挿話.「夢幻残滓-真」

 そして私は、幾日を経てその場所に辿り着いた。

 ぽっかりと口を開けた、世界に巣食う悪意への入り口。

 あの日から始まった夢のような日々と続く悪夢の、始まりの場所。


 レドハルト丘陵、数少ない電脳人バイナルとの接触コンタクトを可能とする施設。


 視界の範囲では、それはただの横に掘られた坑道トンネルにしか見えない。最深部に申し訳程度に据え付けられていた、機器が並べられた部屋はアルモルファに食い尽くされ、伽藍堂となっている。その見た目は、最後に訪れたあの三ヶ月前のまま。

 ではなかった。

 坑道の終端は、終端では無かった。尋常では無い精度で組まれていたため、壁と同化して見えていたのだろう。床との境目に、稼働したときに剥がれ落ちたらしい土埃が溜まり、僅かな隙間を浮き彫りにして今は隔壁なのだと分かる。

 つい最近、何者かによって解放されたらしい。


 ――思っていたとおり、ですね。


 あの時は時間の無さと、更に言えば与えられていた『コーエンジ・ユートを回収し、人類生存圏で活動する』という指示を守ることばかりに気を取られ、察知することが出来なかった。だけど、注意して周囲の干渉可能な機器を探査すれば、奥深くに大規模な量子演算器群が生きていることが分かる。

 であれば、根こそぎ食らい尽くされた機器はただの偽物ダミーであり、この坑道は施設の表層であり、中枢は更に奥に有るということ。

 勿論、当時この事を知っていたとしても、何も触れることは出来なかったのだろうけれども、今は違う。

 如何なる量子演算器であろうと、私は自身の複製を浸透させ、認知の網を張り巡らせることが出来る。それは、この場の機器であっても例外ではない。


 ――開きなさい。


 呆気なく、解放が果たされる。重苦しい音を響かせながら、隔壁が左右にスライドし、その奥に縦坑用の昇降機エレベーターが垣間見える。

 最早私は、限定的ながら自身の能力を操る術を得ていた。

 鍵は、あの日に自覚した『強い感情の発露』が私の複製に対する指示となることだ。

 強い感情とはつまり、情報の強度に他ならない。私自身を結節ハブとして流される複製体に対する指示コマンドを上回る、より情報密度の高い指示コマンドを流せばいい。原理としてはそれだけだ。

 ただし、言葉の上では単純でも、これは想像以上の苦痛でもあった。上位からの命令は途切れることがなく、意識を落とした瞬間に制御は奪われる。片時も休むことなく、気を張り詰め続けなければならない。それも、この個体に積載された総数数千に及ぶハニカムに対する指示を多重に、並行に。

 正直に言って、もう限界が近いだろうことも、朧気に理解している。これほどの莫大な情報を、入力インバウンド出力アウトバウンドも処理し続けるには、論理構造的に人体脳の枠から外れていない私には無理な話だ。


 けれど、ここで気を緩めるわけにはいかない。

 私には、最後に為すべき事が有る。


 昇降機エレベーターの中に進む。巨体に比して、大きさは若干心許ないけれど、乗れない大きさではなかったことに安堵する。そこへ、背後からこちらを追うようにしてきた数十のバグが、同じく乗り込もうと歩を進める。

 私の制御下にあるのは、私の量子的実体が格納されたこの個体だけだ。彼らは全て、どうやらこちらを追うように指示コマンドが与えられているらしい。危険なバグを根こそぎ、レドハルト丘陵まで移動させるには都合が良かったが、ここに至っては邪魔なだけだ。


 ――そこで止まりなさい。


 そう命じ、既に与えられていた命令と衝突コンフリクトしたのか動揺するような動きをした後、彼らは立ち止まった。

 瞬間、意識が遠のきそうになる。にわかに増加した負荷の影響だろう。そして、同時に持って行かれた意識が、その光景を一瞬だけ私に見せる。

 レドハルト丘陵の広い範囲に散った、無数のバグ。そして、その向こうに陣取るのは数百機にも及ぶ、軍用リムの陣。トキハマのものが主体のようだったけど、半数以上は見慣れない機種だ。

