第26話

 この四日間で、沙那子は、円形のホールのすみからすみまで、すっかり調べ尽くした。

 まぎれもないホール。外見はイスラムのモスクみたいかも知れない。

 沙那子が感慨にふけってたたずんでいる円形の広間には下々のものが立ち、イシュカがくつろいでいる段上にはおえらいかたが立つのだ。体育館のステージみたいな感じだろう。

 ここの構造はなんだか不思議な感じがした。

 イシュカとともに段上に座ってホールを眺めていると、とても狭く見えた。しかし、こうしてホールの真ンなかに立っているとそれより三倍は明らかに広かった。

 深い海の色と淡いピンクのバラ色。ふだんならひどくセンスが悪いと思ってしまうが、バラ色の大理石の柱はひどく透明感があり、青冷めたローズというおもむきがある。

 近くから見るともっとよくわかるが、エンタシスの膨らみをもつ円柱には、かすかな紋様が彫られていて、花弁の豊かな花にも見えるし、大きくせりあがる波にも見え、真夏の流動する雲、小川のちいさなせせらぎ、渦巻くカマイタチ、どんなものにも見えてくるのだ。それ対して床のラピスラズリにはなにも彫り込まれていない。

 ホールのぐるりを取り囲む柱の向こうは、寒気がしてくるほど暗い。明かりがなくて暗いのではなく、どっぷりと墨に浸かったような暗さ。ホールの明るささえ吸い込んでいきそうなほど貪欲な闇に見え、さすがの沙那子も柱の向こうへは足を踏みいれることができなかった。

 ダークエルフたちはそこから来て、そこへ去っていった。どこから出入りするなど無関係に、四方八方から出たり入ったり。ドアの音など聞いたこともなかった。あの暗さは締め切っているからだと思いたかった。

 窓もなく、風さえも吹き込んでこない。窓と言えそうなものは、天蓋に開いた明かり取りだけ。そこから、純白の鳩が光の帯のなかからキュッキュッと舞い降りてくるさまは、背景とあいまって一枚の絵のようだった。

「あたし、こういうのあこがれるなぁ……」

 おメメをキラキラさせて沙那子はうっとりとつぶやいた。

 遠く離れていても沙那子の声が聞こえたのだろうか、段上からイシュカが、「何が?」

 沙那子はイシュカの清楚なアクアブルーの姿を振り返り、今朝のドレス選びを思い返した。

 イシュカは衣装もちだ。着道楽なのだろう。レインボーどころか、子供のころあこがれたクーピーの62色と同じくらいの違う色、デザインのローブをもっている。そのなかからブルー系のローブを選び、沙那子はその似合わなさに一生ブルーは着まいと決心したのだ。それでいま沙那子が裾をひるがえしているのは、サフランイエローの胸に絞りのあるローブだ。

「えー、うーん……こーゆー建物のなかに、あーゆー天窓があって、そこから作りものみたいに真っ白い鳩が舞い降りてくる、そういうの」

 自分が心に思い描いたものは、実際言葉にしてしまうとやたらチンケに聞こえる。もっとドラマティック、ロマンティックに考えていたのに。沙那子はつまらなそうにイシュカを見つめた。

「こういうのがあなたの好みなのね? でも、しようと思えばもっとステキにできるのよ」

 イシュカは内装のことを言っているのだろう。彼女はお金持ちだ。きっとできるだろう。

「あたしだったらァ、天井から薄い白のシルクを垂らしてみて、柱には本物のバラを巻き付かせるでしょー、でね、シルク織りの敷物を真ンなかに敷いて、足の低いアンティークの台座をもってきて……」

 沙那子の想像力にも、品物をそれ以上知らないという欠点があった。ここに内装の雑誌があれば……! と思わざるを得ない。

「そうじゃないの、あなたの心のなかのロマンティックな映像を、そのままここにもってこれるのよ。なにがいい?」

 沙那子は「?」とイシュカを見て笑う。

「何が見てみたい?」

 そう言われてとっさに思いついたのが、「海」だった。

 イシュカはごく軽く指を振った。リモコンもないし、沙那子とイシュカのほかにダークエルフさえもいなかった。

 突如、真っ暗い柱の向こう側に砂浜が続いている。そして、唐突に潮の香り。静かな潮騒。日本海でなく、どこなのかまったく見当もつかない。見も知らぬ海辺がホールを取り巻いた。

 一瞬の出来事だった。

 沙那子が歓喜の声を上げて、走り寄ろうとした。柱に近づいたとたん、映像は消え去り、もとの暗い空間が横たわる。

「えー? なんで消したの? でもすごいなー!! じゃあ、今度は……」またも青のイメージから、「宇宙!」と叫ぶ。

 パッと星々が浮かび上がる。今度は無音。視界に広がるのは巨大な朱と砂色の惑星と、そのそばでチカチカと瞬く星々。それらを黒々とした紺色が飲み込むように拡がっている。

「これってホログラフ? それともビデオ?」

 イシュカは相変わらず身動きもせず、段上に座っている。

「いいえ……でもあなたのお好きなように想像してみて」

 ちょっぴり沙那子はイタズラっぽい気分になってきた。

「じゃ、アルプスのてっぺん!」

 パッ!!

