第30話
「あたし、なんか変なことしてなかった?」
翔は安堵して透を見上げた。
透はまだいぶかしげに眉をひそめていたが、沙那子に言った。
「おまえ、翔とキスしようとしてたんだぜ」
沙那子は間髪いれず、「えー!?」とすっとんきょうな声を上げた。
翔はちょっぴり傷ついて、苦笑った。
「覚えてないと?」
「いやー、エヘヘ、覚えてない」
沙那子はヘラッと笑い、その目をイシュカに鋭く向けた。
「あたし、イシュカちゃんのこと、信じてたのよ? なんで? なんでだましてたの!? 友達だと思ってたのに!」
イシュカは氷の態度でその非難を受け流した。
「人の言に惑わされる愚かな子。少し甘いお菓子を与えれば、すぐにでもシッポを振る。すっかりなついていたはずなのに、お菓子がもらえないと知ると、どうしてそう反抗的になるのかしら?」
その淡々とした冷たさは、翔と透に異常な嫌悪感をもたらした。
「かわいい子……とても短いあいだだったけれど、よい退屈しのぎだったわよ? あのあいだのことをおぼえていないなんて残念ね? とても素晴らしい遊びを教えてあげたのに? ダークエルフたちはおまえに妙技のすべてを教えなかったかしら? 本当に覚えていないの? わたくしのいけにえのひとりひとりののど元にナイフを当てなかったのかしら? 血まみれのまま、わたくしのかわいい少年たちと戯れなかったかしら? とてもみだらで愛くるしかったのに……」
翔は顔が赤く染まるにつれ、静かな怒りが心に募っていくのを感じた。
沙那子は真っ青になり、血の気の失せた唇を震わせる。
「嘘! 嘘だもんッ! あたし、そんなことしてないよ! ね、透なら信じてくれるよね? 八雲くん?」
透は目を細め、必死になってわめく沙那子の形相を伺った。嘘だとは思えないほど真に迫っている。
「信じる……」
「そうだよ! 六道さんがそんなこと、するわけないよ! クソー、おまえなんか死んじまえ!」
翔は背中の剣を取り、両手にもって段上に駆け上がった。
イシュカは身じろぎもせず、翔の姿に目をみはった。その瞳に恐怖がにじんでいた。奇妙に唇を歪め、舌足らずなしわがれた声で叫んだ。
「やめてッ! 八雲くん!!」
翔は寸前で剣をとめ、いぶかしげにイシュカをにらみつけた。
透もはっきりとイシュカの叫びを聞いていた。
イシュカは蒼白のまま、突っ立っている。歪めることもできない顔に表情はなかった。
「どうしてためらってるの!? なんでイシュカを殺さないの!?」
沙那子は怒りに震える声で叫んだ。
「八雲くん、殺してよ! あんなこと言わせちゃってていいの!?」
翔は悲しげに沙那子を振り向いた。そして、首を振った。
「なんで……なんで六道さんの体をみんなしてもてあそぶんだよ? ぼくは……ぼくはそれが許せない! ホントにそれが許せないよ!」
翔は怒りに任せて剣を振りかぶった。ガインと壁にぶちあたり、石材がこっぱみじんに吹き飛んだ。
翔のほうが驚いて、崩れた壁を見つめた。
塗り込められた壁の内側には白い大理石の美しい男性像があった。もの思わしげな瞳を伏せ、長い乱れた髪を片手で握り締めている。もう片方の手はみぞおちの高さで苦しげに握り締められている。どちらかというと苦悩に身をよじっている姿。
ホァロウがやっと口を開いた。
「金の神のことをまだ忘れられないのかい? イシュカ」
「介入は一切しないのではなかったのですか? 朱の神」
ふいに沙那子がホァロウに言いはなった。あっけに取られる少年の横を通り過ぎ、イシュカの横に立ち、「なぜ、物事はうまく運ばないのでしょうか? わたくしだってこの娘をもてあそびたくはなかったのです」と言い、こわばったまま直立するイシュカの肩を軽く抱き締めた。
「父上……ご心配はいりません。この娘にはなにもしておりません。どうぞ、お怒りを静められてください」
翔はじっとイシュカ・サナコをにらみつけたまま、叫んだ。
「じゃあ、なんで六道さんのかっこうしてるんだよ!」
「父上がやめろと言われるならば、やめます」
イシュカはやけに従順に沙那子と自分を入れ替え、もとに戻した。
