026.「情報兵器」

 レイルズの先導で向かった店は、居住区画露天側北部、煉瓦作りのような外観の三階建てビルから、ガス灯のような光を放つライトに照らされた地下通路を下ったところにあった。

 露天部に居を構える人間は総じて資産家、かつ酔狂な人間が多いと言うが、これはまた極め付けに凝っている。使われることのない紙媒体をわざわざ退色加工したポスターや、政治的卑語の落書き、放置された空き缶に至ってはゴミかと思って手を伸ばせば飾りの一環らしく、持ち去り対策に接着剤で固定されているという有様だ。

 店内を流れる音楽は、無軌道かつ激しいリズムの管楽器。あの仮想世界の記憶に残る、ビバップ・ジャズというジャンルの曲になんとなく通じるものがある。


「なんつーか、秘密基地っぽいというか」

「会員制のバルでね。安全にアングラな雰囲気を楽しむというコンセプトなんだ」


 金持ちは金のかけ方がどこかおかしい。そもそもの話、ディーネスは周辺に有用かつ狩りやすいバグが多く、リムパーツを始めとする機械部品で相当に潤っているというから、スラムが形成される余地など何もない。仮に貧困者が出ても、その場合は開拓村での危険だが実入りの良い仕事が受け皿になる。


「見てくれはこんなだが、料理も酒も悪くない。さ、好きに注文してくれ」

「美味しい料理はいいんだけどー。こっちは文無し抱えてるからー、支払いはうちってことだよねー?」


 古びた天然木の建材で作られた店の一番奥、個室の円卓で背の高いスツールに腰を下ろしたキャスティが、こちらを軽くにらむような目つきで言う。その言い方はちょっと酷い。


「文無し? まさか、あれだけ渡した報酬がもう尽きたのか?」

「いやそういうわけじゃ……。まあいいや、その辺も含めて話しますよ」

「なら、その前に注文だけしてしまおう。……そういえば、ジュートはアルコールはダメだったか」

「ちょっと前に十八になったんで、大丈夫っす」

「そうか。なら、軽めの飲み口のクラフトビールがいいだろうね。キャスティさんも、遠慮せず注文してくれ。連れ出した手前、支払いビルは私が持とう」

「マジでー!? じゃーねー、アンチパスト盛り合わせー、キノコ類のアヒージョ、スペアリブのハニーソースとー、」

「本当に遠慮しねぇなあんた!?」


 ◆◆◆


 レイルズが軽率に発言した『遠慮せず』の結果は、程なくして大きめの円卓になお置ききれない料理の数々という形で現れた。止めはしたが、軽々しく言ってしまったレイルズの責任もある。

 しかし、居並ぶ胃に重たそうな料理の数々を前にしても、レイルズは平然としたまま。貴公子ここにありという感じだ。


「さて。料理も出そろったところで、本題といこうか。事件のあらましは私も耳にしているが……」

「表に出てるニュースとかだと、伏せられてる箇所も多いですよね。レイルズさんはどこまで?」

「そうだね。事実として私が知っていることは、君とキャスティさん、それとリーナス氏はトキハマで立案されたグリロイデ討伐作戦に従事していた。作戦三日目に大規模なバグの侵攻が発生、ミツフサ開拓村住民を含む100人以上が死亡。そして推測混じりで言えば、恐らくはバグの襲撃は電脳人バイナルが手引きした。ジュートはその救援に向かうが失敗……そんなところかな」



 すらすらと並べ立てるレイルズの、淀みない長広舌に半ばあきれながらも感心する。

 そして全く無関心に料理を貪るキャスティ。ここまでは連れてきたから後は勝手にしろという感じだ。まあいい、この人の自由さには数日一緒に行動する間に慣れた。


「そこまで話がわかってるなら、後は補足するだけで」

「いや、もう少しある。ここからは完全に憶測だけどね、ジュート。君は恐らく電脳人バイナル、キャスティさんと同じく生体化実験の被験者だろう? そして、エミィに至ってはミツフサの件の元凶……。違うかな」


 ぴたり、と。

 キャスティが食事の手を止め、俺はといえば開いた口が塞がらない。底知れないにもほどがある。


「……なんで、そんなことまで」

「どうやら当たりのようだね。これでも昔は源流十三家ルート13の末席に名を連ねていたんだ、推測の材料は山ほどあるさ」

「にしたってー、察しが良すぎじゃなーい? ジュート君なんて、ついこの間まで時間旅行者だって信じてたのにー」


 それは言うな、恥ずかしい。


「それについては、答えは簡単だ。私が知る限りでは、電脳人バイナルが保持する技術の中にだって時間の制御が可能なものは存在しない。エントロピーの逆流が量子レベルで否定された時点で、原理的にも不可能という結論が出されている」


