7.秘めた想いは伝わらない


 明李さんに会えなかったことに落胆しつつ、書籍購買部をあとにした僕は、図書館でレポートを進めることにした。


 メインストリートを少し歩くと、他の施設に比べてひと際大きな建物が見えてくる。デザインは近代的で、出入りするだけでも頭が良くなるような、そんな錯覚さえ抱いてしまいそうだ。


 空いている席に座る。耳に入るのは、本のページを捲る音とパソコンのキーボードを叩く音だけ。落ち着く空間だった。

 僕は薄型のパソコンを机上に出し、文書作成ファイルと実験結果のデータを開いた。


 今作成しているのは、真空状態での物体の運動に関する実験についてのレポートだ。三日前に行った実験はとても神秘的で、今でも思い出すと感動する。

 僕たちは普段、重力や圧力、空気の抵抗など、様々な制約を受けた状態で生活している。しかし、真空状態である宇宙空間では何も縛るものがない。


 その実験は、地球という環境がどれだけ特殊なものであるかを教えてくれた。空気すらも存在しない真空状態は、普段僕たちが見ている世界と、全く別物の景色を見せてくれる。


 真空中の物体の動きは、シンプルで美しい。僕の中の、宇宙に対する興味が膨らんでいった。


 結果を入力して、考察を記入していく。

 しかし、どうしても集中力は続かなかった。おそらく、先ほどの不思議な出来事のせいだろう。


 理系だからか、僕の悪い癖のうちの一つに、あらゆる現象に何とかして説明をつけようとしてしまう、というものがある。

 だが、昼のことに関しては考えてもまったくわからない。それどころか、疑問は増えていく一方だった。


 結局、レポートはあまり進まないまま、授業の時間になってしまった。

 四限の電気化学の授業も上の空だった。身振り手振りを交えて話す教授の説明が、意味を成さないただの音の羅列となって、僕を通り過ぎていく。


 五限には何も入っていないため、これが今日の最後の授業だった。夕方からはバイトが入っていて、それまではまだ時間がある。レポートを進めようかとも思ったけれども、おそらく進捗は期待できないと思う。

 最終的に、家でだらだらすることになった。


 昼に起こった奇妙な出来事について考えながら、バイト先へ向かう。

 ところどころ、記憶が不確かになっていた。ある程度時間が経ったからだろうか。


 現在では携帯電話という文明の利器によって、離れた場所にいる人間同士の会話が可能となっている。音を電波に乗せて送受信されている、というのが、携帯電話の簡単な仕組みだ。


 すると、石が同じような役割を担っているのかもしれない。伊澄も僕と同じような石を持っていたという。


 だが仮に、内部にそんな仕組みがあったとしても、電気がないと機械として動作しないはずだ。僕の持っている石に電気が蓄えられているということも考えにくい。


 結局、石自体が不思議な力を持っていることになってしまう。僕の理解を超えた現象であることに変わりはない。まるで、小説のような出来事である。

 とにかく、非日常的な体験に困惑していることは確かだ。あれは、夢だったのではないか。そんな発想に至る。


 これ以上は考えても無駄だろう。疑ってあれこれ考察するよりも、明日も同じ場所に石を持って行く方が何倍も手っ取り早い。

 バイト先では、そのことについてあまり考えないようにしよう。


 考え事をしていたせいか、少し早歩きになっていたらしく、バイト先には余裕を持って到着した。店長に挨拶をして従業員専用のバックヤードへ入る。


 ロッカーから制服を取り出して着用し、店内に出る。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」を客の出入りに合わせて発しながら、黙々と仕事をした。


 雑誌コーナーの客が少なくなった隙に、陳列を整える。立ち読みをするなら、せめて戻す場所くらいはきちんとしてほしい。

 店内をモップで掃除し、レジが混んできたらサポートに入る。


 バイトを始めてからすでに一年以上が経過しているため、大抵のことは無心でミスなくこなせるようになった。今日も、いつもとさして変わらない日常だった。


 することがないときには、バイト仲間と雑談を交わしたりもする。僕は、隣にいる女性に声をかけた。

「寒くなってきたね」


「ですね」

 今日、僕と同じ時間にシフトに入っているのは、文月ふづきさんという高校生の女の子だ。眼鏡をかけていて、大人しい雰囲気。セミロングの髪を後ろで一つ結びにしている。


 真面目な性格のようで、それは勤務態度にも表れていた。しっかりと相手の目を見ながら丁寧な接客をする。彼女がアルバイトを始めたのはつい最近だったが、仕事を覚えるのも早かった。


「この寒さで、お客さんも減ってくれるといいんだけどね」

「あははは、そうですね。このお店が潰れない程度に」


 僕のバイト先は、シフトが曜日制になっている。文月さんと僕の入る曜日が被りやすいこともあり、彼女の研修中はよく僕が教育係を担当した。おかげで、仕事以外で接点はないが、こうして冗談を言い合えるくらいの仲になった。


