第21話

 翔と透は身構えて、過去見の水鏡を囲んだ。

 何の変哲もない、水をたゆらせる大きな丸鉢だった。

 その水面はキラキラとプリズムに輝いている。しかし、この部屋のどこにも光源はなかった。

 よく見てみれば、覆い尽くす獣毛の透き間から、微妙な色合いで発光する壁が見え隠れしている。それらに照らされ、この室内は明るく保たれている。

「どっちが先に覗く?」

 翔はもじもじと水鏡から目を離して、透を見つめる。

「俺からかぁ? うー……なぁ、一緒に覗こうぜ」

「ぼく、いやだなぁ……透だけじゃダメなのかなァ?」

「そりゃ、ダメだろ。別になにも知らない仲じゃないし……」

「うーん……」

 しぶしぶ翔は透の向かいに座る。

 ふたりは一、二の三で水鏡を覗き込んだ。

 白光がゆらゆらと蜘蛛の巣の紋様をかたどり、くずれた翔と透の顔の破片を縁どっている。その間隙に暗い闇が染み出していき、ふたりの意識はいつのまにか足下に入り乱れるビジョンのうえに立っていた。


  ふたりは驚きつつ笑いあい

  ジェヌヴが二本の剣に貫かれ

  翔はジェヌヴの甘言に

  透はリリックに導かれ


 逆回転する音とともに、過ぎ去っていったはずの光景が、水のなかで次々と逆上っていく。

 しばらく真っ暗い場面が続いた。


  穴のなかへふたりがホァロウに背を向け、

  丘のうえでじゃれあうふたりをホァロウが眺め

  星空のしたでふたりは不安げな顔を見合わせ

  馬のことで激しくホァロウに透は突っ掛かり

  馬にうまく乗れずに透はかんしゃくを起こし


 透は不思議な思いで簡単に過ぎていったものを見つめていた。翔も茫然とビジョンに見入った。


  荒野をさまよい

  ダークエルフを刺し殺し

  沙那子が水晶に閉じ込められ


 翔はビクリと体を震わせ、それに反応した。


  正午過ぎに学校を出て

  答案をまえにして透はサラサラと

  同じころ翔は鉛筆の尻で額をこづき

  学校へいくバスに三人で駆け込み

  透の祖母がハンカチを手に孫を追いかけ

  翔は朝早くから庭と玄関先の掃除をし


 単調な学校生活が繰り返され、老父母の透をかわいがる様子、伯父の家で肩身の狭い思いをしている翔の様子が何度も続く。


  高校入学式のときに沙那子が加わり

  透と翔は合格発表に小躍りし

  翔は冬休みに母親の兄の家に厄介になり

  祖父は翔を全寮制の高校へ入れようとし


 鉢の縁をつかむ翔の指がわなわなと震えはじめた。

 透はビジョンから目をそらすと、青冷めこわばった面持ちで水鏡を凝視する翔の切迫した様子に気付いた。

 透が目を離しているあいだも、水鏡は過去を捕らえていく。

 ふたりの通う高校は県立の進学校で、翔は土下座して伯父夫婦に頼み込み、祖父の命令を退けることができたのだ。運のいいことに彼には母親の蓄えがあった。しかし、それも高校二年のなかばで使い果たしてしまうだろう。

