31.奇跡は巡る


 宗平と最後の会話をしたその日の夜。

「お母さん」

 晩御飯を食べ終えたタイミングで、私は母に話しかけた。

「どうしたの、伊澄」


「昨日のことなんだけどさ、何かあったの?」

「え?」

「なんか、悲しそうだったから」


 私が宗平に酷いことを言ってしまうきっかけにもなった、母の悲しい表情を思い返す。


 しかし母は、

「昨日の……いつ頃?」

 よくわからない、といったような顔。とぼけているわけではなさそうだ。

「夜、私がバイトから帰ってきたとき」


「あ、あれかも。全然たいしたことじゃないの。ちょっと前から狙ってた服があったんだけどね、昨日行ったら誰かに買われちゃってたのよ。すごく可愛かったのに。そんなに悲しそうに見えた?」


「何それ?」

 私は笑った。母もそんな私を見て笑う。

 家族のことなのに、全然わかっていなかった。勝手に勘違いして、バカみたいだ。


「お父さん、遅いね」

 そう言った母の顔からは、悲哀の色など一ミリも感じられない。


「うん」

 私の心を読み取ったかのような、突然の話題の転換。娘の考えていることなど全部お見通しなのだろう。


「でも、そのうち帰って来るはずだから、気長に待ってましょう」

 私の頭に置かれた母の手は、優しくて暖かい。思わず目を細める。


 母はずっと、彼のことを信じていたのだ。そして、今も変わらず信じ続けている。本当に、敵わない。


「お父さんと結婚してよかった?」

「何それ? どうしてそんなこと聞くの?」

 柔らかい微笑みが、すでに答えを物語っている。

「んー、なんとなく?」


「よかったよ。あの人のおかげで、私は幸せになれた」

 父は母を、母は父を、互いに信じている。遠く離れた場所にいても、二人の想いは変わらない。


 結局、私の些細な妨害など、何の意味もなかった。少しだけ悔しいような気もするけれど、安心の方が大きい。


 なんだかんだで、私も父のことが大好きなのだ。

 一緒に過ごした時間は六年程度しかないけれど、父の優しさはちゃんと覚えている。


 私の下手な絵を褒めてくれたことも、母に買ってもらえなかったお菓子を次の日にこっそり買ってきてくれたことも。


 繰り下がりのある引き算が苦手で困っている私に、父は丁寧に教えてくれた。簡単な問題でも私が正解すると、父はまるで自分のことのように喜んでくれた。


 宗平、つまり、大学生の父にも同じように教えてもらったときには、なんだか懐かしさを感じた。


 宗平との記憶は、すでに大部分が曖昧になっていたけど、彼は必ず帰ると言っていた。私も母と同じように、宗平の――父の帰りを信じて待つべきなんだ。


 彼のことを忘れてしまっても、そんな思いだけは強く、私の心に残り続けるような気がした。


 ――僕、明李さんにちゃんと伝えたよ。

 昨日の彼の台詞を思い出す。


 結果は聞かなくてもわかっていた。二十二年後の朽名明李さんの――先ほどの母の言葉が、何よりの答えだ。


 あんなに弱気だった彼が、勇気を出して一歩踏み出した。

 今度は、私の番だ。




「今日は結構大変だったね」

 バイトが終わった後の、二人きりの空間で先輩が口を開く。


「そうですね。クリスマス前だから、プレゼント用のラッピングがすごく来ました。やっぱり絵本が多いですね」

 私の働く書店は、プレゼント包装のサービスを行っている。この時期は多いと聞いていたが、予想以上だった。


「でも、この絵本を渡された子供が、これをきっかけに本好きになってくれるかも……なんて考えたら、なんかワクワクしない?」

「素敵な考え方ですね」


 相馬大樺そうまたいが。それが、私の好きな人の名前。店長や一部の従業員にはソウちゃんなんて呼ばれている。


 中学生のときに一方的に私が知って、数ヶ月前に再会した。向こうは私のことは覚えていない。


「あの……先輩!」

 クリスマスまで、あと数日。それまでにデートに誘うとなると、シフトの都合上、今日が最後のチャンスだ。


「ん?」

 しかし、いざとなると口から言葉が出てこない。


 宗平にはさんざん言っておいて自分はこの有様だ。情けなくなる。

