第19話
急な下り坂を飛ぶように走り続け、もはや足元のポンポンさえも、透の速さについてこれなかった。
緑の光が、ホタルのように透を扇動していく。スピードアイススケートのリングの軌跡のように、緑のリリックの残像が暗闇に一本の線となってのびていく。
すでにジェヌヴには自分の存在を知られてしまったに違いない。自分の足だけが頼りだった。
ふいにリリックの緑の体が消えたかと思うと、透は自分の体が急降下していくのを感じた。
「ギャアァァ!!」
透は絶叫マシーンが大嫌いだった。
素晴らしくすさまじい物音を立てて、透の強靭な足の裏がなにかを突き破った。
わけもわからず毛皮のうえに転げ落ちると、まず目に入ったのが、翔とジェヌヴの濡れ場だった。
一瞬、あぜん。
しかし、すぐに気を取り直す。確かにドキリとする。翔とふたりで自分の部屋で隠れて見たヌード集にこんな体位があったような? で、素朴な疑問をぶつけてみた。
「もー、やられたのか?」
「透!」
翔は自分の目に涙があふれるのがわかった。金縛りにさえあっていなければ、ジェヌヴの抱擁も蹴り倒して、透にすがりついただろう。
「あのクソイヌもどきがァ……ましな道も選べねぇのか。おらっ! ジェヌヴはおまえか! 翔からどけっ!」
透は気を取り直して立ち上がった。運よくまだもっていた剣の先を、脅すようにジェヌヴの鼻先にちらつかせた。
ジェヌヴは寛大なため息をつくと、剣に向かって指を振った。
しかし、何事も起こらなかった。
「透! ぼくの首からこれはずして!」
透は翔の首元に目をやった。銀の鎖がかかっている。
「はいはいはい、ちょっとよろしいですか! なに、これか? しようがないねぇ」
剣先に引っかけ、ブツリと引きちぎった。
翔は素早くジェヌヴの体のしたからはい出ると、透の腕をつかんでジェヌヴから退き、友の背中にしがみついた。
ジェヌヴは思案げにふたりを見つめた。彼に与えられていたチャンスの一つが消えた。
「透、やっぱきてくれたんだね!」
「おう! あたぼーよ、こちとら江戸っ子でい!」
「九州男児じゃないの?」
「ご愛嬌」
そして、透は剣をジェヌヴに振りかざした。
「翔になにしやがったか知らねぇけどなぁ、その暑苦しいツラでうちのかわいいボーヤにちょっかい出さねぇでくれますか?」
ジェヌヴは落ち着いた目をひたと透に向け、立ち上がる。
「ちっ、なんで俺より高い連中ばっかり出るんだよ?」
透は劇的な身振りでショックを表現した。
「ショウ……というのか?」
ジェヌヴは冷たい瞳を、透の背後で自分をにらみつけている少年に据えた。
翔は身をこわばらせた。ジェヌヴは少なくとも欲を隠しもっている人間には、絶大な威力をもつ。抵抗する力を奪ってしまうのだ。透はじぶんのように負けてしまうだろうか? 透は自分にさえも黙っている秘密をもっているのだろうか……?
「おまえの腰ぎんちゃくは騒々しいな?」
「な!? なんだって!? この色ボケジジィが! なんで俺が腰ぎんちゃくなんだよ!」
ジェヌヴは涼しい顔のまま、視線は翔のうえにあった。
「ところで、さきほどの約束はどうするのだ?」
翔の背に戦慄が走った。背後からでは見えない透の表情が気になった。彼にまだ自分の心を知られたくなかった。
「約束なんて、してないよ! 全部、でたらめだ! おまえが勝手に言ったことじゃないか!」
ジェヌヴは目を細めた。
「では、おまえの名で無理に誓約を交わしてもいいのだ、ショウ!」
ジェヌヴの指が空を切り裂き、翔の無意識に服従の印を刻み付けた。傍から見ると、何が起こったのか、まったくわからなかった。
翔の体がビクリと震えた。透にしがみついていた指から力が抜け、意志とは反対にジェヌヴのほうへ差しのばされた。
「どうした!?」
透は翔の様子に驚いた。
「わからない!? 勝手に体が!」
自分の体がスタスタとジェヌヴに向かっていくのを、自分では止められないのだ。背後から、透がガッシリと翔を捕らえた。そして、力ずくでジェヌヴから遠ざけた。
「そして、そちらのご友人、おまえにもどうやら利用価値がありそうだな。今の私には力が必要だ。イシュカのような小娘に金の神の力を与えてやるなど、言語道断。空位を埋めるのはこの私だ……さぁ、来い! トオル!」
