第25話

「透、しゃべれる?」

「ン」

 翔は透の機嫌が悪くないと知ってホッとした。

「あれ、ホントにぼくがしたの?」

「うん、おまえが片手でやったんだよ」

 透の声は穏やかだった。翔には透の不機嫌の理由がわからなかった。もしかして、少しでもヘマをすれば、すぐにでももとに戻るのだろうか。

「ケガさせなかった? ごめん」

 透の目には馬の腹しか見えなかったが、翔のビクついた面持ちは容易に想像できた。翔は透の友情に不安を感じはじめている。翔のほうから距離をおこうとしている。

 透は強い喪失感に襲われる。両手を翔の肩に回し、この友情はまだ健在だと告げたかった。

「おまえ、俺の心が読めるのか?」

 翔は思いもよらない質問に、不思議そうな顔をして聞き返した。

「えっ? なんで?」

 翔にはそんな器用な技が使えないと知り、透は安堵した。

「いやぁ……俺な、動物と話せるみたいなんだよな、おまえはどうかなぁって思って」

「ぼく、そんなすごいことできないよぉ」

 翔は何度もヘェーと感嘆した。

「おまえが寝てるあいだにこのこ汚い駄馬と話をしてたんだよ」

 と、言ったとたん、馬はいなないて、前足を振り上げ、空をかいた。透は受け身もできずにドチャッと地面に転がり落ちた。

「透!」

 翔が仰天して叫んだ。

「このクソダバが!」

 透は憤激してどなった。

「なにやってんだい、なんでおとなしく馬に乗ってられないんだろうね、まったくもう……」

 荷造りをすませたホァロウがブツブツ言いながらやってきて、地面にみっともなく伸びている透の背をポンとたたいた。

「さ、もう自分で立って! 馬の悪口なんか言うもんじゃないよ!」

 ――オーヤ、その二本の棒はお飾りかとおもってたのに。

 馬は二度とおまえなんか乗せるか、とでも言いたげに、後ろ脚を軽く蹴りあげた。

 透は白い目でねめあげ、

「おまえの脳みそは尻でできてるみたいだな」

 とつぶやいた。

 馬がいななきながら後ろ脚を透に向けて連打し、透はのらくらとそれをよけている。

 馬も透もいつものようにふざけているだけだった。しかし、翔にはそんなふうに思えなかったらしい。

 翔はあわてて馬をなだめようと馬の首をつかんだ。翔が思っていたよりも、馬の力は強かった。その力に振り回されて、グリンと翔の体がすべり、気付いたときには馬の強躯の真下に入り込んでいた。

 驚愕したのは馬と透のほうだった。

 馬はすぐに気付き、じだんだ踏む足の力をゆるめた。しかし、それよりも早く透が馬の足のしたにすべり込み、翔に覆いかぶさった。

 透の余計なお世話のせいで、馬の足がミシリと透の背中を踏み締めた。

 翔は叫ぶこともできず、透の肩越しからそれを見ていた。

 翔は自分の魂の底にある、今まで開こうとも思っていなかった蓋がパカリと開くのを感じた。馬が全体重で透を踏みにじり、自分から彼を奪い去ってしまうと思った瞬間。

「どうしたの!?」

 ホァロウが驚いた声を上げ、二人を助け起こした。

 透は自分の腕のなかでほうけてまえを見据える翔をゆすった。

「ゆすったってダメさ。せっかく押さえ込んであげたのに」

 ホァロウは残念そうにつぶやき、馬を避難させるために離れたところへ連れていった。

 変化は徐々に起こっていた。パタパタと金と茶が入れ替わる。

 透は翔を抱きとめたままだった。

 しだいに金色が翔の体全体に広がりはじめ、透でさえその異様さにゾッとした。単に幼くかわいらしかった翔の顔が、不可能なまでに異質な美しさに彩られはじめた。

 透は無意識に腕の力を強めた。

「目覚めはじめてるのさ。こんなとこで金の神になったりしたら、手に負えないね」

 背後からホァロウののんきな声が聞こえた。

 翔の変貌はすでに終わりかけていた。

「目が覚めたとき、人間の翔の人格は破壊されて、金の神のそれになってるだろうね、なにしろ彼は狂気の神だからね」

 そんな……! 