戻ったとたん、沙那子はイシュカを力強く突き飛ばし、翔の背後に回り込んだ。
イシュカは少しばかり眉をしかめた。
「沙那子、わたくしのことキライになったのね? 無理もないわ……あなたは本当にわたくしのこと、お友達だと思ってくれてたんですものね?」
「そうよ! 本当に思ってたんだからね! なんで……? あれ、ぜんぶ、嘘だったの?」
「本当のことよ、だって……嘘をついたとしても、結局あなたにしゃべる機会を与えようとは思ってなかったんですもの」
沙那子の目に涙があふれてきた。
「イシュカちゃんのバカァ! バカバカバカバカ! 言ってくれてたら、もっとよくなるよう、あたしだって協力してたもん! なんで信じてくれなかったんただよー!!」
イシュカは当惑した。
「なぜ? あなたを囮にした交接による力の継承が失敗したら、わたくしは父上であるその少年とあなたを残して、ゆっくりと継承を受けるつもりだったのです。それでも失敗してしまったらとしたら、少年のうちのどちらかにイシュカであるあなたを殺させ、わたくしはあなたのまま、あなたがたの世界へ逃げるつもりだったのです。それなのに、やはり失敗してしまった」
イシュカはじっと翔を見つめる。瞳の奥になんとも言えない感情がひそんでいるように思えた。
「父上はまだわたくしのことを憎んでおられるのですか? まだわたくしは許してもらえないのですか? それならばこのまま金の神になどならないほうがよいかも知れません」
翔の腕からしだいに力が抜けていく。さっきまでの冷淡な態度が、いまのイシュカにはまるでなかった。彼女は美しく、近寄りがたく、孤高に立っていた。この女にこんな目をさせる金の神はどんなヤツだったのか? 翔は複雑な思いに駆られた。
「金の神になりたくないのか? 金の神になりたくてこんなことしたんだろうが?」
透の声にイシュカは視線を泳がせ、自分の真横にたたずむ像にとめた。
「金の神は狂気。金の神になれば、正気などなくなってしまうのです。そして、この塔に閉じ込められるのです。たとえ何千年たとうと、果てもなく、愛するものを得るまでは死ぬこともないのです。父上のようにひとりの人間を慕って、千年近く正気を保っていられるのは珍しいのです」
イシュカは微笑み、翔のほうへ歩み寄る。そっとその手を取った。
「このまま見捨てていかれても、半人半神のわたくしは無力なまま残された百年を生き延びるだけ。それならば、わたくしは父上の手で殺されたい」
突然、沙那子がイシュカの手を握り締めた。そして、フルフルと頭を振った。ボロボロ涙をこぼしながら言った。
「死んじゃったらおしまいだよ、イシュカちゃん……死んじゃったら、何にもなくなっちゃうよ」
イシュカは不思議そうに沙那子を見つめた。
「なぜ、泣くの? 沙那子、あなたは生きてるじゃないの」
「なんでこんなときに冗談なんか言えるの? イシュカちゃん! 死んでほしくないから泣いてるんじゃないのよ!」
翔は泣きわめく沙那子を見てから、彼女を心配そうに眺めているイシュカへと視線を移した。自分は人殺しなんてできない。沙那子が見ているまえでならなおさらだった。イシュカは金の神になりたくない。しかも中途半端に長生きすることもいやがっている。彼女は金の神の気まぐれから神様みたいな存在にされたのだ。
「じゃ、ぼく、イシュカを人間に戻すよ」
「ホント!?」
沙那子は喜々として翔を見た。
イシュカは驚いて、翔をまじまじと見つめた。そして、おびえたように、訴えた。
「いいえ……わたくしは死にたい……」
「そんなに悲観的にならなくてもいいじゃない、生きてたほうがきっといいことあると思うよ?」
翔は逃げ腰のイシュカの手をつかみ、あらがうヒマも与えず、ククッと力んだ。
イシュカは弱々しく翔の指をもぎはなそうとしていたが、そのときにはすべてが終わっていた。イシュカは自分の体から力が引き潮のようにどこかへ引き上げていくのを感じた。ガクリとひざまずき、翔を見上げた。
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