第28話
「もう見たころかなぁ」
沙那子はクッションをひざに抱き、そろそろ食べ飽きてきた卵白のクッキーをつまんだ。味は沙那子の大好きなブランドのものと同じだが、なにかか物足りなかった。
イシュカはひとくちふたくちつまむだけで、あとは沙那子にすすめてばかり。甘いものはきらいなの? と訊くと、食べることに興味がないのだとか。一日の大半を食べ飽きて過ごしたいと思っている沙那子にとっては、イシュカのその思いは謎だった。
考えつくかぎりのあらゆるタルトを食べ尽くし、見るのもイヤになっていた。ケーキとパイも同様。残されているのは和菓子くらいで、沙那子は口直しにらくがんでも作らせようと朝から考えていた。
「でも和菓子には日本茶」
フーッとため息を漏らす。そして、日本茶よりも抹茶。幽玄な風景を娯しみながら茶をすする。日本の心だなぁ……
沙那子は要するに待ち飽きていた。
「そうね……もうそろそろ来るのじゃないかしら?」
イシュカは別に待ちくたびれているわけでもないらしい。時間のつぶしかたが沙那子よりも上手なのだろう。沙那子は時間にあかせてイシュカをずっと観察してきた。
彼女はまさにお人形といった風貌をしている。何度心のなかで「うひゃー」と叫んだことか。天然のブロンド、それも生まれたてのヒヨコのような色で、羽毛のように柔らかそうな髪の毛。
肌にはそばかすひとつない。アメリカ人ぽいピギーピンクでもなく、北欧人のような赤みのない青白い皮膚。それなのに、眉毛はちゃんと存在していて、外国人にはよくいるような、あるくせに見えなくてマヌケヅラに見える、という代物じゃない。
どうやったらこんなにうまく作れるの? と聞きたくなるような鼻筋と唇。ほんのりと紅をさして、という理想的な唇をしている。チェリーリップというか、沙那子にとってはうらやましいかぎりのその形。あれに比べられたら、あたしのなんてタコ唇よね。嫉妬できるレベルの問題ではない。
まぶたは浅いふたえでなくて、少しばかり広い。だからなんとなく官能的に見える。それでいて眠そうなあつぼったいまぶたに見えないのは、その瞳の色の鋭さのせいだろう。黒い瞳孔の周囲をレモン色、薄いマスカット色の虹彩が二重に取り巻いている。パッと見は黄緑。でもよく見てみると、まるで猫の瞳を覗いているよう。
あたしがこんなふうに生まれていたら、いまごろどんな気分だったかしら……と、思わずありもしない人生を空想してしまう。わりといい目をみる人生を考える。いまよりきっといい人生に違いない。
それなのに、イシュカは不幸せそうだ。
彼女が語るには、世が世なら自分は農夫の娘で、運が悪ければ飢え死に、さらに悪ければ売春婦だったらしい。
それを聞いたとき、淡々と語るイシュカに沙那子はショックを受けたし、さらなるカルチャーショックも受けた。かわいそうどころの話ではない。
転落しすぎよ! あたしだったら、世が世でもサラリーマンの娘だろうし、運が悪くてもサラリーマンの娘、さらに悪かったらちょっとビンボなサラリーマンの娘だと思う。
しかもイシュカにとってはそっちの人生もこっちの人生も同じらしかった。いまはまたいまのこと。彼女はそう言った。
あきらめてどうすんのよー! あー、もー、肩をガクガクゆらしたいっ!
とっさに手を出しかけるが、イシュカのほそーい肩を見ると、どうも乱暴に扱えない。イシュカがもっと自嘲的だったら、もっと自虐的だったら、もっと自分をかわいそがってたら、自分だってこんなふうに彼女を見ていなかったに違いない。
彼女は何に関しても無感動で無関心なところがある。確かに彼女は笑う。けれど、心から、じゃない。どこかよそよそしい。すごく強い好奇心を無意識に押し殺しているような、そんな気がするので、沙那子も白けた気分にはならなかった。
あたしはけっこうイシュカちゃんと話をしたから、なんとなくあのコのことがわかる。だけど、なんにも知らない人があのコを見たら、スゲー高慢チキな女だと思うだろーなぁ……イシュカちゃん、ウルウル。
そう涙するたびに、沙那子はイシュカを抱き締めて、頭をナデナデしてしまう。毎度毎度のことながら、イシュカは照れているのか、パッと沙那子から離れてしまうけれど。
イシュカちゃんたら、テレ屋さんなんだから! と思うのは沙那子の勝手なひとりがてんだった。
「沙那子、もうすぐみなさんいらっしゃるわ。そろそろ準備をはじめましょう」
沙那子が考えふけっているうちに時間が経ってしまったのだろう、イシュカの声にはっと我に返った。
「どうすればいいの?」
沙那子はかつらや化粧を用意してくれるものと思っていた。しかし、イシュカはそんな準備のことなど失念してしまっているらしく、沙那子の傍らに寄り添い、その手をとる。
「あなたはえらそうに座っていて。わたくしが話を進めてあげるから。最後に言っておきたいことがあるの」
