君と僕のキセキ
蒼山皆水
プロローグ
プロローグ
寝ぼけ
しかしそのことは、私が描いた本人だからこそわかることである。線はぐちゃぐちゃで、絵の中の私たちはギリギリ人間の形を保っている状態。クレヨンで塗られた色は、画用紙からはみ出した形跡が見られる。
何も知らない人が見れば、描かれているものが人間であると判別することさえ困難だと思う。
要するに、一般的な絵心のない幼稚園児の絵だ。
私が絵を幼稚園から持ち帰ると、その日の夜に父が玄関に飾った。飾られたその絵を見るたび、私は嬉しく思っていたけど、小学生に上がってからは少し恥ずかしくもあった。
この絵が飾られているということは、私が今いる場所は自宅の玄関のようだ。それに、いつもより視線の位置は高い。どうして、私はこんなところにいるんだろう……。
昨夜は、テレビを見ていたら眠くなり、母より先に布団に入った。これが、意識のある私の最後の記憶。
胸からお腹にかけて温もりを感じた。誰かに背負われている。そのことに気付いた瞬間、私は体をビクッと震わせた。
私を背負っている誰かは、私が眠りから覚めたことに気付いたようだ。
「あ、起きちゃった? ごめんね
私を背負っていたのは母だったらしい。優しい声に安心して、再び瞼が落ちる。
そういえば、明日は早く家を出るというようなことを言っていた気がする。
ガチャ……と、ドアを開く音が聞こえた。家の外に出たようだ。どこに出かけるのだろう。母に尋ねようと思ったが、まだ小学一年生の私は、睡魔には抗えなかった。
背中に、ベッドよりも固い感触。車の後部座席に乗せられたらしい。不規則な震動に揺られながら、私は徐々に意識を手放していく。
車内では父と母が会話していたようだったが、何を話していたかはまったくわからない。
「伊澄、着いたよ。起きて」
母に体を揺さぶられて、私は目を覚ました。車は停まっていた。
「……ここ、どこ?」
目をこすりながら聞いた。
「空港。これ、着替えて」
母が私に服を手渡す。小学校に行くときに着ているような、普通の洋服だった。
パジャマから着替えているうちに、ボーっとしていた脳も動き始めた。
空港――ああ、そうか。父がまた、どこかへ行ってしまうのか。
着替え終わった私は車から降りた。すでに外は明るくなっていて、朝日に目が眩む。
「さ、行こっか」
母はそれだけ言うと、私の手を取って歩き出した。手を引かれるまま、私はついていく。その隣には父もいた。三人で並んで歩いている。玄関に飾られた私の絵を思い出した。
空港のエントランスをくぐる。
見えやすいように高い場所に取り付けられた時計は、午前六時半を示していた。いつもなら、私は夢の中にいる時間だ。
仕事上、私の父は昔から色々な場所へ出向くことが多かった。一ヶ月や二ヶ月、そこに滞在することもざらだ。一年間、帰って来なかったこともある。
父は宇宙を専門とする科学者で、様々な国の人と共同でチームを組み、未知の世界を研究している。何度か宇宙に行ったこともあるらしい。自らの職業に誇りを持っている父を、私は尊敬している。
父が長期間の出張に行くとき、玄関先で見送ったことは何度かある。しかし、空港にまで同行したのは初めてだった。私が小学生になったからだろうか。それとも――。
「悪いな、わざわざこんなところまで見送りに来てもらって」
「ううん、気を付けてね」
父と母の穏やかな会話。この二人はいつも、言葉以上の何かをやり取りしている。今だって、短い会話の中に、私にはわからないいくつかの感情が込められていた。
お互いに伝えたいことを、正確に渡したり、過不足なく受け取ったりすることができる。
私はそんな両親のことが好きだったし、羨望の念を抱いていた。
父がしゃがんだ。目線の高さが私と同じになる。
「伊澄も、朝早いのに来てくれてありがとう。いい子にするんだぞ。ママを困らせないようにな」
私の頭に手を置いて、クシャっと、少し乱暴に撫でる。こうして撫でられるのが、私は大好きだった。
「パパ、どっか行っちゃうの?」
私は、父の目をじぃっと見返して聞いた。ここは空港で、父は大きなキャリーケースを持っている。遠くへ旅立ってしまうことは、幼い私の目から見ても明らかだった。それでも質問をしたのは、答えがノーであることを期待していたからかもしれない。
家にいないことが多い代わりに、休みの日にはたくさん遊んでくれた父が、またどこか遠くへ行ってしまう。それは私にとって紛れもなく、世界で一番寂しいことだった。
「ちょっと遠いところへ行ってくる。ちゃんと帰ってくるから、待っててくれるか?」
「うん。待ってる」
父を困らせたくなくて頷いたが、心の中では首を横に振っていた。大好きな父と離れることは嫌だった。
寂しいと思っている本心が、顔に出てしまったのだろう。父は少し困ったように苦笑いした。
「伊澄には、これを渡しておこう」
父がそう言って取り出したのは、小さな白い石だった。全体的に滑らかだが、きっちり対称な形になっているわけでもない。
石の隅の方には小さな穴が空いていた。その穴にリングが通され、チェーンと繋がっている。キーホルダーの形になっている。
父は右手の親指と人差し指で、一番端の大きいリングをつまんでぶら下げた。
「何、これ」
私は石を両手で受け取った。サイズのわりに、ずっしりとした重みを感じる。
「お守りだよ。大事に持っておきなさい」
「うん、わかった」
当時の私は、お守りがどういったものであるかを十分に理解していなかったけれど、父の醸し出す雰囲気で、それがとても大切にすべきものであることはわかった。
出発の案内をするアナウンスが流れてきた。
「おっと、もう時間か。そろそろ行かなきゃだ」
父は立ち上がって言った。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
母の何とも言えない表情。娘の私でも美しいと感じるその整った顔が、少し歪んで見えた。
「行ってらっしゃい」
私も倣って、父に告げた。
「行って来ます」
私たちに向かってそう言ってから、父は背を向けて、搭乗口に歩いて行った。
それが、私たち家族が交わした最後の会話だった。十年が経った現在も、父はまだ帰って来ない。
思えば、あのとき母は不安をこらえていたのだろう。私より多くの時間を父と一緒に過ごしてきた母が、平気でいられるわけがなかったのだ。悲しさを内側に抑え込み、寂しさを外に決して出さぬように、強い母親を演じていた。他の誰でもなく、私のために。
その後、母の運転で家に帰った。車の中で私はずっと、父に渡された石を見つめていた。
その白い石には、何か不思議な力があるように感じた。
そして十年後――私はとある男の子と出会うことになる。
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