第15話
「翔、あんな運命論者のどこが信じられるっていうんだよ? もしかすると、あいつ、イシュカとかいう女とグルなのかもしれないんだぜ?」
穴のなかは真っ暗闇でお互いの顔色を伺うことすらできない。
「透……でも、ぼく、あの人はそんなんじゃないって、思ってるんだ。ぼくはあの人の言うこと、信じられる。やっぱ、なんか、この世界っておかしいもん。音がしないんだよ? どんな田舎でも、虫やら風の音やら人の声やら、なんか音っていうものがするものじゃない。夜中目が覚めたら、ただ真っ暗くて、薄気味悪いんだよ。なにか、感じたりしないの? ぼくはずーっと気持ち悪いんだよ」
透は自分の右側にいるはずの翔の震える声を聞く。青冷めて深刻な顔付きの翔が頭に浮かんだ。
「すまん……俺、大人げないのかな……? 悪いヤツじゃないってわかってんだけどさ」
「もういいよ。弱音吐くのはぼくの領分だから。透はしっかりしててくれよ。ぼく、すぐオタオタするから、透に鶴の一声、してもらわないとね」
翔は左側に目を向け、励ますように笑った。
透も不安なのだ。ただ自分に気どられないように、いつも気を遣ってくれているのだ。
確かにホァロウの言いかたは謎めいている。短気な透がイライラさせられるのも無理はない。しかし、感情的なことは透に任せておいて、自分は透が感づけないことに目を向けておけばいいと、考えていた。自分は知恵のあるほうではない。だが、頭がひどく鈍いわけでもない。何においても、透とは対称的ではあるが、すべてのマイナス面を受け持っているわけではないのだ。それはやはり育てられ方の違いだろうか。透がそばにいてくれれば、自分は自分の役目をこなすことができる。それだけが翔にとって安心できるすべてだった。
土は湿り気を帯びていて、冷ややかだった。えてして地下というものは暖かなものだが、ここはしだいに底冷えしてくる冷たさを漂わせている。
ふたりとも半袖シャツ、剣は肩、といういで立ちだった。
かじかみはじめた指先で、翔はシャツのまえボタンを留めていった。
暗闇のなかで透の歯をガチガチ震わせる音が聞こえた。
「透」
翔は不安になって、自分の左手を伸ばし、彼の右手に触れた。
透は翔の指先に驚いて、一瞬手を引っ込めたが、すぐに翔の手をがっちり捕らえ、握り締める。翔の凍えた固い手を感じた。透自身の手よりも冷え切っていた。
「どうした?」
「はぐれたらどうしよう……ひっついて歩いてるほうが安全じゃないのかな?」
言っている矢先、道は二股に分かれた。
「どっちと思う?」
「あのバカはリリックが案内するって言ってたけどよ、全然そんな気配ないな」
翔がか細くリリックの名を呼んだ。
ウキュキュと四方から声が反響する。足元をポンポンとなにかがぶつかっては走り去っていく。一匹だけでなく何匹も同時にぶつかってくるのだ。
翔は驚いて右のほうの道へ下っていこうとした。すると、前方から波のようにカプリコーンが足元に押し寄せてきて、危うく翔は転びそうになった。
「右じゃないみたい……」
翔は透にすがりつきながら態勢を整え、左側の壁を伝って降りていった。
「あー」
透がふいに叫んだ。アーと穴のなかで声が何度もこだました。
「え? え?」
「銭湯にきたみたいだなー」
のんきな透の答えに翔は安心した。
「都はるみは十八番なんだよねー。ババァがよく歌ってたしね」と言って、透は『北の宿』を皮きりに歌い出した。
足元のポンポンに導かれ、透の陽気なエコーのかかったオール演歌に抱腹絶倒しながら、翔はかなりリラックスしていた。
美空ひばりのオールメドレーに移ったとき、翔は自分がこけただけだと思った。
しかし、それがすぐに間違いだと気付いた。気付いたときには、時すでに遅く、足元に踏ん張るべき地面がなく、絶叫マシーンに乗ったときのような浮揚感が全身を捕らえた。
「ト……オ……ル……!!!」
翔は悲鳴を上げた。頼りなく、平べったく引き伸ばされた声が頭上へ取り残されていく。いまや、透の手の届かないところまで、自分は落ちていっているのだと、すぐに悟った。
「翔!? ショオォウゥゥッ!!!」
翔の手がもぎ取られ、ゾッとする重みを右手に感じたとたん、透は両手を地につけた。透は翔の名を叫んでいたが、か細い悲鳴がそれに応えるだけで、縦穴へ手を伸ばしても暗い虚空をつかむだけだった。
穴は深いようだ。深過ぎて、透は冗談でなく、本当に目の前が真っ暗になった。穴は自分の足元のすぐわきにうがたれていた。自分の手から翔の手が抜け落ちていく感触を今でも感じていた。穴に向かって、透はあらんかぎりの声で叫んでみたが、どうなるわけでもなかった。
四つん這いになった体にポンポンとカプリコーンがぶつかってくる。透はその場にうずくまり、思考のとまった頭を抱え込む。カプリコーンはしきりに体当たりしてくるが、彼はそれを完全に無視した。
穴へ自分も落ちるべきか。
ホァロウのもとへ戻るべきか。
このままじっとしているべきか。
カプリコーンに導かれるまま、先に進むか。
まず<ホァロウ>は消去。
<このまま>も消去。<穴>が確実に翔と同じコースをたどればいいが、たどらなければ……または翔が死んでいれば……もっと安全と思われるのは<カプリコーン>。これは玄の神のもとへ正面から堂々と連れていってくれるだろう。理性は<カプリコーン>を取れと言い、感情は<穴>を取れと迫ってくる。
透は低くうなると立ち上がり、壁沿いに下方へ向かっていった。生ぬるい涙が頬を流れ落ちたとき、透は自分が泣いているのだと信じられなかった。
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