 何も言えない私を、先輩はじっと待ってくれている。


 何でもないです。

 そんな言葉が滑り落ちそうになった瞬間だった。


「時光さん」

 相馬先輩の方が口を開いた。

「はっ、はい!」


「えっと、話があります」

 かしこまった態度だけど、口元には柔和な笑みが広がっている。


「……はい」

 なんだろう。私の言わんとすることを察して、釘を打とうとしているのだろうか。


 しかし、私の予想は裏切られる。

 先輩の口から出てきたのは、


「今度のクリスマス、一緒に過ごしてもらえませんか?」


 私が言うはずだった言葉だった。




 クリスマス当日。イルミネーションを見ながら二人で歩いて、ちょっとだけお洒落な店でご飯を食べて。


 そんな、何の変哲もないデートだったけれど、私は満たされていた。

 好きな人と一緒に過ごす。ただそれだけで、今日という日が特別な時間になった。


「ちょっと時間ある?」

 お店を出ると、先輩が尋ねた。

「はい」

 私も、先輩ともっと一緒にいたかったので、断る理由もない。


 人気ひとけのない公園。二人で並んでベンチに座る。

 街灯に照らされた先輩の顔が、赤くなっているような気がした。


「これ、どうぞ」

 相馬先輩が、私に何かを差し出した。受け取ったそれは、縦長の白い箱だった。


「空けていいんですか?」

「うん」


 箱を開くと、星型のネックレスが姿を現した。厚さ五ミリ程度の平べったい形をしていて、内部も星型にくりぬかれていた。


「……綺麗」

 そんな感想が自然と漏れる。


「実は、今日こうして時光さんのことを誘えたのも、このネックレスのおかげなんだ」

「え?」


「何かプレゼントを渡そうと思ってて、探しに行ったんだけど、なかなかいいのがなくって。もう時光さんのことは諦めようかと思ってたんだ」


「で、帰ろうと思ったら――」

 先輩は、ネックレスを手に入れた経緯を話してくれてた。


 私に似合いそうな星のキーホルダーを見つけたこと。それを付けていた女性がアクセサリーデザイナーだったこと。その女性が先輩に不思議な縁を感じて、ネックレスを譲ってくれたこと。


「じゃあ、まだ正式に売られてないものってことですか?」

「そういうことになるね」

「すごい……。大事にします!」

 ネックレスを握り締めて、胸の前に抱く。


「それ、付けてもらってもいいかな。あ、せっかくだから付けさせてほしいな」

「先輩が、ですか?」


「うん。嫌?」

「そんなことないです、けど」

 ただ、距離が……。


「じゃあ、失礼します」

 先輩は、私の手からネックレスを取り上げた。チェーンを外して、私の首に手を回す。抱きしめられているような体勢になった。

 なんだこれ。ヤバい……。心臓の鼓動が激しくなる。


 数秒後、先輩からのクリスマスプレゼントが首にかけられた。

「ついでに、もう一つお願いがあるんだけど」

 そのままの体勢で、耳元でささやかれた。ダメだ、心臓がもたない。

「……何ですか?」


「俺の彼女になってください」


「え……」

 あまりにも幸せ過ぎる展開に、頭が真っ白になる。これは、夢?


「返事は?」

 いつの間にか、先輩の顔が目の前にあった。


「……はい。よろしくお――」

 それ以上は言えなかった。先輩が、私を強く抱き寄せていた。


 こうして正式に、私は先輩と交際することになった。




 先輩に最寄り駅まで送ってもらい、自宅のベッドの上でぼーっとしていた。

 私が好きな人が、私を好きでいてくれた。奇跡みたいだ。


 このことを報告しなくてはいけない。

 でも、誰に?

 ああ、お父さんからもらったキーホルダーのお守り。あの石を見ればきっと……。


 スクールバッグのサイドポケットを開けて、確認する。

 が、石は二つに割れていた。


 この石が何なのか。私が忘れてしまった人が誰なのか。石とどんな関係があるのか。何もわからない。


 けれども、大切な人だったことだけは覚えている。


「ありがとう」


 私は小さく呟いた。

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