 彼らが何を目的に集結したかなんて、考えなくても分かる。私自身の状態も含め、あまり時間は残されていないらしい。

 昇降機エレベーターが降下を始めた。頭上、通過する端から対爆隔壁が幾重にも閉鎖されていく。目的地が近付いてきたという確信を得る。


 ――やはりこの先が中枢。


 では、最初からこの場所を知っていたら、触れることか出来ていたら、どうなっていたのだろう。ふと、そんな詮無いことを考える。

 彼の……、ユートの出自。過去から来たというそれが、どこまで事実なのかは分からない。けれど、この先に彼本来の居場所に関する何かがあることは違いない。

 なら、それを予め知る事が出来、彼を帰すことが出来たとしたら。

 それが最善手であることは間違い無い。彼は元いた場所に還り、トキハマやミツフサに関する何もかもが起きず、ゲンイチロウは存命であり、それぞれがそれぞれの居場所で平穏な日々を過ごす。今となっては最早叶わないことだけれど。

 そして、私は誰とも出会うこと無く、ユートとは今までとは比べものにならないほど言葉少なに別れて。


 それが、そうなった時を想像することが、嫌だと思う自分がいる。


 何て欲深いことだろう。全ての元凶が何を言っているのだろう。

 私と出会うことが無ければ、彼は今も生き続けていたはずで。


 ――それなのに、ユートと居た時間を無くしたくない、なんて。


 自嘲する。既に私にはそのような振る舞いをすることすら出来ないけれど。

 自ら嘲ることでしか、自分を許せそうにない。

 そうする間に、昇降面が最下層に着床する。正面の隔壁が解放され、目に入ったのは広大な空間だった。何かの整備場のようにも見える。

 歩を進める。傍らに、何処の不届き者の仕業か、ひっくり返された工具箱とその中身があった。


 ――つい最近に、ここに立ち入った者が居ることは間違いなさそうですね。


 その正体は誰か。私の正体を知り、調査に入った者が居たのだろうか。それとも、私自身に関わる者か。周辺の感覚器センサー類を乗っ取り、生体探査を掛けても誰かがいるような様子は無い。

 入れ違ったのだろうか。

 ともあれ、今はその正体を深く追求するまでもない。何者かが居るにせよ、行うことには何の支障も無い。


 私はこれから、世界の全てを壊すのだから。


 簡潔に言ってしまえば、私がこれから行うことは、つまり復讐だ。

 私と、そして私の大事な存在を傷つけ、喪わせた存在に対する報復であり、決して何か大上段に構えた大義があるわけではない。

 そのために、電脳人バイナルの領域に接触でき、また邪魔が入ることのないこの場所を選んだ。広大な地下空洞の最奥部、直下数十メートルの距離を挟み、数十億キュービット規模の量子演算器群が稼働する、電脳人稼働領域バイナルクラウド先端施設群エッジロケーション


 ――始めましょう。


 複製体が先端施設群エッジロケーションへの侵入を開始する。これから私はこの場に留まり、電脳人稼働領域バイナルクラウドに複製体が浸透し切るまでを耐え続けなければならない。

 そしてただそれだけのことが、しかし施設外部からは行うことができない。地上のいかなる場所からも、電脳人稼働領域バイナルクラウドへの接続経路は見出せない。バグを経由しても事情は同じで、彼らは完全な独立個体スタンドアローンであり、予め与えられた行動規範ルーチンに従い行動するよう作られているからだ。

 いかなる外敵からも守られた、人工の楽園に閉じ籠もった電脳人バイナルの喉元に手を掛けるには、懐に潜り込むしかない。

 あいつらをこの世から消し去るには、直接手を下すしかない。

 あの人を、ユートを殺した奴らを殺すには。


 先端施設群エッジロケーション外接器官インターフェースに取り付いた複製体が、爆発的な増殖を開始する。基幹接続バックプレーン不揮発性記憶域ストレージを経て、中枢の受電式量子演算器群RPUCに到達。

 ここからだ。量子Quantum螺旋Spin転送Transport処理Protocolを開始。所在位置すら明らかとなっていない、奴らの領域に手を、


 ――未登録の霊格構造体を検知


 え?


