第9話

「ねぇ? ここっておフロとか鏡とかないの?」

 まず朝起きて、沙那子の一言。

 結局、あれからうやむやになって、ちょっぴりごちそうになると、沙那子はセーラー服のまま、イシュカの傍らでクッションと柔らかな布にくるまり、眠ってしまったのだ。

 朝目覚めて、なんとも言えない心地悪さに口もききたくない気分だった。

「うー……歯みがきしたい……頭が気持ち悪い……下着替えたい……うちの親にお泊まりするって言わなかったっ……」

 クッションを抱き締めて、沙那子はぶつぶつとぼやく。

 イシュカは昨日と同じ位置に人形のように座っていて、服はいつの間にか着替えていた。

「おフロ入った?」

「必要ないのです」

 しかし、イシュカからはかぐわしい花の香り、たとえばバラのような薫りが漂う。

「うそぉ、いい匂いがするもん。それとも香水?」

 イシュカの困った顔を見て、沙那子は戸惑う。

「あなたの気がすむのなら、湯浴みの用意をさせましょう」

 イシュカが雅やかに指を空中でくゆらせる。

「なに用でございましょうか、イシュカ様」

 はっとして沙那子は段下のホールを見下ろす。

 黒髪に灰色の肌の胸もあらわな、黒い羽根で腰を覆っただけのエッチな格好をした女の人が、数人ひざまずいていた。

 沙那子は度肝を抜かれた。

 イシュカは大金持ちのお嬢様だったのだ!! 

「おまえたち、このかたの湯浴みの手伝いをしておあげ」

 イシュカはいかにも命令しなれたふうに女たちに言いつけている。 

 ササッと二、三人の女たちが引き下がり(とは言っても、ローズ色の柱の奥は薄気味悪いくらいに暗く、他に部屋があるのか、それとも扉があるのかもわからなかった)ついたてと銀の湯桶を運びいれてきた。

「えええ……!? ここまでしてくださらなくてもよろしいのに、オホホホホ!」

 半パニックに陥り、沙那子は無理をして、お嬢笑いをご披露する。

 湯桶にさっさと湯気の立つ湯が汲まれていき、妖艶な顔をした、しかも獣の瞳を銀色に光らせた、「スゴイ、はじめてみる、そのカラコン!」と沙那子をうならせるような女たちが、腕を伸ばして彼女のひざ元にひざまずく。

「湯浴みの用意ができました」

「え? え? え?」

 どうしたらいいのー!? とパニックしている沙那子のわきにイシュカが並び、彼女の肩を両手で包み込んだ。

「落ちついて。別になにもしなくてもよいのです。困ったことがあればわたくしにおっしゃいな。新しい服はわたくしのを差し上げましょう」

 トンと肩を押され、沙那子はヨロヨロと段を降りた。

 ふわりと女たちに囲まれ、あれよあれよと服をひっぺがされ、女たちが離れたと思いきや、ついたてに取り囲まれ、気がつけば湯桶に浸かっていた。

 灰色のものすごく大きな胸が、女たちが沙那子の体を泡でこするたびにフロ桶の縁にところ狭しと並び、女である沙那子でさえも気恥ずかしい思いになった。

「ヤヤヤ ! 自分でやるからいいって! キャッ、そんなとこ、さわんないでよ!」

 女たちはさっと身を引き、当惑した目付きで沙那子の次の指示を待った。

「えー……でも、ありがとう」

 女たちはなにか言いたげに口を開けた。

 その口のなかで象牙色の犬歯と、どう見てもちょん切られたような舌が見えた。

 そう言えば、しゃべってたのはさっきから一人だったような気がする……

 沙那子はタラリと脂汗が浮く思いがした。

 もしかして、イシュカってコワイ人なの? もしかすると、あたしが断ったりしたら、あたしの見てないとこでこの人達おしおきなんかしちゃってるのかしら?

