13.哀しみに触れて知る
毎週金曜日に明李さんとお昼ご飯を食べる約束をするという、予想外すぎる嬉しい出来事に舞い上がった後も、僕たちは色々なことを話した。
明李さんは経済学部に在籍していて、その名前が示す通り、経済について詳しく学んでいるようだ。マクロ経済学やミクロ経済学など、名前は聞いたことはあるものの、具体的な内容はまったくわからない。最近は簿記の資格を取るために勉強に励んでいるらしい。
その他にも、カフェでバイトをしていることや、洋楽が好きなこと、中学・高校時代はバドミントン部だったことなど、今まで知らなかった彼女のことを、今日だけでたくさん知ることができた。
信じられないことに、会話は弾んでいた。緊張はまだあるものの、しっかり会話ができている。もしかすると、毎日のように伊澄と話していたおかげかもしれない。改めて彼女に感謝する。
「最近、何かオススメの本とかありますか?」
慣れない状況で神経を使い過ぎたため、比較的得意な趣味の話へと話題を変える。
「お、どんなのがいい? 新本格? 日常の謎? バカミス?」
本の話題を出すと、明李さんはパッと表情を輝かせた。選択肢が全てミステリーなのが彼女らしい。
「ミステリーだったら、こう……なんというか、最後にひっくり返されるような話が読みたいですね」
「ああ、どんでん返し系かぁ。私も昔はハマったな。懐かしい」
しみじみと昔を思い出すような顔で言う。
「今はあまり読まないんですか?」
「あれはね、時光くん。ウイルスと一緒だよ」
明李さんは人差し指を立てながら、得意気に言う。うん、可愛い。
「ウイルス……ですか?」
「そう。一度そのパターンのトリックを読んでしまうと、二度目からは引っかかりにくくなってしまう。例えばよくありがちなのは、別々の登場人物だと思わせておいて実は同じ人でしたってパターンかな」
それならば僕も読んだことがある。
「ああ、たしかによくあるトリックですね」
「そう。でもね、本を読み慣れてると序盤で気づいちゃうのよ。残念なことに」
それでウイルスなのか。要するに、ミステリーに対して免疫ができてしまうというわけだ。
「なるほど。たしかに序盤でトリックに気づいてしまうと、最後にくるはずだった衝撃が少なくなってしまって損した気分になりますね」
「でも安心して。それを上回ってくる作品をご紹介しますよ!」
明李さんは不敵に笑って、いくつかのタイトルを紹介してくれた。
本の話が一度落ち着いたところで、僕はもう一歩踏み込んでみることにした。
「明李さんって、彼氏とかいないんですか? あ、いや、僕なんかと二人で食事してますけど、もし彼氏がいたら殴られちゃうなって思って」
いえ、別に僕はあなたに彼氏がいようがいまいがどうでもいいんですよ。ただ、彼氏さんがもしいらっしゃるんだったら、二人で食事するのはちょっと申し訳ないような気もしますし……。僕は、そんな態度を装って質問した。まったく装えていないかもしれないけど。
伊澄に言われていたこととはいえ、普段の僕からは想像もできないくらいに積極的だ。今日の僕はどうかしている。
「ふふふっ」
明李さんは口元を押さえて顔を伏せた。笑い方まで上品だ。
「朽名さん?」
どうして笑われたのだろう。
「時光くんって本当に面白いよね」
「どういう意味ですか」
その台詞の真意を図りきれず、僕は明李さんに問いかけた。
「だって、もうとっくにご飯も食べ終わってるのに。それ今さら聞くんだって思って」
「あっ! たしかにそうですよね。すみません」
これは、僕が明李さんに好意を持っていることがバレてしまっただろうか。恥ずかしくなって下を向く。同時に、僕の気持ちに気づいて、少しでも意識してくれればいいなとも思った。
「どっちだと思う?」
「へ?」
顔を上げると、意地悪な笑みを浮かべた明李さんが僕を見ていた。
「彼氏、いるかいないか」
普通だったら、面倒くさい女だと思われるような言動も、彼女だと魅力的に思えてしまう。小悪魔的なその笑顔から、僕は視線を剥がすことができなかった。
「そりゃ、朽名さんは、その……綺麗ですし、いてもおかしくないんじゃないかと思います。あ、でも高嶺の花すぎて、誰も近寄って来ないなんてこともあり得るのかな……なんて」
女性に向かって〝綺麗〟なんて言葉は、今まで生きてきた中で一度たりとも使ったことはなかった。今日の僕は、本当にどうかしているみたいだ。
「あはは。ありがと。彼氏はいないよ。だから安心して」
「なっ、何をですか?」
たしかに、明李さんに彼氏がいないことに僕は安心はした。しかし、彼女はどういう意味で言ったのだろう。
「今日一緒に食事したことが理由で、私の彼氏に殴られる可能性はないから」
そのおどけたような口調からは、ただ単に僕の気持ちに気付いていないのか、それとも気づかないふりをしているのかは読み取れなかった。
ひとまず落ち着こう。コップを手に取り、水を一気に飲んで、口内の渇きを潤した。彼女が僕の好意を察しているかどうかは、ひとまず置いておく。