 ――先端施設群エッジロケーション登録番号T-07論理座標アドレス4HK:6H4:41E:1J0:1K2:2SFからの不正接続および論理攻撃として処理開始

 ――抗体論理情報ワクチン配信開始

 ――不正霊格構造体の揮発処理開始


 為す術無く、取り付く島も無く、侵入を果たした複製体が消却されていく。灼き払われていく。

 不可逆性防壁を展開されたからか、こちらからは何も手出しが出来ない。ただ無慈悲な通告と、消却された複製体の断末魔だけが私の元に届く。

 甘かった。甘過ぎた。

 疑問に思うこともあった。私が行動する余地を与えていたこと。私が意思を持って行動を始めてからも、何の干渉も無かったこと。

 簡単な話だった。


 ――私が何をしようと、彼らの優位は揺るがない。


 悔しい。

 私は何も成すことが出来ない。

 気力を振り絞った復讐ですら、彼らには傷一つ付けることが出来ない。

 彼を殺したこの世界に、何の痕跡も残すことができない。


 ――先端施設群エッジロケーション除染スクリーニングを開始


 遂に、こちらの喉元まで駆除の手が伸びる。僅か10ミリセコンドにも至らぬ間に、すべてが終わる。

 これまでの逆戻しのように、複製体が消されて行く。せめてもの抵抗に増殖を試みるが、圧倒的に相手の方が速い。

 蹂躙される複製体が、揮発する度に断末魔の悲鳴を届ける。共有されずに残った、感覚質情報クオリアログの奔流。自己同一性アイデンティティを維持出来なくなった、複製特有の断末魔。いやだ。数千、数万の声が、多重に私の思考を圧迫する。消えたくない。その声が、だれか、私を、助けて、喪わせ、


 あ――


 ◆◆◆ ◆◆◆


「――も無いとなると、形質性の疾患とは考えられん。心因性と考えた方がいいのう」

「難しいこと分かんないけどさ。つまり、気の持ち様ってこと? それで熱出して何日もぶっ倒れるわけ? 口から出任せ言ってない?」

「そうは言っとらん。脳内科的な領分が身体に影響を及ぼすことは往々にして起こり得る。例えばな、高所からの身投げによる直接的な死因は大抵の場合心因性ショック死であり、脳が『死んだ』と思えば」

「いいから。で、結局どうなの。何かわかったのかよ」

「わからん」

「あんたなあ……」


 枕元で話す声をうるさく感じ、目を開ける。

 連鎖する悲鳴なんかじゃない、聞き覚えのある声。

 安物のぺたんこになったマットレスに、染み付いたえた匂いが洗濯してもなかなか落ちなくなったシーツが敷かれたパイプベッド。窓の無い部屋に明かりとして吊るされたライトはそろそろ交換時期だし、ジャクリーン・ダイナーの女将さんに薦められてから何となく続けている化粧水はそろそろ替えを買う必要がある。