 大体そんな技術があれば、この世界の現状も一変しているはずだ、とレイルズが続ける。


「まーねー、過去が正せるなら、こんなことにもならないかー」


 自嘲気味に笑うキャスティに、同調するレイルズ。事実を知ってから日の浅い俺には、その言葉が本来意味するところはわからない。ただ、この世界は随分と間違いを積み重ねてきた末に、今があるのだろうという、漠とした思いがある。


「あ、それじゃあ、あの時の『創った』って言葉……。俺がいたのが過去再現の仮想世界だってこと、分かってたんですか」

「ひどー」

「過去の人間がここにいる、なんてことが原理的に有り得ない以上はね。ただ、常識外の存在がやらかすことである以上、私が知り得ない技術の存在も否定はできないし、断言はし辛いだろう?」

「……まあ、いいですけど」


 手元のカットグラスに注がれた濃い琥珀の蒸留酒スコッチに口をつけつつの言葉に、そう応じる。この人がいてこそ、この世界に放り出されての出だしで躓くことが無かったわけだし、だからこそこうして話を聞く機会を得られている。


「でー。ジュート君の件はいいとしてー、エミィちゃんについての申し開きはー?」

「さすがに、本人不在で憶測だけ並べ立てても仕方がないな。一旦、君達が知ることを教えて欲しいし、何よりジュートが知りたいことは、事実と摺り合わせた私の見解ではなかったかな」


 水を向けられ、自分が何を話すべきかを思い出す。しかし口に出そうとすれば、それらは返しの付いた釣り針のように喉の奥に引っ掛かり、なかなか外に出ていこうとしない。

 グラスの中身を呷り、喉を湿らせる。淡く濁った小麦色のビールは、軽い飲み口という言葉通りに易々と喉に染み渡るけど、反面意外なほどにアルコールがきつい。それはそれで、好都合かも知れないが。

 質量を感じさせるほどに重い記憶を吐き出すには、ガソリンが必要だ。


 ◆◆◆


「まったく」


 頭痛を堪えるような表情で、事実額に手をやりながら、呻くようなレイルズの声。反対の手に握るカットグラスには濃い琥珀色の液体が半分ほど残り、元は球形だった氷が長い話の果て、溶けて歪んだまま浮かんでいる。


「相変わらず、というか輪をかけて無茶なことをするな、君は」

「好きでやったわけじゃないっすよ……」

「当たり前だろう、誰が好き好んで生身のままグリロイデの相手なんてするものか。……よくぞ生き残ったものだよ。あ、いや一回死んだのか」


 言い直すレイルズの反応が、いつもの落ち着き払ったそれを維持できないあたり、さすがに扱いかねているという感じだった。


「実際には死んではいないけどー。生体反応が停止する直前にー、電脳体に移行シフトしてるしー」

「例の、二重化構造体フォルトトレランスってやつ? 聞くだけ聞くと、不死身みたいだよな」

「実際はー、電脳体を保持してるあの機体アンダイナスが潰れたら終わりだけどねー。気を付けなよー?」

「死ぬような真似自体、するつもりは無いって……」


 その言葉に偽りはない。文字通り、死ぬほど痛くて怖かったし。


「しかし、実際に話を聞くと違うものだ。伝聞はあてにならないね。……ゲンイチロウ君が亡くなったというのも、初耳だった」


 KHFにアンダイナスを運び込み、結果として俺がゲンイチロウと知り合うきっかけとなったのも、元はと言えばレイルズの手配によるものだ。仕事が主体としても付き合いは相当に長いようだし、レイルズにも思うところはあることだろう。

 考えてみれば、ぽっと出の俺なんかが訳知り顔で、ゲンイチロウのことを語り、死を悼むこと自体がおこがましいことなのかも知れない。そんな風にすら思えてくる。サダトキへの連絡を止められたことも、その意味では正しい。友人であった彼に、どう言い訳をすれば良いのか。そもそも俺はトキハマに赴いた後で、どんな顔でサダトキと、ソウテツやサツキと話すつもりだったのか。