「あの、じゃあ、髪をひとつ、洗ってもらえますか?」

 沙那子は自分の頭を指さした。

 女たちは機械のようにササッと動き、沙那子の頭をふたりがかりでぐりぐり洗いはじめた。

 泡をすっかり流しおえると、銀の盆にかわいらしいクリスタルの壷を数個並べて、女がうやうやしく持ってきた。

「え? なに?」

 すると、段上のイシュカが答える。

「香油です」

 ひとつひとつ嗅いでいった。全部の壷からとてもいい香りがした。沙那子はそのなかのひとつを受け取った。

 まるでそれをベビーオイルのように女たちが体に塗ってくれた。たいがい手の届くところは自分で塗ると言い張ったが。

 イシュカの見せてくれたローブのなかから、シュリンプピンクの色を選なだ。持ってこられた鏡に等身大の自分を映した。

「こんなのはじめて着たァ」

 裾がふわりと広がり、ハイウエストのローブはジュリエットが着るネグリジェのようだった。

 その後ろに沙那子よりも少し背の高い、金髪の少女が並んだ。サルビアンブルーのローブが、床のラピスラズリに溶け込んでいる。

「これってシルクよね? いいの? 貸してもらって」

「いいのです。欲しかったら差し上げますわ」

 さっと沙那子は青ざめた。

 おじょーさまのご機嫌を損なったら、あたしの舌もなくなっちゃうのかしら?

「いいえ、あれは人の姿をした獣です。その舌はあまりにも愚かで、そのたわごとを賢明な人間に聞かせないためにああしているのです」

 今度は沙那子の顔がカッと赤くなる。

 ひどい! いくら身分が低いからって、獣扱いなの!? 

「それも違います。それならば、あのものの真の姿をお見せしますわ」

 イシュカは鏡から目をそらすと、背後にひざまずく女のひとりに指を振った。

 グギャーッ! 

 醜い奇声に驚いて、沙那子は振り返る。

 カラスにそっくりな(どこがそうかというと、その頭部が女のままというところ以外!)特撮でもかくやとマニアならむしゃぶりつくような代物が暴れ回っている。

「なななな???? ああああ????」

 イシュカの腕を取り、沙那子は懸命になにか言おうと口をパクパクさせた。

 それなのに、言葉にならなかった。

「こやつらのようなダークエルフは伝書役もこなせない下等な精霊。わたくしの身の回りの世話をして、やっと満足な仕事ができる程度。感情も単純、知能はないに等しい。こざかしい浅知恵と、口ばかりが人間をたぶらかせるために発達しているのです」

 イシュカは指をその化け物に向け、また振った。すると、すっかり落ち着いた女が、そこに何事もなかったかのようにひざまずいていた。

「あたし、信じられない……だってだって、UFOだって信じなかったんだもん。あたし、オバケとか幽霊とか、そーゆーの、すごく弱いんだもん……あなたって、一体何ものなの?」

 沙那子は自分の唇が震え、ひざがガクガクと笑っているのを感じた。自分は得たいの知れない何かに遭遇しているのだ。

「わたくしがそんなに恐ろしいのですか?」

 イシュカはじっと沙那子を見つめる。

 沙那子の恐怖が空気を振動させながら、自分の心のなかに忍び込んでくる。今まで人間の恐怖、狂気、混乱がイシュカの魂を満たしてきたのだ。それを今、久しぶりに敏感に感じ取っている。

「ごめんね!」

 思いもよらず、イシュカは沙那子に抱きすくめられた。

 イシュカは身体じゅうがしびれ上がる衝撃を味わう。手を握られたときのあの痛みなど、比較にもならない。息がとまるほどに肺が握り潰されるような激痛。

 イシュカはとっさに沙那子をはねのけた。

 ショックの覚めやらぬうちに、沙那子が顔を青ざめさせたイシュカに近寄った。

「あ、あたしさ、すごく口のチャックの締まりが悪いって、よくみんなに言われるの。だからね、あなた……え、と……名前なんて言ったっけ?」

「イシュカ」

「あたし、沙那子。で、イシュカちゃんを知らないあいだに傷つけてるかもしれない。あたしさー、お金持ちの事情って、よく知らないのよね。それに、イシュカちゃんのことも知らない。急にお邪魔して、すごく親切にしてもらって悪いんだけどさ、あたしね、なんだか、事情がよく飲み込めないのォ……」

