その翌日以降も、僕と伊澄の奇妙な関係は続いた。

 基本的に平日は、僕は小屋で、伊澄は公園で昼食を食べる。ただ、天気の悪い日は例外で、雨が降っているときは彼女は現れない。


 僕のいる場所では晴れていて暖かくても、彼女のいる場所では雨が降っているということが何度かあった。このことからも、僕と彼女の住む場所が離れていることがわかる。


 話しているうちにお互い敬語がとれて、かなり砕けた口調になっていた。僕は伊澄のことを呼び捨てで、伊澄は僕のことを〝キミ〟と呼ぶようになった。


 僕と彼女は物事の考え方に似通った部分があり、仲良くなるのにそれほど時間はかからなかった。波長が合うというのは、きっと僕たちのようなことを言うのだろう。


 住んでいる場所や個人が特定されるような会話は避ける。質問は、相手のプライベートに踏み込み過ぎない。

 そんな暗黙の了解を守ることで、僕たちは心地よい関係を築けていた。


 彼女は、昼休みに公園に足を運ぶ理由を、友人と喧嘩したせいで教室に居づらいからと言っていた。しかし僕は、その友人とどうなったのかは聞けないでいる。

 気になるが、毎日のように石の向こうに彼女が現れることから、状況は好転していないものと推測できる。そのことが、少し心配ではあった。


 会話の内容は、僕の勉強していることだったり、彼女の好きな漫画についてだったりした。


 僕の所属している理工学部の宇宙工学科は、宇宙に関する最先端の研究が盛んに行われている学科だ。

 ある日伊澄に、大学ではどんな勉強をしているのか聞かれ、僕はそれに答えた。彼女は理系科目は苦手なようで、難解な物理の話に相槌を打っているだけだった。


 もっと上手くかみ砕いて説明できればいいのだが、僕自身もまだ完全に理解していないこととなると、どうしても人から聞いたことや本に載っていることをそのまま話すことしかできなかった。


 ブラックホールやダークマターなどの、宇宙の話もした。しかし、僕の話がひと段落するなり伊澄からは〈ごめん、途中から全然わからなかった〉と返ってきて、そこそこ落ち込んだ。


 好きなことを話すときは、テンションが上がり、話す相手のことを忘れて暴走してしまうのだ。


 たまに、伊澄が授業で理解できなかった部分を質問してくることもあった。

 初めて彼女に勉強を教えたのは、出会いからちょうど一週間くらい経った頃だった。


 理科の授業でイオンの仕組みが理解できないということを愚痴ってきたのがきっかけだ。なるべくわかりやすく教えると、彼女は一生懸命聞いている様子だった。


「やっぱり、教えるの上手いね」

 僕の説明が終わるなり、彼女はそう言った。


「えっ?」

 やっぱり、という部分に違和感を覚え、思わず聞き返した。伊澄に何かを教えるのは、これが初めてのはずだった。


「あ、いや、宇宙の勉強してるってことは、すごく偏差値が高いんじゃない? それで、頭いい人は教えるのも上手なんだなって」

 そういうことか。たしかに所属する大学の偏差値が高いことは否定しないけれど、それは努力した結果にすぎない。


「そうとは限らないよ。僕の学科に、宇宙の研究で世界的に有名な教授がいるんだけど、その授業がひどいんだ。まず黒板の字がミミズみたいで。説明も、ある程度の知識があることを前提にしてるし、学生の頭の回転が自分と同じくらいだと思ってるから、すぐに置いていかれる」


 要するにその教授は、頭の作りが常人とは違っているタイプの人間なのだろう。僕もそうなりたいものだ。


「へぇ。じゃあキミは、頭も良くて教えるのも上手いってことか。すごいじゃん」

「別に、そんなことは……」

 謙遜したが、褒められて悪い気はしなかった。


 反対に僕も、伊澄の話には全然ついていけなかった。伊澄は音楽を聴くことや漫画を読むことが好きだと言う。


 彼女が愛読しているのはいわゆる少女漫画というものであり、僕も流行りの漫画はたまに読んだりするが、少年向けや青年向けのものばかりである。伊澄の挙げるタイトルに、僕が知っているものは一つもなかった。


 少女漫画に関して前から思っていたことを、一度彼女に言ってみたことがある。

「イケメンで性格も良くてモテモテの男なんて、現実に存在するわけないだろ。仮に存在したとしても、地味で取り柄のない主人公の女の子を好きになるなんて、都合が良すぎない?」


 以前から、王道な少女漫画にありがちな設定に疑問を感じていた。娯楽とはいえ、リアリティは大切だと思う。


「あら。じゃあ言わせてもらいますけど、男性向けの漫画はどうなんですか?」

「へ?」

 予想外の角度からの反論に、僕はそれこそ漫画のような反応をする。


「いきなり特別な力が覚醒したり、学校でも有数の美少女複数人とお近づきになったり、弱小校に強い選手が集まってきたり、姿の見えない人と仲良くなったと思ったら意外と身近な人物だったり……」

