挿話 牧野の戦い


 数日来の激しい雨の勢いが深夜になってようやく弱まり、朝歌の鹿台の大宮殿にしずしずと降り注いでいる。


 点々と明かりの灯る回廊で、帝辛は眉をしかめて歩きながら臣下の報告を聞いていた。


 満を持して永年の宿願であった人方じんほうへの本格的侵攻。精鋭軍を東方遠征に派遣したその隙を突いて、西から周が攻めてきた。治安維持のための最低限の兵を残して集中させたのがあだとなってしまったのだ。


 2年前では三門峡で呆気あっけなく撤退していた周軍に、まさか三門峡が突破されるとは思いもしなかった。

 それもそのはずである。西方からアッシリア人のコーセンを任命して防衛に当たらせ、再侵攻にそなえて要塞といえるほどに強固に作りかえていたのだから。


 少なくない打撃を周に与えたようではあるが、すでに牧野近郊にまで進軍しているという。商ののど元にまで周の矛先が突きつけられたのだ。


 今からでは間に合わないと思いつつも、東方遠征軍を呼び戻す急使を発し、その到着までの間は自らが指揮を執って戦わねばならない。

 幸いにも治安維持のための軍隊は残してあるので、それを核に、手許に残した奴隷や、できうる限りの民草を歩兵として集めさせた。その結果、4万もの兵士を動員することができ、朝歌の南に集結をさせているところだった。


 対する周の軍勢は三門峡突破の時点で1万ほどと聞いていたが、偵察の兵が帰ってくる度に数が増えており、全体の数がわからない状態だ。

 帝辛は、正確な情報を持って帰らない偵察兵に苛つきながらも、1万の兵にいくらか増えたとしてもせいぜいが2万もいないと予測した。せいぜいが、1万5千から7千といったところだろう。


 仮に大商と三門峡間の豪族が向こうの軍勢に合流したとしても、所詮はその程度だ。戦は数がものをいう。倍する4万の軍勢で一気に蹂躙じゅうりんしてしまえばよいだけの話だ。


 この場に集まっている将軍は心許ない奴らばかりだが、何といってもここには自分がいる。周などという辺国の弱兵など敵ではない。


 かたわらに控えている妲己をちらりと見ると、彼女はそっと微笑み返してくれた。彼女は他の愚民どもとは違う。自分にどこまでも付いてきてくれて、補佐をしてくれる最高のパートナーだ。

「ふん。……もう細かい報告などよい。明日は奴らを殲滅せんめつし、勝利の美酒を2人で味わおうぞ」

 自分の言葉に「はっ」と返事をする武将を見ながら、さっさと妲己を連れてその場を立ち去った。



 ――とうとう決戦の日が来た。

 この日は甲子かっしの日。命が改まり、姓がわるとされる日。


 草原に天幕がいくつも並んでいる。前日まで雨が続いていたが、今は綺麗な青空が広がっている。

 まだ日が昇って間もない白い空。牧野の平原で同盟軍は商と対峙たいじしていた。


 薫風にひるがえっている旗を見れば、そこに集まったのは周のほか、よう国、ぼう国、国、ほう国、ぼく国、しょく国、きょう国の各国の軍隊であるのがわかる。

 後に牧誓八国と呼ばれる国々だが、の国の姿はここにはない。なぜならば、東方で隣国の人方じんほうとともに、すでに商と戦っているからだ。


 太公望は整列している軍勢を眺めていた。

 国ごとに統一された鎧。矛や槍を持った兵士たち。こうしてみると国際色豊かな軍勢であることがよくわかる。


 ここに来るまで多くの事があった。あの三門峡関を超えるのに多くの仲間を失った。黄飛虎将軍とその息子たち、金吒、そのほか最前線で戦ってくれた者たち。彼らは新しい国のためのいしずえになってくれたのだ。



 今まさに同盟軍に演説をしようとしている姫発きはつの本当の望み。それは復讐だった。


 父を苦しめ、兄を殺した帝辛を打ち滅ぼす。ただそれだけのために、彼はここまで来た。大義のためではなく私怨のために。しかも、その真相を知るのは太公望だけだ。


 おそらく発も本当はわかっているのだろう。私怨のためではなく大義のために戦うべきであることを。けれども感情がそれを許さない。だから、せめて戦いの後はできるだけ早く息子の誦に代を替わりたいと考えている。太公望はそう見ていた。