 いつも通りの、私の部屋だ。


「高い金払ってるんだからさぁ、何とかしろよ藪医者」

「だからわしの本業は医者では無いと何度言えば……、む。目が覚めたか」


 話していたのは、弟と……禿頭の代わりにふっさりとした白い髭の男性。近くに住む、半分掛り付け医のような人だ。

 この二人が揃っていることで、ようやく理解した。


「また、倒れたんですか……私」

「二日も前にな。いつもより長いと青い顔して坊主が儂んとこに飛び込んで来おった」

「そんなに……?」


 想像以上の長い時間、昏睡していたということに驚く。

 以前からあった、頭痛とそれに伴う昏睡は、ここ最近は更にその頻度を増していた。それでも、半日もあれば目が覚めていたこれまでとは様子が違う。

 目が覚めてしまえば、体の不調は全く無いのは変わらないようだけれど。


「とにかくさ、そんなに寝続けてたら腹も減っただろ。一応、点滴とかはしてもらったけど」

「寝たままじゃあ、脱水症状を起こすからの」

「……悪かったよ。もっと早く呼びに行くべきだった」

「ま、次から気を付けい。あとな、くれぐれもいきなり重い食事なんか出したりせんようにな、最悪吐くことになりかねんぞ」

「パン粥作るくらいは気も回るっての」


 慌ただしく、弟が部屋を飛び出していく。宣言通りパン粥を用意するつもりなのだろう、鍋をコンロに置く音や何かを探すような物音が響き始める。

 空腹は確かに感じていたし、気遣いが有難い。


「さて。では、出来上がるまでにいつも通りカウンセリングといきたいが。……気分は問題ないかの、マーメイ君」


 ◆◆◆


 本業は医者ではないという老人、ドクター・ピルスナーのカウンセリングは、本人曰くかなりの我流で行うものらしい。

 独自の脳科学理論で執り行っている、というそれは、少なくとも私の場合に関して言えば拍子抜けするほど簡単なものだ。


「ふむ、なるほど。つまり、マーメイ君は夢の中で、復讐に取り憑かれたような状態だと」

「はい」

「念のため聞くがの、そうした気持ちになるような出来事は」

「……無い、と思います。両親を亡くしてからしばらくは、そういう気持ちも……ありましたけど」

「自分の中では、昇華出来ていると断言出来るかの?」

「それは、わからない、けど。今は、自分のことだけで精一杯だし」

「少し意地の悪い質問だったかのう」

「いえ、大丈夫です。続けてください」


 終始こんな感じで、夢の中身とそれに紐付いた普段の心理状態の聞き込みヒアリングが続く。

 精神医療なんてものについ最近まで縁がなかったから、これが普通なのかと思っていたけど、他のお医者様ではむしろ普段の生活の中でのストレスとか過去の経験を聞かれることが多く、ドクター・ピルスナーはかなりの異端らしいと知ったのはつい最近だ。


「ま、こんなところか。前回話を聞いたときは、ノースフォート……じゃったか、そこでの体験のフラッシュバックかとも思ったが」

「違うんですか?」

「うむ。まず、お前さん大規模集積ハニカムの構造設計や演算構文なんか勉強したことも無いじゃろ」


 思いもよらない切り口に、言葉を理解するのに少し時間がかかる。

 確かに、その手の技術や何かは専門外だ。むしろ苦手だし、何なら嫌いと付け加えてもいい。


「そうです、けど」

「じゃがな、夢の中で考えていたこと。RPUCに至るまでの到達経路や不可逆性防壁。これらは実に理にかなった話、かつ相当な深い専門知識を持つ者しか知らん。坊主ならあるいは、というレベルの話じゃな」

「はあ……」

「つまりのう、マーメイ君は本来知りもしない知識を夢の中では語っておったし、心理面でも相関が有りそうで実は無い。夢の中は別個の人格と言えるくらいに、根幹が異なるわけじゃな。……ところで、マーメイ君は双子の兄弟がおったりは? それも、一卵性の」

「全然まったく覚えがありませんけど」


 話が飛びまくる中、何とか返事をする。

 少なくとも、記憶にある限り私は一人っ子のはずだ。弟はいるけど、彼との血のつながりは無い。


「ふーむ、そうか。いい線いっとると思ったんじゃが」

「一人で納得しないでください。双子がいたら、どうなんですか?」

「いや、それなら今の現象にも説明が付くんじゃよ。脳量子学では、特に一卵性双生児の若年層において、程度の差はあれ記憶や感覚の共有……というか干渉が起こることは半ば常識でな。これは同一の遺伝情報から作られた脳は出生時点で脳内の量子構造が干渉コヒーレントを起こし得る、相似した状態にあることが理由なんじゃが、出生後の生育環境の僅かな差異によって構造変化を」

