第22話

 水鏡の倒れる音に、透は我に返った。

 そして、バッと翔の顔を自分から引き離した。

 翔は正気を失ってまだ泣いていた。

 透は自分の気持ちがつかめなかった。

 しかし、自分が翔になにをしようとしていたのか、はっきりとわかっていた。

 沙那子にさえ、どんな異性にさえも不思議と感じたことのなかった感情が、ムラムラと翔に対して沸き上がってきた。

 透は戸惑った。

 衝動的に透は立ち上がった。

 両こぶしで頭を殴りつけながら、室内を行ったり来たりしはじめた。

 俺、頭おかしくなったんやろうか……それどころか! 

 透はうずくまった。

 俺が、金の神だったんだ……

 透はずっと翔の保護者のつもりだった。兄のつもりだった。しかし、それは違ったのだ。すべて、この思いのためのカムフラージュだったのだ。

 これから先、翔とどう接していけばいいのだ?

 翔の泣き声がおえつに変わった。

 伏して泣き続ける翔を抱き起こして慰めてやりたかった。いままでだったらすかさずそうしたはずだ。しかし、それは不純な思いに駆られてのこと。まともな男友達だったらどうするのだろうか、この場合。不純だったが純粋だった、透の翔に対する感情。それを感じずに行動できた昔が恨めしかった。

 透は頭を抱えて、声なき叫びを上げた。

 うおー!! 俺にどうしろってんだよォー!!!

 しばらくうずくまったまま、すこしまえに起きた興奮を静めてから、透は立ち上がった。何が一番いい方法なのかもわからず、「もう、泣くなよ! 早く、リリック呼べよ! いつまでもめそめそすんな!」

 翔は透のどなり声にビクンと震え、顔を上げた。まだショックから立ち直れない様子でフラフラとしている。

 とっさに駆け寄ろうとし、しかし間一髪で押しとどまり、中途半端な姿勢で透は翔が自力で立ち上がるのを待った。

 あー、これって、自立するヒナをハラハラしながら見守るオヤ鳥の気持ち?

 か細い声で翔はリリックを呼んだ。

 俺が呼んでやったってよかっただ……翔、傷ついてねぇかな……?

 透は感情が面に表れないように、わざと厳しい顔を作る。その顔をオドオドと翔が見るにつけ、透は心のなかで大声であやまった。

 おまえが悪いんじゃない! 俺が悪いんだよ! でもわけなんか絶対死んだって言えねぇ。おまえに気持ち悪い思いだけはさせたくない。もし俺がホモだって知ったら、おまえ俺のこと嫌うかも知れねぇし……あー! どうすればいいんだよ!

 透の感情は、透の顔には不気味な恨みがましい表情として浮かび上がった。

 翔はチラチラと透の顔を見ては、罪悪感に打ちひしがれた。

 ぼく、なんかすごい悪いことしたんだ……透が絶対許してくれないような、ひどいこと言ったりしたんだ……

 ウキュキュキュ?

 リリックが数匹の仲間と走ってきた。

「戻るんだって……案内して」

 青冷めて力のない翔の様子に首をかしげて、リリックは透を非難がましくにらみつけた。おまえがやったのか? いやきっとおまえがしたんだ! と鋭い視線を投げ付け、さっと先導をとった。

 ギクシャクと歩を進める翔の背後に立ち、その頼りなさに透の体に震えが走った。

 守ってやりたい!

 中一のころ、泣きながら透の家に駆け込んできた翔。表ではいい子で通り、裏では情緒不安定で自殺願望の強かった翔。表からも裏からも支えて、自分自身の悩みさえも、翔の助けになることで忘れることができていたあのころ。

「さっさ歩けよ! いつまでも甘えてたって、だれも助けちゃくれねぇんだぜ!」

 翔は振り返り、弱々しい目で透を見つめた。

「透……ぼく、なにか気のさわることした?」

 おまえはなにもしてない……そんな目しないでくれよ……俺たち、距離をおかないとダメなんだよ……恋人じゃないんだから……

「なに怒ってるの? ぼくが悪いんだったら、あやまるよ」

 おまえはなにも悪くない……俺が悪いんだ。

「うるさいな! 男のくせに、なんてそうめめしいんだよ。もう、俺に頼らないでくれないか!」

 透の言葉に翔はガックリと肩を落とし、鬼瓦のような透の顔から目をそらし、とぼとぼとリリックのあとを追っていった。

 透はその背を見つめた。

 今すぐおまえを抱きすくめてやりたい。すべて嘘だと言ってやりたい。それによって、翔は自分を憎むだろうか。それとも嫌うだけだろうか。離れていってしまうだろうか。自分がこの思いを黙っていて、悟られないようにすれば、いつまでも、自分が耐えられなくなるまでは翔のそばにいることができる……

