14.それでも僕は
明李さんと食事をしたことを伊澄に報告したのは、連休明けの火曜日だった。
〈すごいじゃん! まさか本当に誘えるなんて思ってなかった。しかも毎週一緒に食べる約束もするって……。信じらんない!〉
報告を聞いた伊澄は驚いていた。僕を遠回しにけなしているわけだけど、彼女はそれに気づかないくらいテンションが上がっているようだ。
「自分でもびっくりしてる。毎週明李さんと一緒にいれるなんて、幸せすぎて天に召されるかもしれない……」
〈いやいや、まだ一緒にご飯食べただけだからね。これで満足してるようじゃ先に進めないよ〉
「うっす……」
核心を突いた厳しい一言。もう少しくらい褒めてくれてもいいのに。
〈で、どうだったの? 色々聞けた? 理想のタイプとか〉
「うん。でも、あんまり嬉しい答えじゃなかった」
明李さんに告げられた台詞を思い出して、気持ちがブルーになる。
〈え? まさか、彼氏がいたの?〉
「ううん。彼氏はいないって」
〈じゃあ何がダメだったの?〉
「今は、恋愛する気はないって」
〈それって、どういうこと?〉
どういうこと、と聞かれても、そんなのこっちが聞きたいくらいだ。
「いや、僕もよくわからない」
〈理由は聞かなかったの?〉
「うん。聞けるような感じじゃなかった。それに、僕もいっぱいいっぱいだったから」
あのときの明李さんからは、何も話したくないという雰囲気が伝わってきた。
〈うーん、いくつか理由が考えられるけど……〉
「例えば、どんなの?」
〈仮説その一。キミの好意に気づいていて、遠回しに拒絶している〉
「うっ……」
いきなり殺傷性の高いものがきた。もしそうだとしたら、ショック死するかもしれない。
〈でも、来週も一緒にお昼食べようってことになったんでしょ? なら違うと思うよ〉
「よかった」
ホッとする。
〈仮説その二。失恋したばかりで、気持ちを切り替える時間が必要〉
「誰だ! 明李さんをフった男は! 貴様の目は節穴か⁉ 脳天にも穴を空けてやろうか?」
思わずその場で立ち上がってしまった。
〈まだ仮説だから! 落ち着きなさい! あとキャラ崩れすぎ!〉
「……ごめん」
〈仮説その三。そもそも恋愛に、または男に興味がない〉
「ああ……うん。これはありそう」
〈でもそれならそう言えばいいのに。やっぱり本人が言いたくないってことはその二じゃない?〉
たしかに、今は恋愛する気がない、というのは、失恋したばかりの女性が言いそうな台詞ではある。
しかし……。
「あり得ないよ。あんな素敵な人をフるなんて考えられない」
惚れた弱みかもしれないけれど、彼女のことを嫌いになる要素なんて一つも見当たらない。
〈それはキミの主観でしょ。もしかすると、プライベートではだらしない人かもしれないよ。部屋とかぐちゃぐちゃだったりして……〉
「僕ならそんなの、全然許せる。むしろ欠点の一つや二つくらいあってくれないと困る!」
〈はいはい。でも、嫌われてはいないってことはわかったからよかったんじゃない? まずは一歩前進〉
「まあね。だけど、僕を恋愛対象として見ていないこともわかった」
僕は力なく笑う。いつも以上に悲観的になっている。
〈ちょっと! せっかく頑張ってるんだから、諦めないでよ⁉ ここでキミが諦めたら……〉
伊澄が言いかけた言葉を止めた。どうしたのだろうか。
「諦めたら、何?」
〈諦めたら……絶対後悔することになる。そんなの、私も悲しいよ。だから、諦めないで〉
彼女の言葉に、少しだけ違和感を抱いた。歯切れが悪いような気がする。本当は別のことを言おうとしていたのではないか。
「別に、諦めてるわけじゃないよ。ただ、それが明李さんの意志なら仕方ないかなって思っただけ。恋愛するかしないかなんて、個人の自由なんだし」
半分は本音だった。僕は明李さんを好きで、彼女が幸せであってほしいと思う。明李さんと恋人同士の関係になりたいという気持ちはあるけれど、それで彼女が幸せになれないのならば意味がない。もう半分は強がりで、ただの言い訳に過ぎなかった。
〈それ、本気で言ってるの?〉
伊澄の声質が固くなる。イライラしているのがわかった。
「そんなわけないだろ!」
思わず僕も、語気が強くなってしまう。
最初は間違いだと思ってた。あんなに綺麗な人を好きになるなんて。でも、時間が経つにつれて、気持ちは冷めるどころか、逆に想いが募っていった。
どんどん彼女に惹かれていく自分が、自分じゃないみたいで怖くもあった。
明李さんが嬉しいときも、悲しいときも、どんなときもそばにいれる存在になりたい。たかが大学生ごときの恋愛で、大げさだと思われるかもしれない。それでも僕は――
「僕は、明李さんを幸せにしたい! 明李さんと幸せになりたい!」