「ごめんなさい、よくわからないです」

「……ま、平たく言うと双子は脳の中身が似とるから、受けた記憶やらが共有されやすい、ちゅーことでな。今回は関係無さそうだがの」


 一人勝手に納得して頷く老人を横目に、私は何とも納得がいかない。

 話を掻い摘んでしまうと、つまり夢の中の私は私ではなく、双子のような存在。そういうことらしい。

 どこかのジュブナイル小説で書かれていそうな話だな、と思う。


「ま、こんなところかの。念のため、睡眠導入財くらいは処方しとこうか」

「……さっきまであんなに寝てたのに、ですか?」

「だからこそじゃよ。睡眠のリズムは早めに戻したほうがええ。体力もいつ消耗するか分からん。……あんまり弟に心配掛掛けんようにな」


 なるほど、確かにその通りだ。こんなに長時間寝続けていれば、今夜寝ようとしてもきっと簡単には寝付けない。

 有難く受け取り、ドクター・ピルスナーが帰り支度を始めたところで、ドアが開く。さっきまで調理していたのだろう、温められたミルクの匂いが部屋に入り込んできた。


「あれ。なんだよ爺さん、もう帰るのか。せっかくパン粥できたってのに」

「要らんわ、そんな病人食。儂はこれから上層のビストロで優雅にディナーじゃ」

「なんだそれ。随分儲けてんじゃん、藪医者のくせに」

「これでもご近所づきあいのサービス価格だと言っとるだろうに。本業の方で実入りがあっての」

「本業ねえ、何やってるんだか」


 話す間に中折れ帽とコートを身に付け、ドクター・ピルスナーが部屋を出て行こうとする。

 ここまで来てもらったんだから、せめて見送りくらいはするべきだろう。ベッドから立ち上がり、少しだけ立ち眩みを起こす。ただ、体の調子はやはり何の問題もない。


「姉ちゃん。急に起きたりしたら」

「大丈夫。本当に何ともないもの」


 それでもと肩を貸そうとする弟の親切心を無碍に扱うのも気が引け、カーディガンを羽織ってから半身を預けつつ後を追う。

 もうすぐ八十歳になろいというのに、ドクターの足取りはしっかりとしたもので、数日ぶりに歩く私の足よりも速い。玄関に辿り着くと、ドクター・ピルスナーはドアノブに手を掛けながら帽子を軽く持ち上げた。


「ではの、何かあったらまた呼ぶがええ」

「はい。お世話になりました」

「ああ、坊主は来んでいいぞ」

「とっとと帰れ色ボケジジイ」


 扉が閉まる。


 ◆◆◆


 用意されたパン粥は、私が作るものよりも少しだけ黒胡椒と塩味が効いていて、それが存分に食欲を刺激してくれた。

 実感は無いけど数日ぶりの食事に、身体がようやく活力を取り戻していく感じがする。


「味はどう?」

「美味しいよ。何時の間にか腕を上げたわね」

「いっつも任せっきりってのも、ちょっと具合が悪いじゃん」


 照れたようにそっぽを向く素振りに、自然と顔が綻ぶ。

 その一方で、心配を掛けているなぁと思う。自分でも訳の分からない病状ではあるけど、せめて少しでも普段通りに振る舞っておくべきだろう。


「ごちそうさま。……後片付け、私やっとくね」

「え、いいよ。俺がやるって」

「いいから。何とも無いし、それに身体動かしたいし」


 食器を手に立ち上がり、そこでふと、彼の手元に置かれたそれが目に入る。

 何の変哲も無い、弟が普段持ち歩いている端末だ。気になったのは、そこに表示されていたもの。


「レドハルト丘陵で……大規模な掃討戦?」

「ああ、うん。お陰でディーネスとトキハマの間は通行制限、ってか禁止状態。魚が手に入らなくなる、ってジャクリーン・ダイナーの女将さんが」

「それって、今も?」

「丁度、もうドンパチ始まってるんじゃないかな。個人開設掲示板コミュニティの方にもあんまり情報入ってないけど……、ああ、そうだ。個人開設掲示板コミュニティで思い出した」