続いて、彼女の好みを聞き出すことにした。もちろん直接的に尋ねるわけにはいかないため、それらしい会話を組み立てる必要がある。僕の頭は高速回転していた。試験以外でこんなに頭を使うのは初めてだった。
「でも、意外ですよね」
「何が?」
「朽名さん、結構モテるんじゃないですか?」
現に今、僕はメロメロだ。
「そんなこと……まあ、なくもないかもしれないけど。そういうのは全部断ってるよ」
明李さんは謙遜するわけでもなく、事実の一つとして答えた。それでいて、自慢にも聞こえない控えめな口調。
僕が好きなのは明李さんただ一人だけど、明李さんに惹かれる人は僕以外にもたくさんいるのだ。考えれば当たり前のことだった。こんな綺麗な人が、放っておかれるわけがない。
それでも僕は、明李さんの選ぶたった一人になりたいと思った。恋する相手を決めるのは、敵の多さでも難易度でもない。その人が、どれだけ引く
だから今は、できるだけたくさん彼女のことを知らなくてはいけなくて。
「へぇ。じゃあ逆に、どんな人ならいいんですか?」
僕は自然な流れで、彼女の理想の恋人について質問した。完璧なはずだった。
だが、明李さんは、虚を突かれたように動きを止めてしまう。
一瞬、表情が陰ったような気がした。
「……私、恋愛はしないって決めてるの」
幾ばくかの沈黙を破り、紡がれた明李さんの言葉は、僕が予想だにしないものだった。彼女は悲しそうに眉を下げて、無理やり笑顔を作ろうとしている。
「どうしてですか?」
彼女がつらそうにしているのに、思わずそんなことを聞いてしまった。
「ごめん、それは言えない」
気まずくなった空間で、僕は何を話せばいいかわからなくなる。
「それよりさ、さっき言ってたどんでん返し系のミステリーなんだけど――」
明李さんは再び、本の話を始めた。いつもの彼女らしい、溌剌とした声音の向こう側に、計り知れない哀しみが秘められいるように思えてならない。
僕も表面上はどうにか笑顔を作って会話していたが、不安はぬぐえなかった。
「今日は楽しかった。また来週ね」
明李さんの表情からは、先ほどの暗い雰囲気が影もなく消えていて、天使のような笑顔だけが浮かべられていた。
「はい。ありがとうございました」
食堂を出た僕は、複雑な心情をもてあましながら、次の授業の教室へと歩いた。
いつもの十倍以上の時間を共に過ごして、明李さんに近づくことはできたはずだ。しかし、彼女は恋愛をする気はないと言う。
そこには、いったいどんな理由があるのだろうか。あのとき浮かべた表情から、前向きな理由でないということだけは推し量ることができた。
結局僕は、明李さんのことを想いながらも、彼女のことなど何一つ知らなかったのだ。その事実に打ちのめされる。
勇気を振り絞って高い壁を一生懸命乗り越えたはずなのに、その先にはさらに高い壁が待ち受けていた。
早く伊澄に今日のことを聞いてもらいたかった。
明日からは祝日を挟んで、三日間の連休だ。その間、彼女とは会えない。
三連休は、特にどこかに出かけるでもなく、課題をほどほどにこなしたり、バイトに励んだりしながら、基本的にはいつもと変わらぬ日々を過ごした。
連休の最終日である今日も、僕はバイト先にいた。勤務終了後、シフトが同じだった
「こっちの数列の総和を三倍して、縦にこう並べると……」
「あっ、そっか! 上から下を引けばこれしか残りませんもんね」
期末テストが近いらしく、いつもに増して真剣さを感じる。
「うん。たぶん他の問題も同じやり方でできると思う。テスト頑張ってね」
「はい。おかげさまでいい点数がとれそうです。いつもいつも本当にありがとうございます」
文月さんはそう言いながら、礼儀正しく頭を下げる。
「いえいえ。大学生なんてどうせ暇だし。僕ができる範囲でならまたいつでも教えるよ」
僕が暇なのは大学生だからではなく、友人がいないからであるというのは黙っておく。
「あ、先輩。そっ、それでですね!」文月さんが、スクールバッグから何かを取り出す。「お礼といってはなんですけど、映画の前売り券が二枚ありまして――」
彼女が僕に差し出したチケットは、公開されたばかりの恋愛映画のものだった。テレビや雑誌などでも大きく広告を打ち出していて、かなり話題になっている。原作の小説は百万部を超えるヒット作らしい。
おそらく、文月さんも僕と同じで、一方的に他人に何かをしてもらうことが苦手なのだろう。興味がないわけではなかったけど、その前売り券だってある程度のお金がかかっているわけで。勉強を教える対価として、年下の女の子からそういったものを貰うのも気が引けた。
「いや、お礼が目的で教えてるわけじゃないし、気にしないで大丈夫だよ。気持ちだけ受け取っておく。だから、友達と一緒に行ってきな」
それに、僕にはどうせ映画に一緒に行ってくれるような友人もいないのだ。
「あ……はい。わかりました。そうします」
何かを言いたそうにしていた様子だったのが、少しだけ気になった。
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