 伊澄は、少年漫画にありがちな展開を並べる。


「それは……ほら、フィクションだって割り切って楽しんでるんだよ。まさか自分がその漫画の主人公みたくなれるわけないんだし」

 自分で言いながら気づいた。少女漫画も同じなのだ。


「少女漫画だって一緒だから。私たち女の子は少女漫画をファンタジーとして読んでるの。ドゥーユーアンダースタン?」

「はい。おっしゃる通りです」

 年下の女の子に論破されてしまった。


 そういえば、今自分の置かれた立場は、かなり漫画の主人公っぽいのではないか……。そんなことを考えてみる。

 僕は常識を超えて、遠く離れた伊澄と出会ったわけで。不思議な石を媒介にして、二人は繋がっている。少なくとも客観的に見てリアリティはない。




 特に話すことがないときは、本当にどうでもいいような、中身のない話をすることもある。


〈今日のご飯は何?〉

「今日は鮭おにぎりと、えーっと……カレーパン」

 僕はコンビニのビニール袋の中を確認しながら答えた。


〈カレーパンか。いいなぁ〉

「カレー、好きなの?」

〈好き。特にお母さんが作るのが美味しいの〉

 年相応の女の子らしいコメントに、僕はなごむ。


「へぇ。何か隠し味でも入れてるの?」

〈全然隠れてないんだけど、アサリが入ってる〉

 一般的なカレーではではあまり見かけない具材だ。


「そうなんだ。シーフードカレーってやつ?」

〈うん。あ、そうだ。カレーについてはすごく面白い話があるんだけど……〉

「え、どんな話?」

 自らハードルを上げるほどの面白い話とやらが気になって、僕は尋ねた。


〈小学一年生のとき、給食で初めてカレーが出たときのことなんだけどね〉

「うん」


〈そのときから私はカレーが好きで、楽しみだったんだけど、いざ食べてみたら……〉

 この時点でなんとなく察しはついた。伊澄が笑いそうになっているのがわかる。


〈アサリが入ってなくって、泣き出しちゃって。担任の先生が『どうしたの?』って聞いても、私は『アサリがぁ、アサリがあいっでないいいい』って泣いてて。今思い出すと面白くって〉


 伊澄は言い終わると同時に笑い出した。その話が、というよりは、彼女が大笑いしているのがおかしくて、僕も大声で笑った。飲み物を口に含んでいなくてよかった。


「あぁ、面白かった。久しぶりにこんなに笑ったかも」

 十秒ほど経って、ようやく発作は収まった。

〈普通のカレーにはアサリが入ってないってことを知ったときは衝撃だったなぁ〉


「昔は可愛かったんだね」

〈ん? 昔?〉

「や、何でもございません」


 僕たちは、趣味に関してはまったくと言っていいほど噛み合わなかった。それでも、伊澄と話していると面白かった。

 一人でただ食事をするためだけにあった昼休みが、一番楽しみな時間に変貌を遂げた。


 相変わらず大学に友人はいなかったけれど、そんなことは些細な問題に思えた。

 伊澄は僕の中で、確実に大切な存在になりつつあった。




 ある日の会話で、驚くべき事実が発覚した。


〈ねえ、聞いてよ〉

 ある日、伊澄がそんな風に切り出した。

「どうしたの?」


〈今日、進路希望調査票が配られてさ。将来についてよく考えておけって……。しかも大学だけじゃなくて、その先も。そんな未来のことなんてわかんないよ。高校卒業するまで、まだ一年以上もあるのに〉

 高校生らしい悩みを不満げに、そして少し不安げに話す。


「うーん。でも、その通りじゃないかな。大学だって、学部や学科によって全然勉強する内容も違ってくるし」

〈そうなんだけどさ……。私には何もないから。将来が不安になってくるよね〉

「今の時期でそういう風に考えられてるんなら、きっと大丈夫だよ」


〈キミは、大学卒業したらどうするの?〉

「大学院に進もうと思ってる」

 僕がそう答えると、少し間が空いて〈へぇ。すごいじゃん〉と返ってきた。


「大学院が何かわからないから適当に言ってるだろ」

〈あ、バレた?〉

 悪びれる様子もなく、伊澄が笑いながら言った。


「大学とほとんど一緒だよ。勉強する内容がもっと専門的に、難しくなるだけ」

〈なんだ。すごいことには変わりないじゃん。将来の夢とかあるの?〉

「一応、あるけど……。笑わないで聞いてくれる?」


〈うん。笑わないよ〉

 そのことはまだ、誰にも言ったことがなかったけれど、伊澄になら話してもいい。そう思えた。


「僕は、宇宙飛行士になりたいんだ。宇宙とか星とか、昔から好きで、いつか行ってみたいと思ってて」


〈宇宙飛行士、か。素敵だね。でもすごく厳しいんじゃなかったっけ? 宇宙に関する知識だけじゃなくて、英語も使えなきゃいけないし、体だって健康じゃないと〉


「そうなんだよね。しかも試験も不定期だし、倍率だって毎回百倍を超える。いつになるかわからないし、そもそもなれない可能性の方が高いけど、目指すだけならタダだし。っていうか、伊澄はなんでそんなに詳しいの?」


 彼女が言ったことは、考えてみれば当たり前のことだったが、微妙に引っかかりを覚えた。


〈あ……私のお父さん、宇宙飛行士なの〉

 そんな予想外すぎる驚愕の事実に、

「え、本当に? すごい! それ、もっと詳しく聞きたい」

 僕は興奮して、声がうわずる。


 宇宙飛行士は、憧れの職業として挙げられることも多いが、実際になるのは難しいはずだ。色々と話が聞きたかった。


 しかし彼女は、

〈あー、また今度ね。それよりさ――〉

 そんな風に話題を変えることで、僕の好奇心をやんわりと拒絶した。


 それは、僕に話してしまったことを後悔するかのような声色で。彼女はなぜか、父親について話すことを嫌がっているようだった。

 きっと何か事情があるのだろう。それ以降、伊澄の父親の話は、僕から進んで口にしないことにした。

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