勝ち誇った笑みを浮かべたジェヌヴは叫んだ。ふたつめの勝算のチャンスがいま使われた。まだ大丈夫だ。運命は自分に味方している。
しかし、なにも起こらなかった。透は懸命に翔を押さえ付け、ジェヌヴを相変わらずにらみつけている。
ジェヌヴの黒檀の顔色が、青黒くくすんだ。
「ノッポは頭に血が回らねぇみたいだな? なーにが」
と、親指と人差し指を広げてチョキを作り、そのまたにあごを挟むと、出来る限り低い声で、
「空位を埋めるのはこの私、だよっ!」
ウゲーという顔をしてみせ、言った。
「気取るな、このバカ。気色悪くて鳥肌が立ったじゃねぇか! 見てみろ、翔」
翔は自分を抱きしめている透の腕を見て、「あ、ホント」とつぶやいた。
「よぉ、ジェヌヴさんよぉ、あんた、ちょっと調子こいてるのと違うか? お母さんにおしりペンペンしてもらいなさい」
その言葉を聞いたジェヌヴの瞳がタイガーアイのように燃えている。
「あやつ……このガキに何をしたのだ……」
翔の足はまだバタバタともがき続けていた。翔は透よりも少し小柄なだけで、柔らかいとか小さいとかいい匂いとかひ弱とか、そんなものとは縁遠かったが、透は自分の腕のなかに半分身をゆだねている翔の存在に満足していた。
守っているのだという満足感。そして、妙な感覚。
「翔、赤毛のバカ、おまえになにかしたのか?」
翔は体では抵抗していたが、心は完全に信頼しきって、穏やかな目で透の目を真っすぐに覗き込んだ。透はその瞳に少しばかりうろたえた。
「うん、髪の毛をつけてくれたんだ」
と、ついていたほうの指を見せた。
「もう取られたけど」
こんな事態だったが、駆けつけてきたときの翔とジェヌヴの構図が脳裏に浮かんだ。透はニンマリと笑った。
「で、こいつにいいようにされてたと」
「なにもされてないよ!」
恐ろしく大きな声で、翔は否定した。思い出すだけで身震いがする。男と男が、なんて変態の極みだ。
「俺がなんともないのは、この剣のせいなんだろうな。おまえ、剣はどうしたんだ」
はじめて気付いたように翔も自分の手元とそこら辺りを見回した。
「落としたみたい……」
「マヌケ」
透はあきれてつぶやき、自分の剣を片手で持ち上げ、ジェヌヴに剣先を向けた。
剣は青白い光を帯び、熱せられたように湯気をはなっている。
「なんか、効用ありそうだなぁ」
「温泉じゃないんだから、効用はないだろ」
「効果、効果ね。ちょっとつついてみようか?」
透は明るく言いはなつと、うりうりと剣先を振った。
ジェヌヴは口元を引き締め、一歩退いた。チャンスは使い果たされたのか。使い残されたチャンスはないかと、注意深く様子を探った。透と翔が調子に乗って、あと二、三歩で自分の間合いに入ってくる。そして、その足が差し込まれたとき、ジェヌヴはニヤリと口許を歪めた。翔に向けて、素早くその鋭い爪をのばした。
気を緩めていた分、ふたりの恐怖は突然のものだった。もうだめだと息を飲んだせつな……!
ウキュキュキュー
獣毛の間に、何十匹というカプリコーンがなだれ込み、組織だって列を組んだ背中に、翔が回廊に落としてきたはずの剣を抱えていた。カプリコーンたちによって、つかがしらを差し向けられ、翔は言うことをきく手でしっかりと握り締めた。自分のなかで音を立てて、呪縛が吹き飛んだ。手足に自分の力がみなぎり、両手でそれを確かめるように剣をつかんだ。
いまや、透も翔も、だれに教えられるわけでもなく、自分のなすべきことがわかった。
ジェヌヴは薄く口許に笑みを漏らし、左手を降ろした。
「運命は味方してくれなかったとみえる……」
力なくつぶやいた。
次の瞬間、二本の剣がジェヌヴの胸を貫いた。ジェヌヴの背に交差した剣先がきらめく。血は吹き出さず、ジェヌヴの体は剣を残して消えてしまった。
二本の剣は支えてくれるものをなくして、空中から落ちた。
ふたりは息を詰め、ジェヌヴの消えた一か所を見つめ続け、やっと深呼吸した。
「死んだのかな……?」
翔が不安げにつぶやいた。
「……そーゆーことにしとこう」
透と翔は顔を見合わせ、ホッとすると同時に勝利のうま味を顔じゅうに浮かべ、笑いあった。
何もかも元どおりになる。それはもう目前に迫っているのだという一抹の期待がふたりの胸をよぎった。
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