 沙那子はくやしげにうなる。アルプスのてっぺんは見たことがないが、上空から山頂を俯瞰しているのはわかる。薄い霧状の雲がふわりと漂っている。

 さすがは金持ち。しかし、これならどうだ!

「市立中央高校」

 しかし、沙那子は青冷めた。驚きと言うよりも、一瞬のうちに映し出された母校のビジョンは、はっきり言って薄気味悪かった。思わずホールの真ンなかまで後ずさった。

「あ……あたしのウチ」

 期待は裏切られなかった。沙那子は小さな悲鳴を上げると、口を手で覆った。段上を正面にして、家の前の道路に立っているような具合にビジョンを見ていた。

 沙那子の家の近くには手作りパン屋さんがある。そこはいつも笑ってしまうけれど、午後の三時になると決まって、「パンやのケンちゃん」という昔の子供番組の主題歌を流すのだ。それがいま聞こえてくる。サッシが開く音、自転車のリン、どこかの、沙那子には見当がつくけれど、バカ犬の吠える声。これらの音は録音なのか、それとも?

「も、もういいよ! 次の見たいなっ! えっとえっと、どっかの山奥のすがすがしい小川なんかどうかな?」

 映像は変わった。

 イシュカを振り向けず、沙那子は自分の体がブルブルと震えているのに気付いた。

 イシュカにできないことなどあるのだろうか。なにものなのかとたった二日まえにたずねたが、もう一度たずねたい気分に駆られる。しかし、それによって返ってくる答えを知りたくない気がした。どうせ納得なんかできないだろう。

 忘れていたはずの心もとなさが幽霊のように忍び寄ってくる。せっかく楽しく過ごしていたのに。

「どうしたの? 気に入らないの?」

 イシュカは同じ要望の、まったく違ったおもむきのせせらぎを映し出した。

「あのー……これって……」

 沙那子は下唇を噛み、ニコッと笑って、

「なんでもない」

 と、映し出されたせせらぎに感嘆の声を上げた。

 イシュカは沙那子のうろたえる様子をじっと見つめた。

 訊かれれば答えるだけの準備はできていた。沙那子がそれによってパニックを起こしてもここから出ていくことなどできないのだから。

 この天堂は鳥籠。

 一本の太い柱のように大地からそそり立つ岩のうえに、頼りなげに乗せられた青い宝石箱なのだ。

 以前、父を閉じ込め、祭り上げた場所なのだ。

 父はいま自分のいる場所にかつて寝そべり、自分をダークエルフのように扱った……

 イシュカは自分の顔に感情が現れそうになるのを恐れ、回想を打ち切った。

 もうすぐ父がここに戻ってくる。そして、自分のものになってくれるのか、または力を譲り渡してくれるのか、それはまだわからない。しかし、人としては長すぎたこの生に意味というものが生まれるかもしれない。

「沙那子、これはすべてめくらましなの。ここに映っているはずのものは、すべてあなたにしか見えていないし、音や匂いさえもあなたの心の副産物なのよ。わたくしには真っ暗いまま」

 その言葉を聞き、沙那子はパァと顔を明るくした。

「じゃ、催眠術なの? イシュカちゃんには、パンやのケンちゃん、聞こえなかったんだね?」

 イシュカはうなずく。しかし、それは沙那子のために用意した嘘だった。 

 場所そのものをあの次元のひずみに転移させ、沙那子に見せたのだ。

 ダークエルフたちは次元のひずみを渡って移動する能力をもつ。イシュカにもできる。けれど沙那子にはできない。

 彼女がひとりであのなかに入っていれば、たぶんとんでもないところへ移送されるだろう。そして、もし風景の映っているときに沙那子が入り込んでいれば、そこへ移送されてしまうのだ。

 正直言うと、沙那子の住んでいた場所へ彼女が駆け込まなくてよかったと思っていた。

 ジェヌヴでさえも資格をなくしたいま、沙那子を手中にしているイシュカが金の神の候補者であった。しかし、沙那子がイシュカ同様、金の神にとって意味のないものであるとしたら……この女でなく、透という腰ぎんちゃくを捕らえていたほうがよかったかもしれない。

 ならばなぜこの娘を生かしているのだろう。

 ホールを歩き回り、物思いにふけっている沙那子を、イシュカは凝視した。

 他愛もない。そして、単純な生き物。どこにでもいる平凡な娘。

 その娘のくだらない話に調子をあわせるのは退屈ではない。沙那子の思いつくままにダークエルフにその思いつきをやらせ、その結果に声をあわせて笑うのはそれほど気分を害することではなかった。

 かわいいものが好き、おいしいものが好き、楽しいことが好き。感情豊かで反応がよく、小難しく物事を考えることはなくてもちゃんと悩みをもち、他人の感情に敏感で、思ったことを口にし、行動に表す。小さな欲をもち、素朴で、健全。

 もしも、自分が人間の娘として育っていたならば、例えばあんなふうだったろうか。

 沙那子がとてつもなく恵まれているように思えた。あの定命者のなかにはあふれんばかりの光が渦巻いて、回りを明るく照らしていた。

 あの娘が光ならば、わたくしは闇だ。

 この体は父上が若くみずみずしいままにとめてしまった。しかし、その中身は虚ろだった。つまっているものは、死と苦しみと狂気と憎しみと飢えた何かだった。

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