〈だったら、今は恋愛したくないなんて考え、ぶち壊しちゃえばいいじゃない! キミが全力で幸せにすればいいじゃない!〉
「そんなの、どうやって――」
〈大丈夫! キミたちはちゃんと、幸せになれるから!〉
伊澄は力強く断言した。そんな未来がくる根拠なんてないはずなのに、なぜかそれが本当のことのように聞こえた。
「ありがとう。でも、僕は明李さんのことを知らなすぎる。この前、話してみてわかった」
こんな僕に、彼女を幸せにする資格などあるのだろうか。
〈知らなかったのなら、これから知っていけばいい。まだ、時間はたくさんあるんだから〉
年下の女の子に慰められてしまった。そんな状況が、自信のなさに拍車をかける。
「伊澄はさ」
〈ん?〉
「今は好きな人とかいないの?」
〈何、突然〉
「僕だけ色々話すのもずるいなぁって思って」
〈キミが勝手に相談してきたんでしょ? そう思うんなら、別にもう話さなくてもいいけど〉
「そうだね。ごめん」
〈……いるよ〉
細くて弱々しい声だった。注意していなければ聞き逃していたかもしれない。
「え?」
〈好きかもしれない人なら〉
「かもしれないって?」
〈バイト先の先輩なんだけど、最近その人のことをよく考えちゃうの。はっきりとはわからないんだけど、たぶん好きってことなんだと思う〉
「やっぱり年上か」
世のカップルには、男が年上というパターンが多い気がする。明李さんより年下の僕は、それだけで不利な気がしてしまう。
〈すごく頼りがいがあって、優しい人なの〉
僕がわかりやすく落ち込んでいるところに、伊澄が畳みかけるように言った。絶対わざとだ。
「……うん。わかった。もうそれ以上言わなくていいよ。っていうか、伊澄、バイトしてたんだね」
〈まあね。社会勉強みたいなもんかな〉
「何のバイトしてるの?」
〈秘密〉
「えー。なんで」
〈それより、また物理がわかんないの。教えて〉
結局、伊澄のバイト先についてははぐらかされて、僕は鉛直上方投射について解説することになった。
〈お、できた。本当に教えるの上手いよね。塾とか家庭教師とかやってるの?〉
「やってないし、やったこともないよ。あ、でも、たまにバイト先の後輩に勉強教えてる」
〈そうなんだ〉
「うん。その子もわかりやすいって言ってくれてるし」
文月さんのことだ。期末テストは上手くいっただろうか。
〈へえ。やっぱり教え方上手なんだ。その子は女の子?〉
「そう。この前、お礼に映画のチケットを渡されそうになって」
つい昨日の出来事だ。
〈渡されそうになって……ってことは断ったの?〉
「うん。気持ちだけでもありがたいし。それに二枚あったみたいだから、友達と行ってもらった方がその子にとってもいいと思っ――」
〈はぁ⁉〉
僕が最後まで言い終わる前に、伊澄の反応が届く。
「ん?」
何かおかしいことを言っただろうか。
〈二枚! わざわざ二枚のチケットを出してきたってことはさ! ねぇ! どういうことかわかってる⁉〉
わからない。ついでに、なぜ彼女がこんなにも怒っているのかもわからない。
「え? たぶん、二枚あるから片方あげますよ、ってことじゃ――」
〈バッカじゃないの⁉ 映画を一緒に見に行きましょうってことでしょ?〉
またもや台詞の途中で、尖った声に割り込まれる。
「え、どうして?」
伊澄は、こちらまで聞こえるような大きなため息を吐き出してから、衝撃的な発言をした。
〈その子はキミのことが好きなの〉
「いや、僕のことを好きになる人なんて滅多にいないと思うよ?」
〈そんな自信満々に言われても……〉
文月さんが僕を好きだなんて、まったく信じられなかった。そもそも伊澄だって、僕から聞いた話だけで文月さんの気持ちがわかるはずもない。
「それに、その子は妹みたいなものだし」
〈……〉
伊澄は何も答えなかった。
「ちょっと、何で黙るの?」
〈それ絶対に本人に言っちゃダメだからね〉
彼女は、絶と対の間に三秒くらいの促音を挟んで言った。
「どうして」
〈とにかくダメ。ダメなものはダメ。で、その子はキミのことが好き。これは間違いない!〉
よくわからなかったけれど、とりあえず従うことにした。
伊澄が学校へ戻った後、僕は石を目の前に掲げてじっと見ていた。どこも変なところはない。様々な角度から観察してみても、いつもと違うところは見当たらなかった。
なぜそんなことをしていたのかというと、石を通して聞こえた伊澄の声に違和感を抱いたからだ。声が違うわけでもなければ、伊澄の口調が変だというわけでもない。
言葉では言い表すことができないが、前と比べて何か違うような気がする、くらいのちょっとした引っかかりだ。おそらく、僕の気のせいだろう。
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