 しかし、今のままでは単に翔を傷つけるだけだ。だけど、どうすればいいのか、わからなった。

 翔はリリックの何度も振り返る姿を追いかけた。

 透は今も自分の背中を憤怒の目でにらみつけているのだろうか。なにがまずかったのだろう? 茫然自失しているあいだに自分は何をしてしまったのだろう? 透に突き放されてしまったら、自分は一体どうすればいいのだ。自分を本当にありのまま受け入れてくれるのは透だけだ。透の存在は、友人以上、兄弟以上、親以上、この世のすべての真実、それ以上。

 透がいてくれるからこそ、自分は今こうしている。生きて、ものを考え、息をし、食事をし、物事を選択し、取りやめ、だれかを好きになり、嫌い、他人の行為を受け入れ、拒否し、あらゆることをしはじめ、やめることができる。

 暗闇のなかへ再び踏み込み、リンロンと脳髄に響き渡る鈴の音をあとにする。

 なだらかなのぼりの坂をかなりのスピードでのぼっていくのは、いくらなんでもきつかった。長距離のからきし駄目な翔はヒーヒー言いながら、両手も使って坂を駆けていった。

「と、透、さ、先いってて……ぼ、ぼく、少し休むから」

 翔はうわずった声で、とぎれとぎれに暗闇に向かって話しかけた。

 透はピタリと足を止め、多分そこに翔がいると思われる場所に無意識に手を伸ばした。

 ハッ! ダメだ! いま、おまえ、抱きかかえていってやるよ、とか思っただろーが! それがダメなんだよ! 

 あと数センチというところで危うく手をとめ、引っ込めた。

 何か言おうと思ったが、傷つけずに言える言葉が見当たらなかった。

 透はクシャッと顔をしかめ、さっと翔を通り越し、先へ数メートル進んでいった。そして、出し抜けにバッと振り返った。

 あー、心配だ! 俺、なにしてんだよ!? ほっといたら、あいつ、ずっとへたりこんでるんじゃないのか? 戻らなくっていいのか? そう思うと、足は勝手にズリズリと前進した。

 ダメだ! ダメダメ! 第一こんな暗闇じゃないか! そーなんだよな、今まで気づかねぇふりしてたけど、あいつ、メッチャクッチャ、かわいいんだよ! 沙那子なんかより、数千倍かわいい! あの栗色の髪、クシャクシャーッてしてやったら、どんなにいいだろって、ボーッと考えてたときも、確かにあったよ! だけど、まさか、ソレがコレとは思わなかったから、ゼンッゼン気にしてなかったんだよな! 俺ってバカなのかな。エロ本見ても、エロビデオ見ても、翔が顔真っ赤にして照れとるのばっか、からかってたよ! スケベでヘンタイは俺だったんじゃねぇか、翔!

 またも透は声なき声で身もだえしていた。いつまでもこの状態だと、自分も翔もまえに進めない。

「翔! なにしてんだよ! いーかげんにしないと、夜が明けるちまうだろが! もう、いくぞ!」

 あー……またやってしまった……もうどならねぇって思ってたのに!

 透は両手でグシャグシャと髪をかきむしった。暗闇にまぎれて、翔には自分の本当の顔も行動も見えていなかった。

 それが唯一の救いだった。

 あとからついてくる翔の息せき切る吐息がひどく気になった。

 泣いてんのかな……もし、そーだったらどうしよう……うっ……! 俺、なに考えてた!? これはなにかの間違いなのかーっ!? ずーっとこんな気分になったこともなかったのにィ! なんでだなんでだ!? あいつは男で、しかも友達だったんじゃないかッ!! 

 ダダダダと足踏みしてしまう。

 翔はそんなことも知らず、いくらか遅くなった透のスピードにホッとした。

 自分はあの水鏡を見ているあいだ、何を口走ったのだろう。何もないはずがない。そうでなかったら、なぜ、透が意味もなくあれほど不機嫌な態度を取るというのだろう……

 しかし、心細さに嘘はつけない。

 無意識に右手を口元にやり、親指の関節を歯でガジガジと咬む。中学の一番ひどかった時期、透がこのくせをやめさせてくれたのだ。咬むのなら自分じゃなく、敵か、なんか別のものにしろ、と言って。

 自分の弱さが涙となって、頬を伝い落ちる。

 いけない……! 泣いたらダメだ。おまえ、男だろ……透に言われたばっかりじゃないか。透をイライラさせたらダメだよ……! ぼくがあんまり足手まといだから、透、怒ってんのかも知れないじゃないか……! ここで泣きベソかいてたら、男がすたるよ、翔!

 翔は手の甲でごしごしと涙を拭う。目尻がひりひりとしみた。

 透はもんもんと翔に対する感情を否定しながら、暗闇のなかで無言の百面相を繰り返していた。

 翔は知らず知らず親指の関節の皮をほとんど咬み切り、自分を叱咤しながら透のあとを追った。

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