「それでさー、話はしたけど実際どーなの。エミィちゃんについては、心当たり有るー?」


 深く沈んだ思考を、キャスティの脳天気にすら聞こえる声が引き上げに掛かる。


「そうだね。では、先ず彼女への疑念から種明かしといこう。というか、彼女が怪しいと踏んだのはジュート、君の正体に見当を付けたからだよ」

「俺が……ですか?」

「帰納法だね。まず君が居たというレドハルトの施設は、位置関係から考えればトキハマのイサ家か、ディーネスのビンドリッジ家のどちらかの管轄だ。そしてビンドリッジ家は既にプランの割り当てと遂行を終えている」

「ジュート君が電脳人バイナルと仮定すればー、どこの子かまで分かるってことねー?」

「次に、受肉インカルナチオ計画プロジェクトは、前提としてプランあたり一人の割り当てだ。計画後半になるとそれも崩れたようだが、イサ家は最初期のプランを凍結しているから、電脳人バイナルは一人。その枠がジュートで埋まれば、残りは明確に例外イレギュラーという結論になる……ここまでが、三ヶ月前に君と話した時点での話だね」


 理屈は時として冷徹だ。ここまで聞いただけでも、事情を知る人間はあくまでも最初からエミィを異分子と考えていて、当事者ばかりがそれを知らずにいたということで。

 誰が悪いとも思わない、だけどどうにも腑に落ちない。


「そこまではわかったー。じゃあ、元凶とまで断定した理由はー?」

「最初は、事実関係を並べた結果から推測したまでさ。ジュートから懸念が的中してしまったと聞いたからに過ぎないが……今は、その正体まで概ね予測が立っている」


 そして、澱のように堆積する疑念の正体こそが、この話の本筋だ。


「エミィの正体は、電脳人バイナルが作り出した情報操作型の論理兵器だろう。認知同調型コヒーレント・パッケージ、その発展系として作り出されたものと考えて間違いない」


 ◆◆◆


 アルコールにかき混ぜられてぐらぐらする頭のままで、街を歩く。街灯に照らされた石畳パヴェの道には、強すぎる光に引き延ばされた影がふらふらと踊る。

 夕刻頃に入店したはずなのに、時刻は深夜に差し掛かろうとしていた。寒さから逃れるためか、人通りは無く引き連れる影も無い。糸が絡まった操り人形のように出鱈目に動く自分の影が、どこか滑稽でどこか物悲しい。


「ちょっとー、だいじょーぶー? 調子に乗って飲むからだよー」


 背後から、間延びしつつもはっきりとした声が掛けられる。ぐでんぐでんのどろどろに酔っ払った俺とは対照的に、レイルズとキャスティは平然とした顔で、つまりこれは人種によるアルコール分解酵素の差異が表れているんだろう。何が軽い飲み口だ、三杯で泥酔するなんて普通のビールじゃ有り得ないぞ。

 自分の酒の弱さを自覚しておきながら、気にせず飲んだことにも理由はある。最たるものは、レイルズの語る話を素面では聞いていられなかったからだ。

 

 ――エヒトの大規模蝗害とほぼ同時期に、周辺の開拓村で未成年者、特に二次性徴前の子供が電脳人バイナルに拉致され、人体実験が行われた形跡がある。エミィは、それにより作り出された可能性が高い。


 レイルズの語るところでは、そういう話らしい。


 ――認知同調型コヒーレント・パッケージ自体は、電脳人バイナルとしてはごく一般的ポピュラーな代物で、例えば異なる物理的演算装置の間を電脳体が移動する際に使われている。量子テレポーテーションと不確定性原理を拡大解釈し、一時的に同一の量子ビット配列が複数の隔てた場所ロケーションに同時に存在しうる状況を作り出す技術だ。これにより、意識構造体……魂とか霊格と呼ばれる、複製不可能な人としての認知最小単位を活性化したまま移動させることができる。そのために、全ての量子演算器、ハニカムを含むあらゆる機器に、専用の裏口バックドアが設けられている。


 難しいことは理解できなかったけど、この技術の応用で、例えば俺が死んだ時に行われた肉体から電脳体への移行シフトも実現しているらしい。魂の転送をするための技術、というわけだ。

 そして、特に重要なのは、思春期前の子供を対象に……という点だという。


 ――ただし、思春期前の子供の場合は事情が異なってくる。そもそも、意識構造体が複製不可能な理由は、人体脳が電子的演算と量子的演算を並行して実行可能な高度な生体演算装置であるためだが、量子的演算を積極的に行うようになるには他者との関係性をより意識することにより思考が活性化するという過程を経る。他人の思惑を推測し、社会的に自分を立たせるための思考というものは、それほど高度な思考の産物だ。複素数的にビットを持てることで初めて、人間関係という最適化問題を処理できるようになる。逆に、その過程を経ていない人体脳はそうした思考があまり発生せず、容易に意識構造体も複製したまま長期間の維持が可能な状態だ。


