12.臆病者の奮闘


 伊澄に恋愛相談をし、食事に誘うという提案をされた翌日。授業の入っていない二限。僕は図書館で統計学の課題に取り組んでいたのだが、難解で複雑な数式の展開に飽きてしまい、生協の書籍購買部に行くことにした。


 明李さんには会いたかったけれど、会ってしまったらお昼ご飯に誘わなくてはならない。昨日の今日で心の準備など整うはずもなく、明李さんとの遭遇を期待しつつ、彼女がいないことを願っていた。


 しかし入店直後、視界の隅に映ったのは、紛れもなく僕の片想いの相手で。

 大きめの青いニットに黒いスキニーパンツ。そんなシンプルな服装でも、明李さんはその場のどの女性よりもお洒落に見えた。


 どうして、こういうときに限って……。ゲーム内で、欲しいアイテムやキャラクターなどに限ってまったく出てこない、そんな物欲センサーというものがあるけれど、それと同じ仕組みだろうか。


 ――次に明李さんと会ったら何が何でも誘うように。

 頭の中で、伊澄の声が反響する。


 きっと、神様の采配なのだと思った。

 このタイミングで勇気を出さなければ、僕の心は、明李さんへの片想いに対する諦念を受け入れてしまいそうな気がしていた。


 僕は数回、深く呼吸をしてから、彼女に近づいた。


「朽名さん」

 そう声をかけると、綺麗な形をした瞳が僕の方に向けられる。艶のある髪がふわっと揺れた。


「ああ、時光くん。こんにちは」

「こんにちは」

 さて、どうしようか。今の明李さんの笑顔で、最初に言おうとしていた台詞がどこかへ消えてしまった。


 何を話そうとしていたんだっけ……。僕みたいな、人とコミュニケーションをとることが苦手な人種にとっては、話題を出すだけでも一苦労なのだ。

 結局いつも通り、明李さんの方から話を振ってきてくれた。


「ねえ、あれ読んだ?」

 目をキラキラさせながら、彼女はある本のタイトルを口にした。


 それは、大手出版社が立ち上げたばかりの新レーベルからつい最近発売された文庫だった。読んだことのなかった作家の作品だったが、表紙とあらすじに惹かれて僕も購入していた。


「読みました。すごく面白かったです」

 リーダビリティが高く、ページ数が多くないこともあり、買ったその日に読み終えてしまった。


 高校生がタイムリープを繰り返す物語で、綺麗な文章によって綴られる主人公の一途な想いが印象的だった。


「やっぱり。時光くんが好きそうだなって思ってた」

「はい。買って正解でした」

 僕も、読みながら何度か、明李さんが好きそうな本だな、などと思ったことは秘密だ。


「第一幕ってことだから、シリーズものみたいだね」

 情報によれば、続編も出ることが決まっているらしい。

「そうみたいですね。楽しみです」


「私も!」

 一点の曇りもない純真無垢な笑顔だった。今この瞬間、明李さんの笑顔は僕だけに向けられているのだと思うと、とても嬉しかった。


 かなりいい雰囲気なのではないだろうか。誘うとすれば、このタイミングだ。

 僕は覚悟を決めて、口を開いた。


「朽名さん、これからお昼ですか?」

 さりげない雑談を装って尋ねる。

「うん、そうだけど」

 これでもう、後には引けない。


「あ、あの! ……もしよかったら、一緒に食べませんか?」

 昨日の練習の成果を存分に発揮して、僕は明李さんにそう告げた。

 頬が熱くなるのを感じる。昼食に誘うだけでこんなになっているんじゃ、先が思いやられる。先なんてあるかどうかわからないけど。


「いいよ」

「そうですよね。やっぱり僕なんかとじゃ……えっ!? 」

 伏せていた視線を上げる。黒目がちで清らかな瞳を真っすぐに僕に向ける明李さんは、女神にしか見えなかった。


「金曜日は、いつもお昼ご飯は一人なの。だから誘ってもらえて嬉しい。しかも時光くんに」

 明李さんは、紅い唇の隙間から白い歯を覗かせてはにかんだ。


 僕は浮かれて、返事ができなかった。頭がふわふわしている。そのままどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。


「学食でもいい?」

 惚けている僕に、明李さんが聞いた。

「は、はい!」

「じゃ、行こっか」


 バッグの中には、昼食用に買った菓子パンが入っていたが、そんなものはどうでもよかった。明日の朝食にでもすればいい。


 百メートルもないはずの食堂までの距離が遠く感じた。華のある明李さんは人目を惹く。その隣を歩いているわけだから、必然的に僕にも視線が突き刺さるわけで。痛い。僕を見ているわけではないことはわかってはいるけど、それにしても落ち着かない。まだ授業中ということもあり、人が少ないのは幸いだった。