 透はビジョンにのめり込む翔の白む指を自分の手で包んだ。


  翔の母親が精神病院に収容され

  刃物を振り回し「……!!」と翔を母親がののしり

  近所じゅうになにやら母親が触れ回り


 目をそらせず、ガクガクと肩を震わせはじめた翔の体を、透は両腕で押さえ付けた。

「おっ、おか……お母さんっ」


  母親が水商売で毎晩違う男をつれ込み

  良くなっていたはずの母親の精神がしだいに狂い

  祖父とその親族に囲まれ

  母親が翔をつれて実家に戻り

  まともな職で一年半ばかり働き

  病気も良くなり水商売もやめ


「お母さんッ!」


  母親が自殺未遂で病院にかつぎ込まれ

  母親が酒と男とにおぼれ翔を責め立て

  透にはじめて打ち明けていき

  耐え切れない毎日が翔さえもおかしくしていき

  家では飢えと折檻に追いつめられ

  翔は学校ではニコニコと笑い

  気さくな透とすぐに親しくなり

  中学校に入学して


 翔の震えが水鏡の水面を大きく断ち切った。しかし、映像は続いている。

「翔……!」

 透は、けいれんを起こしながらも水面に固執する翔を抱きすくめた。


  翔が幼いときは毎日毎日がその繰り返しで

  気が向いたときだけ食事を与え

  何度もたばこの火を体に押し付け

  真夜中に母親が帰ってきて十歳の翔をたたき起こし

  水商売で男関係がうまくいかず

  母親の機嫌の悪いときは翔は彼女をなだめ

  母親の機嫌の良いときは翔は彼女に気を遣い


「お母さん!」

「翔! もうすんだことなんだよ! もう、あんなことは起こらねぇんだよ!」

 翔はのどを振り絞って叫ぶ。

「ぼくのせいなんだ! ぼくが悪かったんだよ……ぼくが……ぼくが生まれてこなかったら、お母さんは……!」


  泣きわめく小さな翔をよく外にほうり出し

  悪いのはすべてこの赤ん坊なのだと

  正気と狂気が母親に忍び寄り

  アル中の母親は翔を愛せず

  水商売で酒の味を覚え

  赤ん坊がいるとまともな職に就けず

  翔と名付けうまくやっていけると母親は信じ

  赤ん坊の父親のことで激しく取り沙汰されたが

  実家の町からかなり離れた田舎の産婦人科で翔を産み

  祖父が堕ろさせようとしたときにはすでに遅く

  祖父は世間体を重んじる人で


「ぼくが、ぼくが……お母さん!」

「翔、しっかりしてくれ! おまえのせいなんかじゃない! なんでおまえがこんなつらい思い、しないといけないんだよ!?」 


  母親は七カ月目で妊娠に気付き


 透は水鏡を覗いた。

 自分の祖父祖母の幸せな顔が映っている。

 ふたりが赤ん坊の透を囲み、娘夫婦の死の悲しみと奇跡の喜びに涙にむせんでいる。

 自分は祝福された子供だった。翔とは正反対の人生。

 俺がおまえの代わりに、おまえの人生を歩んでやりたかった……透はその思いに唇をかんだ。 


  その腕に透を抱き締め息絶え

  透の母親が病院にかつぎ込まれ

  事故のショックで透が産まれ

  透の父親が母親の悲鳴にハンドルを切り損ない

  金色のカナリアが透の母親の腹に吸い込まれ


 透は青冷めた。そして、疑問に思い、ずっと黙っていた自分の出生についてのすべてを納得した。

 翔の指の力が水鉢をカタカタとゆらしている。

 歪んだ真実が水面に浮かんでいた。


  翔の母親が病院の一室で目を覚まし

  町の路上で母親が悲鳴を上げて倒れ

  金色の光が母親の腹に飛び込み


 透は唾を飲み込んだ。翔も自分と同じだった。ふたりを引き合わせたのは、偶然でもなく、友情でもなかったのか。

 これは、運命だったのか?

 翔を抱き締める腕の力を強くした。腕のなかの翔が、か弱く息も絶え絶えな大切なものに思えた。

 翔のむせび泣く声が、透の胸を貫いた。

「ぼくは死んだほうがよかったんだよ……あのとき、お母さん、ぼくを産もうなんて考えてくれなくてもよかったんだよ……」

 翔の目は涙で赤く染まり、濡れそぼっていた。いまだ水面を凝視し、自分の心に捕まってしまっている。渾身の力でつかむ指が折れそうにねじ曲がる。

 透はその指をこじ開けようとしたが、どうしてもできなかった。

 翔の顔に頬を寄せた。

「翔、指が折れるよ? な? 離せ。ケガするよ。な、頼むから、離してくれよ……」

 翔は取り付かれたようにブツブツとつぶやいている。

 透は悲痛げにうめいた。翔の顔を両手で捕らえ、水鏡からそらさせた。その虚ろな目を見つめ、言いきかせるように、話しかけた。

「翔、俺だって、俺の母さんだって、子宮ガンだったんだよ! 子宮、取ったあとだったんだよ! 俺は産まれるわけなかったんだよ!」

 電流のような思いが、はけ口を求めて透の背骨を走り抜けた。無意識に翔に顔を近づけた。

 縁をつかんだままでいる翔の両手が、体を押し倒す透の力に引きだおされた。

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