沙那子はイシュカの目を見つめる。その目は嘘をついていない。
「あなたはわたくしの最初で最後のお友達だわ……だから、とても悲しいの……」
聞き返そうとした。沙那子は少しばかりめまいを感じ、イシュカの手を握り締めた。
「!」
声が出ない。
そして、目の前にはうっすらと微笑む自分の顔があった。
「お願い、気絶なんてしないでね? 気絶したイシュカなんて、威厳がないもの。わたくしはうまくあなたを演じこなすつもりよ? そうでないと父上は戻ってきてくれないし、わたくしは死んでしまう。声はいつか出るようにしてあげるから。わたくしは自分の顔が嫌いなの、だからちょうどいいでしょ? あなたはわたくしの顔を気に入っているようだったし」
それだけ言うと、イシュカ・サナコはさっと立ち上がり、沙那子・イシュカの周囲の敷布とクッションをきれいに整えた。
彼女はゆっくりと段下に降りていき、沙那子・イシュカを振り返った。そして、本当の沙那子よりも魅力的な笑顔を浮かべた。
沙那子・イシュカは呆然と自分の姿に目をみはった。
一体何が起こったのか。一体イシュカは何を言いたいのか。一体自分は何をされたのか。沙那子・イシュカにはまったくわけがわからなかった。
イシュカ・サナコが「ほら」とホールの中央を指さし、その手を降ろした。
それは音のない爆発だった。
視界がぶれ、足元の不安定感に、透は地震が起きたのだと思い間違えた。しかし、すぐにズンと足の裏に衝撃が加わり、目の前に深く青いスペースが広がった。
翔はそこがさきほどまでいた草原でないと見極めると、ささっと辺りを探り、すぐに沙那子の姿に気付いた。
「六道さん!」
透にはもう少し状況をつかむだけの時間が必要だった。ホァロウに軽く肩をたたかれ、透は翔を目で追った。
翔は沙那子を見つけると、すぐに彼女のほうへ駆け寄っていった。
沙那子はうれしげに翔を見つめていたが、スイと透のほうへ駆け出した。
「透! やっぱりきてくれたのね! あたし、待ちくたびれちゃったのよ」
透はふいに沙那子に違和感を感じた。彼女をよけると、無視されて落ち込んでいる翔に呼びかけた。透はうむも言わせず、翔を段上のイシュカのまえに連れていった。
沙那子は透の思いがけない冷たさに戸惑い、じっとイシュカを見上げた。
「イシュカ! こいつがあんたが連れてこいって言ってた金の神だ!」
翔をグイと正面にこづき出し、透はどなった。
イシュカはクッションから中腰になって、段下の少年を見つめる。その顔が「嘘だ」と歪められた。
「信じねぇのかよ? おまえが沙那子と取り替えって言ったから、つれてきたんだろーが」
イシュカはその不安な瞳を沙那子に向けた。
「イシュカちゃんは信じてないんじゃなくて、本当に金の神かってうたぐってるんだって」
沙那子は段上にのぼり、イシュカを支えた。
そのふたりの親しげな様子に翔はショックを受けた。透は一笑にふした。
「おまえの演技過剰は日増しにひどくなるんだな」
「六道さん、ひどい目にあってたんじゃなかったの?」
翔はショックに声を震わせた。
沙那子はイシュカを抱き締めた、
「ヘヘヘー、ホントは仲良しなんだよ。どんな顔するか、ふたりで楽しみにしてたんだ。ね、イシュカちゃん?」
イシュカはこくんとうなずき、透に非難の視線を注いだ。なにか言いたげに小さなこぶしを振り上げた。
それをすかさず沙那子はとめた。
「早く金の神である証拠を見せなさいって」
イシュカはさっと沙那子を見つめて、ため息をつくと翔に目を移した。
翔は不安げな目を回りに向けたが、だれも助け舟を出してくれないと悟ると、あきらめてイシュカに言った。
「なにをすればいいの?」
「一番わかりやすい方法があるじゃない」
沙那子はいつも通りしゃしゃり出て、イシュカの代わりにしゃべり出した。
透は世話好きな彼女の態度を見て、鼻白む。だれの影響なのか、沙那子のおせっかいやきがますますパワーアップしたようだ。
「金の神になったら?」
それを聞いて翔はひるんだ。
「本当にそれしか方法がないのか?」
透はイシュカをにらみつけて言った。翔は自分が金の神になったらどうなってしまうのか知らない。沙那子がそれを知っているわけがなかった。透はムカムカと腹が立ってきた。
透の言葉にイシュカは小娘じみたしぐさで沙那子にしがみついた。すると沙那子は「え?」という顔をしてイシュカに耳を寄せ、コソコソとないしょ話をはじめた。唐突に沙那子が透に目をやり、言った。
「だってそれ以外だったら透にだってできるんでしょ? イシュカちゃんは間違いたくないんだって。間違ったら、世界が滅びちゃうんでしょ?」
突然、イシュカが立ち上がり、うずくまる沙那子を見据えた。その表情は驚愕に染まり、混乱に変わり、いらだちにしかめられた。
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