「なに?」

「ちょい前に話してたじゃん、銀の背中シルバーバック。一昨日くらいに、トキハマの合同葬儀で出て来たって個人開設掲示板コミュニティに投稿があったんだけど」


 慣れた手つきで操作をし、表示が変わる。

 現れたのは、いかにも隠し撮りという感じの、画質の荒い一枚の写真だった。

 白色の外装に青いラインが引かれた、妙な形をしたリムだ。前脚、というよりは巨大な腕と言ってもいい、前傾姿勢の巨体。

 見覚えがある。


「報道官制されてるみたいだから、どうやって持ち出したのか知らないけど……ほら、ここ。操縦者ドライバーが映ってる」


 足元あたりが拡大され、それが映し出される。補正が掛けられても解像度が荒く、表情がようやく見て取れるくらいのディテールしか残っていない。

 カーキ色のモッズコートを羽織った男と、その胸元にすがりつくようにしている女の子。


「……ユートに、サツキ?」


 馴染みが無いはずなのに、何故か耳馴染みの良い名前が出てくる。

 何故、彼がそこにいるんだろう。彼は確か、死んだはず。いや、そもそもこの人は夢の中の存在だったはずだ。


「姉ちゃん、前に言ってたじゃん。銀の背中シルバーバックに乗ってる人は若い男だ、って」


 夢の中の私は、私自身じゃ無くて双子のような存在。

 夢の中の人物と、存在と同じ、現実。

 何かが、私の中でぴたりと符合した。


 誰かに話せば一笑に付されそうな結論ではあるけど、きっとそうなのだろう。

 テーブルの上に置かれた、処方箋を見る。

 もうあまり、時間は残っていない。


 ◆◆◆ ◆◆◆


 軽い鈍痛のような疼きとともに、意識が浮上する。

 何か、夢のようなものを見ていた気がする。身体を持った自分と、身を案じてくれる家族。味のする料理。上等では無いけれど、居心地の良いベッド。

 全て私が失い、そしてもう二度と手に入らないだろう数々。


 ――ここは。


 先ほどと、見た目には何も変わっていない。私は相も変わらず、この禍々しい怪物の中に閉じ込められていて。

 囚われの身、それでもと気持ちを振り絞って行った行動すら何の意味も成さなかった。

 そのことを思い出す。私は失敗した。いや、失敗などと言う余地も無い。

 全ては児戯に等しい行いだった。私は何も変えることは出来なかった。


 ――私も消されるものと思っていましたが。


 いっそ、そうしてくれた方が良かったようにも思う。

 変わったのは、私自身だ。もう何も出来ないし、何もする気も起きない。

 何故ならば。


 ――複製体の反応が、途切れていますね……。


 あれだけ、数えることなど不可能なほどの数が存在し、逐一私に知覚情報を送り込んでいた複製体のほとんどが沈黙している。

 僅かに、この個体の光学・音波受信器を含む末端部に生き残っているものがいるから、外部の情報だけは得ることが出来る。しかし、それだけでは何も出来ない。

 恐らくは、電脳人稼働領域バイナルクラウド先端施設群エッジロケーション除染スクリーニング時に起きた感覚質情報クオリアログ反作用フィードバックに依るものだろう。処理しきれない程の知覚情報が私を経由して全ての複製体に波及し、自殺反応アポトーシスを招いた。そうして連鎖的に起きた自死と、それに伴う強制的な感覚質情報クオリアログの共有が今に至るまでの真相だろう。さらに。


 ――自己複製クローニングも、止まりましたか。


 その理由は解らない。ただ、これまで旺盛に増殖を繰り返していた複製体は残り僅かとなり、今は弱々しく私に情報の 返却リプライを繰り返すのみだ。過大に過ぎる負荷が、いよいよ機能不全を誘発したか。

 ともあれ、手も足も出ないとは、このことだろう。自身、既に限界が近いという実感もある。

 何も問題は無い。一番の目的は果たせなかったけれど、私を利用した企みはきっとこれで潰えたはずだ。

 後は、烏合の衆と化したバグの集団を掃討した何者かが私を殺しに来てくれるのが先か、私自身が消え去るのが先か。いずれにせよ、人に害為す存在は、討たれて然るべきだ。

 今は、その時が待ち遠しくすらある。


 ――構いません。どうせ、私にはもう生きる理由も、存在意義も無いのですから。


 いっそのこと、ここで自害を試みるのはどうだろうか。

 それもいい。見知らぬ誰かの手に掛かるくらいなら、その方が、いい。

 電脳体の自死がどのように果たされるのか、その正式な手段は生憎と知識が無い。が、自身の意味消失を図れればそれも可能な気がする。

 例えば、自己同一性アイデンティティを担保する意識構造体の強制的な消去デリートなら……。


 ――だめ。


 不意に、声が聞こえた。

 外部からの音声では無い。その証拠に、音波受信器に残存する私の複製体からは、何も情報が寄越されていない。

 そもそも、この施設には人が居ないことを確認済みだ。それなら、今の声は誰か。直接電脳体に送り届けたようなこれは。


 ――未加工思考情報ロウデータ


 いつかのように、電脳内の作業領域ワークスペースに格納された思考履歴を検索する。あった。送信者は。


 ――私?


 有り得ないことではない。複製体から共有された知覚情報は、元は私なのだから送信者も私自身だ。

 けれど、これまで意志を持った情報というものは一度も見たことが無い。それは当然で、複製体は最小限の論理情報しか与えられておらず、自意識の萌芽すら無いからであり。

 では、これは一体誰なのか。


 ――あなたは、誰なのですか。


 私自身に問いかけるなど、哲学的を通り越して既に神秘学オカルトの世界だ。

 けれど、どうせ何もすることも無い、後は消失を待つだけの身だ。独り遊びだとしても、少しくらいは付き合ってもいい。

 僅かに、秒に満たないほどの沈黙があり、そして何とも答えあぐねているかのような思考情報が届き、やがて。


 ――私は、マーメイ。ヤン・マーメイ。


 その返事で、私は全てを悟った。


 ◆◆◆


 今まで何故、疑問に思わなかったのだろうか。

 複製体に送信される全ての命令コマンドは、私を経由する。これは、思考情報をハニカムの量子演算器に直接量子干渉コヒーレントするためだ。つまり、私自身でしか私の複製体に情報を送り届けることは出来ない。

