29.夢をくれた人


 私が時光先輩と出会ったのは、今年の夏休みだった。

 部活にも入っていない私は、長期休暇中はすることがなかった。


 これといって熱中するほどの趣味もない。勉強しようとも思ったけど、やる気が出ない。来年になれば受験生で、どうせ追いつめられる。今のうちに、何かしておくべきことはないだろうか。


 そんな考えから、社会勉強のためにバイトを始めてみようと思った。

 高校生ができそうなバイトといえば、コンビニと飲食店くらいしか思いつかなかった。


 家と学校のちょうど真ん中あたりにあるコンビニで、スタッフを募集していたので応募してみる。普段は控えめで引っ込み思案だけれど、こういうときの私は、案外決断力がある。


 翌日に店長と面接をした。あっさりと採用が決まり、そのコンビニで働くことになった。


 簡単そうだと思っていたけれど、コンビニ店員にはたくさんのことが求められる。レジでのコーヒーやドーナツの販売だけでなく、振込や配送、チケットの申し込みなど、様々なサービスがあるのだ。


 そのほとんどを、私は時光先輩から教わった。シフトの関係で、私の教育係的な役割を任されたのが先輩だったのだ。

 この時はまだ、優しいとか大人しいとか、そんな印象しか抱いていなかった。


 先輩に対する気持ちに決定的な変化が生じたのは、私がアルバイトを始めてから、一週間が経った頃だった。


 私の入っていたレジカウンターで、中年の客がタバコの銘柄だけを告げた。同時に、カウンターに小銭を叩きつける。その動作からは、苛立ちが感じられた。


 普段は番号で判断しているため、当然タバコなんて吸ったこともない私には、その銘柄がどこにあるかさっぱりわからなかった。


「しょっ、少々お待ちください」

 この時点で、すでに私は泣きそうになっていた。

「おせーよ! 早くしろよ!」

 中年は、カウンターを叩いて威圧的な態度を示す。


 百種類を超えるタバコが並んでいる壁を目の前にして、私の頭が真っ白になっていく。

「大変申し訳ございません」

 ただひたすらに謝るしかなかった。背中から男の舌打ちが聞こえる。


 視界の隅で、スッと手が伸びてきて、商品をつかんだ。

「大変お待たせいたしました。こちらでよろしいでしょうか」

 休憩中だったはずの先輩が、カウンターにタバコの箱を置く。


 男は乱暴につかみ取り、早足で店を出て行く。私は思わず、ホッと一息ついた。

「ありがとうございます」

 先輩に頭を下げる。助けに来てくれなければ、たぶん私は泣き出してしまっていたと思う。


「あの人、いつもあんな感じでイライラしてるから気にしないで。僕も最初の方は嫌だったけど、もう慣れたし。あ、そうだ。いいこと教えてあげる。あの人、きっと部下の若い女の人にキモいって陰口を言われまくってて、そのせいで機嫌が悪いんだろうなぁ……とか想像すると少しだけ嫌じゃなくなるから」


「ふふっ」

 結構酷いことをサラっと話す先輩に、思わず笑ってしまう。こぼれそうだった涙は、すでに引っ込んでいた。


「っていっても、僕も入ったばかりのときに先輩から教えてもらったんだけどね」

 どうやら、かなり昔からの常連客らしい。

「今度からそうしてみます」

 嫌なことがあったはずなのに、なぜか嬉しかった。


 このとき私は、時光先輩のことを好きになった。

 もしも助けてくれたのが先輩ではなく他の人だったとしたら、その人を好きになっていたかもしれない。


 幼い頃に散々憧れたような、運命的な恋ではなかったけれど。

 私はたしかに、先輩に恋をした。




 とある十二月の金曜日。

叶蓮かれん、大丈夫? 顔色悪いよ」

 心配そうに顔を覗き込まれる。休み時間に、前の席に座る友人と話していたときのことだった。


「うん。ちょっと疲れてるだけ」

 朝から喉が痛く、体がだるい。どうやら、風邪を引いてしまったようだ。


 学校を早退するか迷う程度に頭が痛い。しかし、放課後にはバイトが入っている。このときは、そのうち良くなるだろうと高をくくっていた。


 その考えが甘かったことを知るのは、午前中の授業が終わった頃だった。

 昼休みに、店に電話をかけた。体調がさらに悪化し、まともに働けそうになかったからだ。


 誰か他の人に頼めないかということを相談する。結局、連絡が遅くなり、迷惑をかけてしまった。ギリギリまで粘った私の責任だ。もし誰もいなかったら出ますとは伝えたが、できるならゆっくり休みたかった。