 詩的に言えば、恋を知った人間は頭が良くなるということさ……とレイルズは冗談めかして言っていた。笑う気にはなれなかった。


 ――まとめてしまうと、思考力がそれなりに有り、既存技術の応用で量子演算装置を思いのままに移動でき、容易に複製可能。思春期前の子供というのは、そんな都合の良い電脳体の素体に適している。わざわざ生態側から拉致して回った理由は単純で、生粋の電脳人バイナルを使うわけにはいかなかったからだろう。あちら側に元からいない存在であれば好きに使えるという理窟だな。


 聞くに堪えなかった。

 この時点で俺はもうへべれけになっていて、なのにキャスティは顔色一つ変えずに黙って話を聞いていた。


 ――後は、自己複製の機能と恣意的な情報操作のアルゴリズムを仕込めば、ありとあらゆるコンピューターを対象とした無敵の情報改竄プログラムの完成というわけだ。


 狂ってやがる。

 エミィは、自分勝手な理由で電脳人バイナルに変えられ、新種の情報兵器開発なんていう下らない目的で生きながらに改造を施された。そう言われたのだ。

 地べたに座り込んで、へらへらと笑う。能天気に、どこかお遊び感覚でエミィと過ごしたあの頃の自分を殴ってやりたい。人をおもちゃにして、好き勝手なことをしでかすクズどもを根こそぎで皆殺しにしてやりたい。

 こみ上げてくる吐き気は、飲み過ぎただけではないだろう。


「……あのさー。さっきの話、うちの見立てとも大体合ってるんだけどー。わっかんないのがー、わざわざミツフサであーんなことしたことなんだけどー。評価試験にしては、目立ちすぎるしー」

「それについては、ジュートの特異性が理由ではないかな」

「とくいせー?」

「確か、二重化構造体フォルトトレランスだったか。推測だが、アンダイナスに用意されている電脳人バイナル用のリソースは、一人分しか無いんだろう」

「……なるほどー。ジュート君が電脳体に移行シフトしたら、優先権はそっちに移るからー」

「ああ、エミィ自身は停止サスペンドされる。電脳人バイナルの実体データは膨大だろう? 最小構成の複製ならばともかく、活性化した原本の電脳体では、一意性の確保が難しい。それを短時間でかつ確実に外部へ運び出すためだと考えられる」


 淡々とレイルズが告げる。

 あの時、あの場所で起きた全てが、エミィをアンダイナスから外に連れ出すためだと。どうにかして俺を殺して、ところてんみたいに機体から押し出されたあいつをかっ攫うためだと。あいつを使って、さらに悪趣味極まりないことをするためだと。


「っざけんな……!」


 今まで黙って聞いていたが、堪忍袋の緒が切れた。何もかもが腹立たしくてたまらない。そんな碌でもないことを考え付く奴にも、淡々と語るレイルズにも、怒りもせずに付き合うキャスティにも。

 狂ってる。全部、狂ってやがる。そうだ、この世界そのものが、今も尚狂い続けてる。取り返しのつかないことを軽々しく行えてしまうほどに。


「あんたら、よくもそんなこと平然と話せるよな! おかしいだろ、狂ってるだろ、そんな、そんな下らないことのために、みんな死んだのか? エミィは好き勝手にいじくられたのかよ! ゲンさんは、そんなことのために死んだのかよ!!」

「……ジュート。真夜中だし、ここは街中だ。少し落ち着いて」

「うるせぇ! レイルズさん、前に言ってたよな。あんたの友達は、同じように巻き込まれていなくなった、って。なのに何も感じないのかよ!」


 吐き出した俺の言葉に、レイルズが何か言いかけ、しかし口を噤む。その反応に、苛々はさらに増す。


「キャスもキャスだ! お前も実験体だったんだろ、なんでそんな冷静でいられるんだよ! エミィは同じことされてんだぞ、今も!」


 レイルズとは対照的に、次の標的になったキャスティの反応は迅速だった。足早にこちらの目の前までやって来たと思えば、


「おぶっ……」


 座ったままの体勢だとそこが一番狙いやすかったのか、爪先が鳩尾にめり込む。ヒールの高い、先のとがったロングブーツだ。たまらず猛烈な吐き気がこみ上げ、その時にはもうキャスティはその場を離れている。