 透は愕然とする。金の神になれてよかったねと笑いあっている場合じゃないのだ。

「翔!」

 必死に翔を呼ぶが、腕のなかには翔とは似ても似つかない金色の少年が横たわっている。

 透の目にはそれはいまだに翔だった。しかし、金の神になってしまったら最後、彼は透などには見向きもしなくなるだろう。それが透には胸が張り裂けそうに切なかった。

「翔! もとに戻れ! 戻らなかったら許ねぇぞ!」

 声は金色の奥に押しやられた翔には聞こえていないようだった。

 クソーッ!! どうすればいいんだよ! 

 絶句してしまうほどの激しい思いに駆られ、透は翔の頭をわしづかみすると、荒々しく唇を押し付けた。

「おやおや」

 ホァロウの呆れたような声を無視して、透はあわせた唇の透き間からうなり声を上げる。

「翔、戻れ! 金の神なんかに渡してたまるかッ!! おまえは俺のもんだッ!! 絶対離さねぇぞッ!!」

 金の神は翔が気が狂ってできる人格には思えなかった。彼は確かにいるのだ。翔とは異なった人格を有しているのだ。翔の人格など、彼のそれに比べれば、無力なアリにも等しいのだ。荒々しい金色の大波がちっぽけなアリを飲み込んで、精神の深海へ沈み込ませてしまうほどの精神力をもっているのだ。

 翔の手がそろそろと透の腕をはい、力強く握り返した。翔のゾッとするほど美しい顔が透を覗き込んだ。透は息を飲み、金色に輝く瞳を見つめ返した。小気味よさげに微笑むと、まるで灯火がかき消えるようにフッともとの翔に戻った。

 あわてて透は翔から唇を離し、またも気絶した翔を抱き締めた。

「どうやら君とずっとともに生きることを<金>も承知したようだね」

 ずっと馬と一緒に離れていたくせに、のっそりやって来るとホァロウは見るからに安心したように息をついた。

 透はチッと舌を打った。

 ホァロウは不思議そうに透を見やった。

 透は翔を抱えたまま、唇を舌で湿らせた。

 あんなもんキスじゃない。あんなもんビンに蓋したのとおんなじじゃないか。どうせ、こいつは覚えてないんだよ。でも……それでよかったんだ……

 透は翔への思いに区切りをおくことができると信じた。もうあんなことは二度とないし、しないだろう。

 翔を馬の背にまたがらせ、馬に落とさないようにと目配せする。思い出したようにあくびをかみ殺し、

「そーいや、一睡もしてなかった」

 とつぶやいて、ムスッと黙り込んだ。

「<金>が気まぐれを起こさなかったら、いまごろ永遠に眠りについてたんじゃないかな?」

 ホァロウは馬に飛び乗り、透に忠告した。 

「ショックにはショック療法。君にも少しは考えるゆとりができたんだねぇ」

 透はホァロウは無視して、ホァロウの馬に話しかけた。

 馬は恐ろしげな目でじっと透を振り向き、君はそんな野蛮人じゃないよね? と言いたげに見やった。 

 透はなにも言わず、ホァロウの馬の尻を蹴りあげた。

 ホァロウの馬はギャヒンといななくとめくらめっぽうに走り出す。ホァロウの上ずった大声を聞きながら、透は言った。

「馬ごときに俺は相談してんじゃないんだぜ。これは単なる独り言なんだよ」

 ――それより、さっき……に言ってたこと、本当の話なのか?

「馬刺しの話か? そーだけど?」

 ――食うと決めた馬の尻を蹴るっつーのもか?

「おまえ、信じてんのか。おまえの尻も蹴ってやろーか?」

 なんだ、嘘なのか。と、いかにもホッとした様子で馬は足取りを軽くした。

「それより、あのとき、金の神が目覚めてたら、俺、死んでたと思うか?」

 ――駄馬の背には余る独り言だな……ま、あんたは確実だったろうね。 

「俺、あのとき、とめといてよかったのかな……」

 ――これも駄馬ではなんとも言いようのない独り言……駄馬の眺めていたところでは、金の神は君がいないと困るみたいだな。

「近ごろの駄馬は目がいいな」

 ――そうさ、あんたの脳みその大きさもよーく見えてるからな。オレの鼻息で軽く吹き飛ばされないように耳栓しとけよ。

 ――あ、それとな、馬刺しから免れるためには踊るしかないっていうあのデタラメ、当分あいつには黙ってろよ、見てるとおもしろいからな。

 馬は透との無駄口を楽しんでいる。結局それに慰められて、透はぐったりとしている翔を見やった。まるですべての苦難が自分にのしかかってきたような大きなため息をつくと、翔の馬を引っ張って、ホァロウの暴れまくる馬の後を追っていった。

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