 代わりの人を探してもらえることになった。その上、私の不手際を怒るでもなく、心配までしてくれた。店長に礼を述べて電話を切る。

 自己嫌悪に陥りながら、折り返しの連絡をボーッと待つ。


 数分後、店から電話がかかってきた。

『時光くんが入ってくれるって。だから今日はゆっくり休んで』

「わかりました。ありがとうございます。本当にすみません」


『いいって、いいって。それより、あんまり無理しようとしないでよ』

「はい。本当にありがとうございます」


 友人がバイト先の愚痴を話すのを何度か聞いたことがある。聞いているこちらまで憤りを覚えるような内容もあった。彼女たちに比べると、私は間違いなく恵まれているのだろう。


 授業をどうにか最後まで受けて、家に帰ると私はすぐに寝た。疲れていたこともあり、すぐに意識を手放した。


 起きると、もう少しで私が入る予定だったバイトが終わる時間だった。体調はかなり良くなっていた。


 罪悪感と感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。

 同時に、先輩への想いが溢れてきた。


 先輩に告白するなんてことはなかったし、これからもないと思っていた。今の関係性を壊してしまうリスクを考えると、とても怖い。


 仲の良い先輩後輩というつながりだけで十分だった。

 いや、十分だと思っていたのに。


 風邪で弱っていたからかもしれない。

 先輩に、私の気持ちを伝えたかった。

 

 今なら、言える気がした。そして、このタイミングを逃してしまったら、もう二度と伝えられない。そんな予感があった。


 服を着替え、コートを羽織る。

 ついでに、胸に秘めた決意と、失恋する覚悟で全身を武装した。


 勇気を振り絞って、先輩に私の気持ちを打ち明けた。

 しかし、奇跡が起きるわけでもなく、私の恋の結末はありきたりなものだった。


 先輩には好きな人がいた。私が先輩のことを想っているのと同じように、先輩はその人のことが好きで。


 悲しくなかったわけではない。先輩への想いがなくなったわけでもない。けれど、気分は晴れやかだった。


 自己満足と言われればそうかもしれない。それでも、一つの恋をちゃんと終わらせることができたのだ。

 またいつか、素敵な人に出会って、素敵な恋をしたい。そう思った。




 先輩は、私が告白をしたあとも、以前と変わらぬ態度で接してくれてた。そのことがとてもありがたかった。


 ある日の勤務後、先輩とバックヤードで雑談に花を咲かせていた。

「そういえば先輩、このキーホルダー褒めてくれましたよね」

 バッグにつけている星型のキーホルダーを手に取って言った。

 私が告白する少し前のことだ。とても嬉しかったことを覚えている。


「え? ああ、お洒落だなぁってずっと前から思ってて」

「実はこれ、私が作ったんです」


「へぇ。普通に売られてるやつみたい」驚いたように目を見開いて、先輩が言った。「っていっても、僕はあんまりアクセサリーは見たことないけど」


「実は私、デザイナーになりたいんです」

 話をちゃんと聞いてくれるから、まだ親にも言っていない私の夢をこぼしてしまう。


「デザイナーか。いいんじゃない?」

「笑ったりしないんですか?」

 愚問だった。先輩は、他人のことを笑ったりしない人だ。ずっと見ていたのだから、それくらいはわかっている。


「笑わないよ。夢があるのはすごく立派なことだと思う。応援する」

「嬉しいです。あ、それと、こうして私と話してくれてありがとうございます」

 先輩が少し恥ずかしそうに下を向く。私の意図は正確に伝わったようだ。


「いや、実は僕も緊張してるんだ。でも、ある人のおかげで今こうして文月さんと喋れてる」

「ある人、ですか?」


「うん。、たぶん文月さんを避けてたと思う」


「じゃあ、その方に感謝しないとですね。で、誰なんですか? まさか、彼女さんですか?」


 先輩が、ギクッというような表情をする。かまをかけてみたのだが、どうやら好きな人とは上手くいったみたいだ。


「えっと、彼女……は違くて、いやあの……うん。ちょっと待って。とにかく、別に名前を伏せてるわけじゃなくて、どんな人だったか忘れちゃったんだよ」


 顔を赤くして焦って、しまいには変なことを言い出す先輩がおかしくて、思わず吹き出してしまった。

「先輩、面白いこと言う人だったんですね」


 もしかすると、この日、私の夢は正式に決まったのかもしれない。

 デザイナーになりたいなんて、それまでは誰にも言ったことがなかった。


 先輩と話をしなければ、適当に見つけてきた言い訳で夢を包み込んで、心の奥底に封印して人生を終えていたと思う。

 好きだった人からもらった自信が、私の背中を押してくれたのだ。

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