 もっとも、それが許されるかどうかはまた別の問題ではあるが。


「ここに微国はいないが、彼らはすでに戦いを始めている。同盟国諸君、および我が友邦の諸侯に感謝しよう」

 一段高く設えた台から、発の演説が始まった。


「さあ、ここに集まりしすべての人々よ。いよいよ、決戦となろう。そなたたちのほこを掲げ、盾を並べよ!」


 朝の澄んだ空気に、発のりんとした声が響きわたり、人々が静かに聞き入っている。


「私は宣誓する!

 いにしえの人はかくのごとく言った。夫人が政治に口出しをすると国が滅ぶと。

 今、商の王・帝辛は、夫人の言を採用し、先祖伝来の祭祀をうち捨てて国家の大事を行わず、罪なき賢臣を誅伐ちゅうばつして佞臣ねいしんを重用し、民草を徴発ちょうはつして鹿台ろくだいを造り国を乱れさせた。

 よって我、太子・発は諸君とともに天の罰をの者に知らしめん!」


 発の宣言を聞いた一同が「おおおっ!」といらえを返すと、発は拳を天に突き上げ、真っ直ぐに北の方角に振り下ろして指をさした。商の軍、帝辛の軍がいる方向だ。


「戦いにおいては隊列を整えて、全軍同心となれ、努めよ! 

 投降する者は殺さず、我が周に仕えさせよ! おくして退く者には刑戮けいりくが与えられるであろう。 勇猛ゆうもうに戦え! 天命を示せ!」

「おおおっ!」

「いざ、出陣だ!」


 その宣言に、応える兵士の声はまるで地響きのように大地を揺らし、太鼓が勇ましく打ち鳴らされる。

 周と同盟軍は、熱気に包まれたままに進軍を開始した。



◇◇◇◇

「ば、馬鹿な!」

 自らの戦車に乗っていた帝辛が驚愕きょうがくの声を挙げている。


「なぜ他国の軍までが奴らに合流している!」

 周の赤い旗。その左右には、南に離れたところにあるはずの蜀をはじめとする6つの国々の旗が風にひるがえっていた。


 その数、見たところではこちらとほぼ同等か、むしろ商軍の方がやや少ないか。

 それに加え、こちらは雑兵ばかりだ。

「まずい。……これは」


 焦りにおもわず拳を強く握りしめた。そこへさらに凶報が飛び込んできた。

「なに! が裏切っただと!」

 その形相ぎょうそうに思わず報告に来た側近の男が後ずさる。

「はっ!」


 孟は大商の近くの土地を治めていた側近の一族だ。三軍の1つ左軍を指揮していたはずだが……。周と内通でもしていたのか、味方であるはずの中央軍に突撃を仕掛けてきたという。