 のたうち回るような気力すら残らず、その場でうずくまり、なんとか吐き気を飲み込むと、続いて胸ぐらを掴まれ引きずり立たされた。


「ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー、うるさいよ。ね、何様のつもり? 酔っ払った勢いに任せて言いたいこと言って、何なの? わめき散らせば全部解決すんの? いい加減にしないと殴るよ」

「キャスティさん、乱暴は……大体、殴る前に蹴って」

「黙って」

「承知した」


 見かねたレイルズの助けを、視線だけで小バエくらいは殺せそうな目つきで制してキャスティがこちらに向き直る。いきなりの痛みと豹変したキャスティの言動に、やり返すという考えすらも霧散した。


「大体、聞いてればなに、何も感じないのかって? そんなわけないでしょ。ジュート君、うちがどんな目に遭ったかなんて知らないでしょ。毎日毎日訓練と実戦で殺されそうになったことある? 周りの人が全員敵な状況なんて想像つく? わかんないでしょ。感じないんじゃないの、感じなきゃいけないところが、もう擦り切れてるの。喚いても何にもならないって、わかってるの」

「……、俺、は」

「黙れ。狂ってるって言ったね。そうだよ、みんな狂ってる。こんな世界、全部おかしいに決まってる。時間が巻き戻ればいいなんて思ったことも数え切れない。どれだけ歯を食いしばればいいかなんてわかんない。でもね、ここでくだを巻いてわめき散らすのだけは違うでしょ。君だけつらいわけじゃないでしょ」


 そこまで、殆ど息継ぎらしい様子もなく一気にまくし立ててから、キャスティが俯いて深く息を吸い、吐いた。途端に締め上げられていた襟元が緩み、地に足がつく。

 次いで上げられた顔には、今の今まで浮かんでいた鋭い目は既に無く、いつもの切れ長ながら平坦なそれに戻っている。手が離される。

 生きた心地が、ようやくした。


「あー……すっきりしたぁー」


 深呼吸は、人格交代のスイッチか何かか。


「言っとくけどー、撤回するつもりは無いよー。今することはー、知ることだーって、ジュート君も言ってたでしょー? それを忘れちゃいけないなー」


 その言葉が、何より一番効いた。

 全く、面目ない話だった。自分で決めた腹をなかったことにして、思う様にわめいて、みっともないことこの上ない。


「……ごめん、俺が間違ってた」

「いいってことよー。……それにねー?」


 ぶらぶらと揺らしていたキャスティの手が持ち上がり、今度はゆるく巻くように首に回される。そのまま背中に回ると、浅く抱きしめつつ、子供をあやすように。


「何だかんだ言ってもー、他人のことだけに怒ってたしねー? 自分の不平不満を言わないとこは、まー、評価してあげよー。……辛いよねー、大事な人が、ひどい目に遭うのはさー」


 背中を優しく叩く手が、ひどく心地良い。優しく響く言葉が、回らない頭に染み入る。目蓋が熱い、ダメだ、今はまだ。


「……やめてくれよ、子供じゃないんだし」


 鼻をすすり上げてこらえて、なんとか悪態をつく。手は離れず、頭半分ほど低いところでキャスがしゃべるたびに、くすぐったさを感じた。


「まーまー、お姉さんが優しくしてあげるからさー」

「だから……、つーか一体何歳なんだよあんたは」

「十六だけどー」

「ちょっ!」


 まさかの年下だった。年齢不詳とは言っても、俺より年上だと思っていただけに、慌てて引き剥がしにかかる。年下の女の子に叱られてハグられて慰められて、これはさすがに外聞が悪い。


「てか、酒!」

「細かいこと気にすんなよー、男らしくなーい」

「気にするってば!」

「デトリンクはー、十五から飲酒おっけー」


 それを言うなら、俺の出身地だとお酒は二十歳からだ。現地法律違反、ダメ、ゼッタイ。


「……お二人さん。いちゃついているところ悪いが」

「いちゃついてなーい。うちは身も心も、リーナスにー」

「それはもう、この際どうでもいいが」


 一歩引いたところで傍観していたレイルズが近付き、今度は彼の腕が俺とキャスティの首に回される。


「なーにー、さすがにオジサンとハグする趣味はー」

「まあ、そう嫌がらないでくれ」


 むずがるキャスティも知ったことではない風に、存外力強い手のひらが二人分の顔を掴んだ。頭の右と左それぞれがくっつくと、そのままレイルズは顔を寄せ。


尾行さつけられているようだ」


 二人分の耳もとで、小声でそう言った。

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