 沙那子の目に涙が潤みはじめる。言葉尻がしだいに小さく途切れていき、ボロボロと涙をこぼした。

「あたし、あたし、いつになったらうちに帰れるの? なんで、こんなとこにいなきゃなんないの? 透と八雲くんは? あたし、どうすればいいのォ……?」

 幼子のように泣きじゃくる沙那子を見下ろした。

「わたくしはあなたをもとの世界に帰すことができないのです。できるのは父上だけ。あなたのお友達もすぐにきてくれますわ、だから、泣くのはもうおよしなさい?」

「あなたずっとここにひとりなの? お父さんていつくるの?」

「それに答えたら、もう泣くのはおやめになる?」

 沙那子は一応コクンとうなずく。

「わたくしはずっとひとり。父上はいつこられか、わかりません。父上があなたのことを必要と思われているのなら、きっとこられるでしょう」

「イシュカちゃん!」

 沙那子はまたも唐突にイシュカに抱き締める。さっと彼女の両手を取った。

「なんか、すっごいひどくない? 自分でそう思わない? 冷たい親だって思わないの?」

 イシュカは身をひるがえし、沙那子から離れ、大理石の柱にすがりついた。

「いいえ、一度も」

「実の親なのに!?」

 イシュカはわめきたてる沙那子をじっと見つめた。

 この娘は何を興奮しているのだろう……激しては自分を抱き締め、泣き、わめき、怒り、休まるときがないように思えた。退屈しのぎにはちょうどいいかんしゃく玉。せわしなく破裂している。

「いいえ、実の親ではないのです」

 沙那子の引き攣る顔をイシュカはおもしろげに眺めた。

「じゃあ、イシュカちゃんは養女なの!?」

 沙那子の顔は険しくなったり、明るくなったりと忙しい。

「ドラマみたいねー!!」イシュカの困った表情に気付き、言った。

「テレビってないの? この家」

「ええ」

「じゃあさ、あれもそれもこれも知らないの!?」

 沙那子は自分の知っている限りのタレントの名前を上げていく。

「毎日なにしてるの!? 学校とかいってるの!?」

 イシュカは首を振り、「時が過ぎるのを待っているのです」

「ねぇ……そんなんで楽しいの?」

「楽しい……そんなふうに感じたことはありません」

 沙那子はすさまじく顔をしかめた。

「いや! そんなのすっごいイヤ!! そんなの年寄り根性ってゆーのよ、イヤ、違ったかも知れないけどサッ。イシュカちゃん、一体いくつなの!?」

 イシュカは沙那子の反応パターンをある程度把握しているつもりだった。

「17くらいでしょうか」

「あーもぅ! 他人行儀なしゃべりかたはもういいって! 同い年じゃない! 全っ然そんなふうには見えないけど、その年で年寄り臭いこと言ってどうするのよ!」

 イシュカはあまりにも単純すぎる沙那子の感情についていけず、黙ったままでいた。

 はたから見ると、イシュカが沙那子に圧倒されているかのようだった。

「あ、いけない。ごめんなさい、でもあたし、怒ったのと違うの。悪いクセなんだ。気を悪くしたなら、許してね」

 沙那子は苦笑いながら、自分の後頭部をなでた。

「いいえ、おもしろいかたね。一緒にお話ししてると、とても楽しいわよ?」

 嘘をつくのは慣れている。このくらいは考えずともついてしまう嘘。この娘に取り入り、土壇場で利用するための嘘なら、いくらでも口をついて出てくる。

「いやぁ、それほどでも」

 無邪気に笑う沙那子を眺め、イシュカはそっと手招いた。

「お菓子はお好き? どんなものがお好き? なんだったら作らせるわよ?」

「あたしね、シュークリームが好きなの! それからタルトも好き。ねぇねぇ、イシュカちゃんはおいしいケーキ屋をしってる?」

 イシュカは笑顔で彼女のおしゃべりを受け止めながら、ダークエルフたちを引き下がらせた。

「そのお話し、もっと訊きたいわ」

 むろん、そんな催促は沙那子には必要なかったが。

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