 休憩時間はバックヤードで、店頭から持ち込んだ漫画雑誌を読む。

 週刊漫画雑誌は、目まぐるしく変化する。まるで、現代社会を象徴しているようだった。


 ついこの前に始まったばかりだと思っていた作品が次々と終了し、また新しく連載が始まる。漫画の内容もバラエティに富んでいて、読者を飽きさせない。

 海賊に死神、バレーボール。最近は将棋に悪魔召喚まで。全ての作品に違った魅力がある。


「お疲れさまです」

 勤務時間が終了し、バックヤードでスマホをいじっていると、文月さんが入って来た。同じ時間に退勤のようだ。

「お疲れ」


「先輩、今ちょっと時間ありますか?」

 文月さんは、僕のことを先輩と呼ぶ。これには二つの理由があった。まず一つ目に、バイトを始めたのが僕の方が先だからという一般的なもの。もう一つは、彼女が僕の通っている大学を目指しているという理由だ。


「うん。どうしたの?」

 家に帰っても特にすることはない。コンビニで買った晩御飯を食べ、シャワーを浴びて寝るだけだ。


「この化学の問題がわからなくて」

 文月さんは、僕の目の前のテーブルにノートを広げる。

「……ああ、気体の状態方程式ね」

 彼女のノートには、綺麗な文字と数字が整然と並んでいた。


「はい。答えだけはわかっているんですけど、何回か計算してみても数字が合わなくって」

 途中式を目で追う。一つひとつの式がきちんと整理されていて読みやすかった。


「んーっと……あ、ここだ。単位をよく見て。ここでモルからリットルへの変換が必要になってくる。で、気体は理想気体だから……」

 僕はこうして、ときどき文月さんのプチ家庭教師をする。


「……うわっ、そっか。わかりました。ありがとうございます」

 彼女は右手を頭部に添えて、悔しそうに顔を歪めたと思うと、僕の方に向き直って、ぺこりと頭を下げた。


「ん。よかった。また何かあったら遠慮なくどうぞ」

「はい! いつも本当にありがとうございます」

 三人兄弟の末っ子として育てられた僕にとって、彼女は可愛い妹のような存在だった。


「そうだ! 頼んでたヤマガクのパンフレットが届いたんですよ」

 ヤマガクというのは、僕の通う大和学園大学の略称である。

「へぇ。僕も受験生のときは見てたけど、いざ入学してみると全然見ないな。まあ、高校生向けだから、当然と言えば当然か」


「あ、今日持ってきてるんですけど、見ますか?」

 僕の返事を待たずに、文月さんはバッグを開けて探し始める。


「うん。ちょっと見てみたいかな」

 何だか嬉しそうな彼女を見ていたら断ることはできなかったし、どんなことが描かれているのか少し興味もあった。


「ありました。これです」

 文月さんが取り出したのは、A4サイズの薄い冊子だった。なんとなく見覚えがある。僕が高校生だった二年前とあまり変わっていないのだろう。


「懐かしいなぁ」

 文月さんから受け取って、パラパラとページを捲る。学部学科ごとの学ぶ内容について、詳しく書かれているようだ。教室や設備、サークル活動についても、カラーの写真付きで紹介されている。


 見覚えのある人物が視界に入って、僕は手を止めた。

「どうかしました?」

 文月さんが横から覗き込んでくる。


「いや、ちょっと知り合いが写ってた気がして」

 ページを逆に捲っていくと、僕の好きなあの人が見つかった。

「……やっぱり。朽名さんだ」


「どれですか?」という文月さんの質問に、僕は「この人」とだけ答えて、指で明李さんを示す。


 僕の指先では、明李さんがペンを握りながら真剣に前方を見据えていた。授業の様子を撮影したものらしい。ピンと背すじが伸びている。真面目な表情の明李さんも美しいと思った。


「わわわ! めちゃくちゃ綺麗な人じゃないですか!?」

「うん。そうだね……って、なんでそんな目で見るの?」

 文月さんは、眼鏡越しに僕を睨みつけるように見ていた。元々が小動物的な容姿をしているので、あまり迫力はない。


「なんか先輩、デレデレしてます。顔が緩んでます」

「ゆっ、緩んでないよ!」

 慌てて否定するが、おそらく無意識に緩んでいたのだろう。


「あはは、冗談ですよ」

 僕が必死に否定しているのがおかしかったのか、文月さんは破顔して言った。


「別に朽名さんのことはそういうんじゃないから!」

 決してそういうんじゃなくないのだけど、他人に知られるのが恥ずかしくて、僕は嘘をついた。


「わかりました。必死で弁解してるところが逆に怪しいですけど、一応そういうことにしておいてあげます」

 文月さんはお見通しだったかもしれない。彼女は面白がって噂を流すような人じゃないから、大丈夫だとは思うけど。


「じゃあ、もうこのことに関してはノーコメントで」

 ふてくされる僕を見て、文月さんはフフッと笑った。


「それじゃ、また」

 文月さんは、手袋とマフラーを装着し、再び僕にぺこりと頭を下げると、万全の装備で出て行った。

「うん。気を付けて」


 さて、僕も帰るか。背伸びをして立ち上がり、上着を羽織る。

 棚を整頓している店長に声をかけ、バイト先から外へ出た。


 夜空には三日月が輝いている。真上を見ると、地球は視界から消え去り、宇宙だけが残される。今にも吸い込まれてしまいそうだった。


 ――伊澄も、同じ空を見ているのだろうか。

 ふと、そんなことを思った。

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