 ここは後陣だが、もはや軍勢と立て直すどころの話ではない。


 帝辛は、急に自らの足元がボロボロと崩れ落ちていくような幻想を覚えた。


「……退却だ」


 小さく漏れた声に、側近は聞き取れなかったようで、

「は?」と聞き返す。


 帝辛はがばっとその側近の胸ぐらをつかむと、

「退却だ! 急げ!」

と怒鳴りつけて放り投げた。

 そのまま倒れ込んだ男を一顧だにせずに、帝辛は自らの戦車の向きを変え、1人鹿台に向かって走らせた。



 戦場では、迫り来る周と同盟軍に対し、にわかにかき集められた商軍の兵たちは手にした武器を投げ捨て、次々に降伏していた。

 はじめはその様子に驚いていた周や同盟軍の兵士たちであったが、降伏したものは放置して突き進む。

 あたかも草原の草を掻き分けて進むように、同盟軍はただ帝辛のいる後陣目指して進むだけ。戦闘などなにもなかった。

 もはや誰の目にも商の滅亡が明らかであった。ここに勝敗は決したのである。



◇◇◇◇

 日没を迎え、まさに夕闇が迫ろうとしている頃、鹿台に帝辛が駆け込んできた。すぐさま、入り口の扉を閉ざす。


 突然帰還した帝辛に驚いた女官や官僚たちには目もくれず、帝辛は妲己を探した。

「ええい! 妲己はどこだ!」


 まるで冥府の鬼に取り憑かれているような帝辛の表情に、誰もが怖がって近づこうとはしない。

 さらにそこへ、周軍がやってくるとの報せが届き、鹿台の中はあっという間にパニックに陥った。


 急いで逃げようとする者。商を見捨てて財宝を集めようとする者。どうして良いかわからずに部屋に戻ろうとする者。

 混乱の最中を帝辛は、邪魔になる者は男女関係なく、遠慮無く切り捨てながら回廊を進んでいった。


 あわてて妲己がやってくると、帝辛はその腕を取って、ひたすら上を目指した。


「陛下。いかがなされましたか」

 問いかける妲己に、帝辛は、

「もはや終わりだ。商は滅びる」

と短く告げる。

 その一言ですべてを悟った妲己は息を呑んだ。


 帝辛はぐいっと妲己を引き寄せると、鬼気迫る表情で、

「お主はともに来てくれるか?」

と問いかける。妲己はにっこりと微笑んだ。

「もちろんでございます。陛下。私はいずこなりとも貴方様とともに」


 どこに? とはきかない。わかっているから。


 その答えに満足した帝辛は、自らの居室に入ると、歴代の王たちが集めた宝石や衣裳を取り出して、妲己とともにそれらを身にまとう。

 互いに見つめ合い、まるで恋人同士がデートをしているときのように笑った。


 帝辛は、

「ではゆこうぞ」

と言うと、壁に掛けていたランプをたたき落とし、部屋に火を放つ。


 廊下を2人で急ぎながら、壁に掛かっているランプを次々にたたき落とす。楽しそうに。まるで戯れるように笑いながら。

 ランプの火は床の敷物をもやし、黒々とした煙をのぼらせて、さらに火を強めていく。やがて壁のタペストリーにも燃え広がっていった。


 やがて2人は、天女を迎えるための宴の間に到着した。

 そのまま広間をつっきって正面の展望台に向かう。当然、ここでもランプを倒して行く。


 最後に残ったランプを手に、展望台に出た帝辛と妲己。

 眼下には夕闇に包まれようとしている中国の大地が広がっていた。そして松明を手に、わらわらと蜜と見つけた蟻のように押し寄せる周と同盟軍の姿も見えた。


「ふん! 虫けらのような奴らよ」

「ふふ。その通りでございますね。ここからだとよく見えますわ」

「だが、口惜しいことにその虫けらどもに負けた。――妲己よ。覚えておるか?」

「ここが出来たときのお話でございますね」

「ああ。天女がいつ舞い降りてもいいように。不老不死の薬を得て、そなたといつまでも過ごしたいと言った」

「あの時は本当に胸が高鳴りましたわ」


 妲己はそう言うと微笑みながら、震える右手で自らの胸もとを押さえた。

 帝辛は、苦笑いを浮かべる。


「天女はこなかった。……故に、こちらから天に参ろうではないか」

「はい。お供いたします」

 躊躇ちゅうちょなく答える妲己に、帝辛は微笑んだ。


「――お前は本当にいい女だ」

「ふふふ。ずっとお慕い申し上げておりますわ」

「妲己よ。私もそなたを愛しているぞ」


 そう告げると、帝辛は妲己を抱き寄せてその唇を奪った。

 目を閉じていつまでも抱き合う2人。帝辛がランプを自らの足元に叩きつけた。

 たちまちに火が広がっていく。


 燃えさかる炎は、やがて口づけをつづける2人を包んでいった。


 これもまた1つの愛の形。2人を焼く炎は、暗中のかがり火のように、激しく、そして狂おしく燃えていく。

 その煙は、たしかに天に向かってのぼっていった――。



 紂、走りてかえり、鹿台ろくだいの上に登り、その珠玉をこうむて、みずから火に焼けて死す。

(『史記』周本紀)

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