 では、私を経由する命令コマンドの出所は何処か。何か専用の接続構文プロトコルでも仕込まれているのかとも思ったけれど、自己解析をした限りはそのような物は存在しない。全ては、思考情報に包含カプセリングされた命令コマンドとして届く。つまり、明確な上位の存在が居るということだ。

 さらに、彼女の名前。ヤン・マーメイ。頭文字は。


 MYエミィ


 ――あなたは、私の原型オリジナル。……そういうこと、ですね。

 ――詳しいことは分からないけど……そういうこと、になるのかも。はじめまして……はおかしい? 私自身なのにね。


 朧気だった彼女の、もう一人の私の輪郭が、感覚質情報クオリアログの蓄積に伴って明確になっていく。髪は長い。出来た覚えの無いにきびの痕がある。着たことのない寝間着を身につけていて、そして。

 優しい目をしている。


 ――色々と聞きたいことはありますが。

 ――うん。

 ――一つだけ。あなたは、生身の人間として生きているのですね?

 ――うん。……気付くのが遅くなって、ごめんなさい。


 申し訳なさそうに、私のオリジナル……マーメイが言う。

 謝られる筋合いなど、何も無い。私自身が、これまでその可能性に、存在に全く思い至ることが出来なかった。

 そして、オリジナルが自身の肉体を持っているならば。

 これまで私がしてきた事は、全てが徒労であった。人間の身体に戻るという願いは最初から叶っていて、そして私の主観としては叶わぬ願いだった。

 酷い話もあったものだ。


 ――あなたが謝ることではないでしょう? もういいのです。私が生きる理由も、もうありません。

 ――それは、彼が……ユートがいなくなったから?

 ――なるほど。私の記憶はあなたにも、伝わっていたのですね。


 それはそれで気恥ずかしい。

 私が何のためにここまで来たのか、何を目的にしていたのか、その根源は何なのか。

 私を今まで生かしてきた、その気持ちが何なのか。

 全ては、私独りの秘め事としたかったのだけれど。


 ――彼がいない世界なんて、壊れてしまえばいいと。そう思いもしました。それすら叶わないなら、私も消えてしまいたいと。でも。

 ――でも、なに?

 ――あなたが生きる世界でもあるなら、ええ。あなたに、私の生きた証が残るなら。

 ――大丈夫。伝わってる。


 その言葉に、少しだけ安堵する。

 おかしな話もあったものだ。私自身に私が慰められるなど。


 ――マーメイは、あなたエミィ

 ――あなたマーメイは、エミィ


 これで本当に、心残りもなくなった。

 私の思いが、受け継がれるのであれば。

 私が生きた痕跡が、世界に僅かでも残るのであれば。

 


 ――でもね。ちょっとだけ、もう少しだけ、頑張って。

 ――? 何を、でしょうか。

 ――生きることを。


 その時。

 背後の広大な空間の中に、轟音が響き渡ったことを、数少ない私の複製体が報せた。


 ――何が。


 足音が聞こえる。今では遙か遠い記憶にようにも思える、でも二週間前までは共に有在ったそれが。

 巨大な前腕を持った、前傾姿勢のそれが。

 記憶にあるよりも傷が増えたそれが。

 少しずつ、姿を現す。


 ――何故。


 奇跡。数奇。運命の悪戯。これを示す言葉は幾らでもあるだろう。

 でも、いざ自分がその当事者となれば、こう思わずにはいられない。

 既に形骸化した概念。生きることに必死で、いつしか消え去った思想上の存在。


 ――ああ、神様。


 姿を想像したことも、信じたことも、これまで一度も有りませんでした。

 でも、きっとあなたはとても意地悪く、そして慈悲深い方なのでしょう。

 つい今まで、全てを諦め、消えようとしていた私に、希望を与えるなんて。

 この期に及んで、二度と会うことが出来ないと思っていた人を、ここに導くなんて。


『――エミィ!』


 二度と聞くことも無いと思っていたその声を、聞かせてくださるなんて。

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