 大和学園大学には二つの食堂がある。僕たちが向かっているのは、第二食堂と呼ばれる施設だ。第二というだけあって、もちろん第一食堂も存在するが、メニューなどは同じで規模もあまり変わらない。


 昼休み前なので、まだあまり混んでいなかった。僕たちは、トレーを持って列に並ぶ。サンプルケースを眺めると、美味しそうな料理が並んでいる。

 昼食に、コンビニで買った菓子パンやおにぎり以外を食べるのはいつぶりだろうか。そう考えると、食欲が湧いてきた。


「時光くん、何にする?」

 僕の前に並んでいた明李さんが、振り返って聞いた。ふわりと香るいい匂いにドキッとする。今日、食事を終えるまで、僕の心臓はもつだろうか。


「うーん、実はあまり食堂を使ったことはないんですよ。何かオススメのメニューってないですか?」

 特にこれといって食べたいものもなかったため、明李さんとの会話が続くように質問で返してみた。


「あっ、それならハンバーグとかどう?」

 思ったよりも早いレスポンス。

「美味しいんですか?」

 この大学の食堂における名物的な何かなのだろうか。


「実はね、今日はとんかつを食べようと思ってたんだけど、メニュー見てたらハンバーグも食べたくなっちゃって。だから、私がとんかつを、時光くんがハンバーグを頼んで半分こしない?」


 少し恥ずかしそうに首を傾げて言う明李さんは、破壊力が高すぎて。

「します」

 僕は即答した。


 お互いのおかずを交換する。これはもう、恋人的な距離感ではないか。告白したら成功するのではないか。むしろ両思いなのではないか。そんな調子のいい考えが頭をもたげる。


 しかし、思わせぶりな態度を取っておいて、告白してきた男に対し、そんなつもりじゃなかったと、態度を翻して拒絶する小悪魔的な女も多いと聞く。この前、ネットでそんな感じの記事を読んで身震いした。


 もちろん、明李さんがそんなことをする人だとは思えない。そもそも、女性に対して免疫が少なく、加えて恋愛経験に乏しい僕にとっては、全てが思わせぶりな態度に見えてしまうのだ。気を付けなければ。


 予定通り、僕はハンバーグ定食を、明李さんはとんかつ定食を注文して、空いている席に座った。

 片想いしている女性と、テーブルをはさんで向かい合う。初めての経験だった。

 緊張感が全身をせわしなく駆け巡っている。食事が喉を通るか心配だった。


「それじゃあ、これ」

 明李さんは箸でとんかつを三切れ、僕の皿に移した。

「あ、はい。ありがとうございます」

 僕もハンバーグを箸で半分にし、彼女に献上する。


 何だこれ。幸せすぎる。僕は明日にでも死ぬのかもしれない……。漫画だったら、ポワーンという効果音が背景に描かれていると思う。


「いただきまーす」

 明李さんが両手を合わせて言った。とんかつを一切れ口に運ぶと、顔をほころばせる。とても美味しそうに食べている彼女の姿を見て、空腹感が上昇した。

 僕も同じように、いただきますを言ってから食べ始める。


 うん。美味しい。しかも、量もそれなりにある上に値段は高くない。コストパフォーマンスに優れている。

 二人で黙々と箸を動かす。


「朽名さんは、いつも学食なんですか?」

 このままだと会話をせずに終わってしまいそうで、僕は思い切って問いかけた。

「んー、大体は友達と学食かな。でも、金曜はその友達が授業入れてないから、毎回一人なの」


「そうなんですか……」

 その友達というのは男性だろうか。だとすると、どういった関係なのか。まだそうと決まったわけでもないのに、どうしても嫌な方向へ考えてしまう。


「あ、時光くん。よかったら金曜日は一緒にお昼食べない?」

 僕の心配などよそに、明李さんはとてつもなく素敵な提案をしてきた。


「え?」

 毎週明李さんとお昼をご一緒できるということだろうか。ここまでくると、夢かもしれないと思い始める。こっそり頬をつねってみたけれど、目の前にいるのは間違いなく僕の好きな人で。


「もちろん嫌だったら断ってくれていいから」

「そんな、嫌だなんて! ぜひお願いします」

 強烈な追い風が吹いているようだ。とにかく、このチャンスを不意にするわけにはいかない。

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