第5話

 床にラピスラズリの薄板が敷きつめられ、バラ色の大理石の背の高いエンタシスのある円柱が、ラピスのホールに円を組んで、半球の天蓋を支えている。

 広い、そのホールの中心に湾曲した天蓋の明かり取りの窓から漏れる光が、一筋に落ちてくる。

 光とともにキュッキュツと羽ばたき、純白の鳩が舞い降りる。

 床の青にちりばめられた金の粒を、おいしいものと間違えて、ついばもうと必死になっている。

 光の当たるその場所から十歩ほど退くと、ひんやりとした空気が張りつめ、夜のように暗かった。

 無邪気な鳩が足元の金色を求めて、その暗がりへと入っていく。

 二、三段のきざはしをのぼり、テンテンと段上の奥へと跳ねていった。

 柔らかなレモン色のサテン生地が波立っていた。

 光沢をもつ布のうえに、白い素足が投げ出されている。

 鳩は人の存在に驚き、羽を鳴らしながら天蓋まで飛び去った。

 金髪の少女はカメリア色のシルクのローブをその足にさっとかけた。

 髪はゆるやかにウェーブを作り、そっと肩に触れている。猫のような目に、マスカット色の瞳が輝いていた。そのきつい視線を、ホールの奥正面に据えている巨大な六角水晶のうえに、ひたととめている。秒速の思考がちらちらとその顔をよぎった。イシュカはそっとため息をついた。

 黒のタカは戻って来ない。あの程度のダークエルフに期待以上の期待はしていなかったが。

 異世界があの狂った金の神をどのように変えてしまったかは知らない。

 黒のタカの言うところの、わめくガキと生意気なガキのどちらが金の神であろうとなかろうと、彼の本性はイシュカがよく知っていた。

 中途半端な力を自分に授け、さっさとこの世界を捨ててしまった薄情な男。

 実の父母に捨てられ、飢え死にしかけていた自分を助け、育ててくれた優しい父親。

 彼が愛し、自分が殺したという男の身代わりでしか愛してはくれなかった。

 イシュカは表情を硬く凍らせ、六角水晶に向かって指を振った。

 空中で沙那子はバランスを崩し、ドサリと床に崩れ落ちた。

「キャッ!」

 沙那子は悲鳴を上げた。

「イタタタ」と、強く打った尻をさすりながら、

「もう! 透、いいかげんにしてよね!」

 とどなった。

 しかし、その憤慨も見たことのない床の色で静まり、さらに目を上げたときに視界に入ってきた光景によって萎縮した。

 パンパン

 沙那子はカバンをもたない空いたほうの手で自分の頬をたたいた。

「アハハハ……これって夢、だよねぇ……あーあ、ほんと、こんな変な夢まで見るようになっちゃって、もう一度寝なおそ」

 テレテレと笑いながら、冷たい床に横たわり、さも自分のベッドのなかにいると強硬に思い込もうとした。

「娘……これは悪夢ではありません。あなたはマシュラリアンにいるのです」

 イシュカは見たこともない奇妙な格好をして、ブツブツとつぶやいているおかしな少女に話しかけた。

「あぁ……幻聴が聞こえる」

 沙那子はギュッと目をつぶったまま、絶望的につぶやいた。

 イシュカは忍耐強く、沙那子がこの現実を認めるのを待っていた。しかし、その気配はまるでない。

 沙那子の本能的に感じている恐怖を読み取り、そのおかげでなぜ彼女がおかしな行動をとっているのか、イシュカにはわかっていた。

 荒療治がいいのか、時間をかけて教えていくのがいいのか……

 イシュカは後者を取った。

 時間はあるのだ。このことはもう他の四神、<朱>と<玄>と<白>と<青>は知っている。

 運命なのだ。こうなるべくしてこうなったのだ。自分はいつでもサイをふれたのだ。そして、いまサイはふられた。

 この人間の娘を相手に、この金の玉座に座っていれば、父上は引き寄せられくるのだ。

 運命の描くシナリオ通りに。

 けだるい虚脱感が、漫然と彼女の心と体を覆っていく。本当は別の思いが自分の魂を食い散らかしていた。それがなにかはわかっている。イシュカは眉ひとつ動かさずに思った。

 光と共に舞い降りる鳩を見つめながら、金の神が再び力を譲るため、もしくは自分がその力を奪うために、なにもせず、約百年間待ち続けた。確固たる力のない今、四神の間では立場もなく、父のいるときほどに傲慢な気分にもなれなかった。自分はいまだに十六、七の少女の姿をしているが、心は百年以上をへた老婆と同じように擦り減っているのだ。

「娘よ……」

 イシュカはもう一度話しかけた。

「なに……?」  

 沙那子はふてくされたように顔も上げず答えた。

「あなたの名は何というのです?」

 沙那子は冷たい床に寝転んだまま、顔だけイシュカに向け、彼女の美しさにはっと息を飲む。

「日本語しゃべれるの? ハーフ?」

 イシュカは沙那子の無邪気さに笑みを漏らした。

「どうとでもとればよろしい……わたくしと少しお話しをしましょう。それともわたくしとお話しするのはおイヤ?」

 沙那子はいそいそと体を起こし、居心地悪げに正座した。

「えーと……イヤじゃないですけど……あの……」

 沙那子は苦笑いながら自分の周囲を指さした。

「マシュラリアン……信じられないでしょうけど、ここはあなたの住む世界ではありません」

 沙那子は笑いかけて何か言いあぐね、ジェスチャーで自分の言いたいことを表そうとした。結局わけがわからなくなり、すがるような目付きでイシュカを見つめる。

「あなたは突然ここに連れて来られたのです。すべて現実に起こっているのです。そして、この世界に連れて来られたのは、あなた一人ではありません」

「じゃ、透や八雲くんも!?」

「そう……」

「え……? でもなんで? よくわかんない……」

 沙那子は眉をしかめ、首をかしげた。

「これって、通行人にイタズラするドッキリとは違うのよ……ねぇ? あ、じゃあさ、あたしをみそめた映画監督があたしを主人公に……って冗談よ」

 せいぜい自分では明るく言ってるつもりだった。自信がなさそうな分、その狼狽ぶりが気の毒になってくる。

 沙那子はとうとう半ベソをかきはじめた。

「ねぇ、ホントのこと言ってよ? これってテロリストの誘拐とかなの?」

 イシュカはけだるげに立ち上がり、きざはしを降りると、沙那子の傍らにひざまずいた。

 優しげに沙那子の頬をなでさすりながらささやいた。

「何もわからないのならそれもよいでしょう。あなたが理解できないなら、理解できる範囲でわたくしとお友達になりましょう?」

 沙那子の頬をなでる手は凍えるように冷たかった。

 沙那子は無意識にその手を両手に包み、彼女の繊細な指を見つめた。

「キレイな爪……このマニキュア、どこで買ったの?」

 生きた人間の血の暖かさが骨に響いてくる。イシュカは不快とも言える刺激に眉をしかめた。

「冷たい手の人ってね、心があったかいんだって」

 沙那子は自分でもお定まりのことを言ったと、イシュカの顔を見つめてテレ笑いを浮かべる。

 イシュカはその言葉に何も感じなかった。

 この素朴な言葉にもはや動かされないのだと知っただけだった。

「ねぇねぇ、あなた、なんてダイエット法やってんの?」

 沙那子の奇妙な言動には、イシュカでさえ困惑した表情を浮かべた。

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