31 戦の跡にて
黄飛虎将軍が戦死した。
その知らせを聞いた俺と春香は、また一人、知り合いを失ったやるせない気持ちになった。
あの雪山の村から周に行くまで、一緒に行動した時のことが思い出される。
出逢った時には剣を突きつけられたけれど、武人らしく男気のある人だった。
粗野な性格ではなくて、どちらかといえば理性的。イメージで言えば、勇敢なエリート上司といったところか。
俺たちがここ三門峡に駆けつける前に、3人の息子が戦死してしまった。それも2人は目の前で。
助けたくても助けられない。殺されるのを見ているしかできない。……きっとがく然としたことだろう。怒りにその身を震わせたことだろう。そして、悲しみに涙を流したことだろう。
しかし、聞くところによると軍議の際に、こう言い放ったという。
――息子は立派に周の旗のもと、命尽きるまで戦った。天命のため、平和な時代のための礎となった。……父として誇りに思う。
丞相殿。私は息子に恥じぬ戦いをせねばならぬ。この命、存分に使ってくれ!
子牙くんは回復してからも、有効な策を講じることができない自分を責めていたという。
黄飛虎殿の子どもたち、金吒殿、そして多くの兵を死なせてしまった。その責任を一身に感じていた。それが、黄飛虎殿の一言に救われたと言っていた。
つづく那吒殿も、兄を殺されたにもかかわらず、黄飛虎殿と同じことを言い、命の限り戦い抜くことを誓った。その2人の姿に、武将たちの士気もあがったという。
ああ。
戦場の常とはいえ、もう二度とその声を聞くことができないと思うと、どこか寂しいと思う自分がいる。
できればもう一度、じっくりと酒杯を傾けながら話をしたかった。
安置所で、目の前で綺麗な布の上に横たえられているその遺体を前にして、俺と春香は並んで手を合わせる。
――黙祷。
しばらく経ってから頭を上げて遺体を拝見すると、左の腕は半ばから切断されており、右の肩口からは致命傷になったと思われる切り傷が斜めに。そして、目には含み針だろうか、たくさんの針が突き刺さっていた。
おそらくこの針で目をつぶされたところを、致命傷となった一撃を受けたのだろう。
「微笑んでいるね」
春香の声に遺体の口元を見ると、柔らかく微笑んでいるように見えた。自らの死に際に満足していたのだろうか。
凄惨な戦いの跡の残る遺体だが、その微笑みに何故かほっとするものを感じる。
そうか。きっと心ゆくまで生きて、戦い、悔いなど残らなかったのだろう。
人生を全うした一人の男。その生き様に自然と頭が下がる思いがした。
砦の攻略が最終段階に入ったとき、敵本隊である関所からの増援を防ぐために、黄飛虎将軍の一隊は関所前で敵と戦っていたという。
黄飛虎に付き従っているのは、義兄弟の4人。
それに対して関所から出てきたのは副将の
この黒い馬が……、とにかく速い。
突撃を仕掛ける黄飛虎たちに対して、張奎は妻を従えて、
「大将軍。勝負だ!」
と真っ正面から突っ込んだ。
今にも両者激突と思われたとき、突然、張奎の馬が一段と速度を上げた。その変化に間合いを崩された黄飛虎だったが、かろうじて槍の一撃を受け流す。
しかし、黄飛虎の背後に続いていた四大金剛たちは、張奎の速度について行けなかった。
すれ違い様の一撃を受けて、次々に馬から突き落とされ、後続の高蘭英によって首が
黄飛虎が振り返った時には、すでに討ち取られた四大金剛の姿があった。
さもありなん。先ほどの攻撃はそれほど鋭かったのだ。
相手の力量を見誤った。悔しさでかみしめた歯がギリッと音を立てる。
すでに物言わぬ
――熱くなるな。冷静に。奴を倒すことだけを考えろ!
黄飛虎は居住まいを正した。
「俺は周の開国武成王・黄飛虎。我が槍を受けてみよ!」
すると張奎は目を
「おう! 俺は三門峡関副将・張奎。貴様の首を取って陛下に捧げることにしよう」
同時に馬を走らせる両者。
あたかも中世ヨーロッパでのランスを用いての一騎討ちのように、生と死が一瞬のうちに交差する。
先ほどと同じく、急に張奎の速度がグンッと急に上がった。
極限まで意識を集中させる。時間が引き延ばされ、張奎の一撃がスローモーションのように見える。
しかし自らの身体も思うように動かない。
「ぬおおおぉ」
黄飛虎は張奎ではなく、その馬に向かって突きを放った。
手に重い衝撃が走り、槍がどこかへ吹っ飛んでいく。張奎の槍を、身をひねり、かろうじて自らの左肩で受け止めた。
次の瞬間、黄飛虎は地面に転がっていた。と同時に、張奎の馬もどうっと倒れ込んだ。
すぐに立ち上がった黄飛虎めがけて、高蘭英が手にした剣で首を狙ってきた。腰の剣を抜き放ちざまに受け止めるが、相手は馬の上である。重い斬撃に身体が沈み込む。
歯を食いしばり、受け流そうとしたとき、高蘭英の口がすぼんだと思ったら、何かが黄飛虎の目に次々に突き刺さった。
「ぐううぅぅ」
感じたこともない痛み。奪われた視界。黄飛虎の目にいくつもの含み針が突き刺さっていた。
しかし黄飛虎は高蘭英の剣を受け流しながら、身体をそのまま回転させ、馬の足を切り払う。
「きゃっ」と言う声を挙げて、高蘭英も馬から投げ出される。
目をつぶされた黄飛虎には見えなかったが、高蘭英は横倒しになった馬に足を挟まれて動けなくなっていた。
そこへ張奎が走りより、抜き身の剣で黄飛虎を討とうと襲いかかる。
気づくのが遅れた黄飛虎は、目が見えないながらも駆け寄る足音を頼りに、左腕で剣を受け止める。切り落とされた左腕がクルクルと宙に舞い、血しぶきが上がる。
たたらを踏んだ黄飛虎に、トドメとばかりに張奎の剣が袈裟斬りに襲いかかる。
その剣は無情にも、黄飛虎の身体を右肩から斜めに切り裂いた。
口からグフッと血を吹き出す黄飛虎だったが、崩れそうな足を踏ん張り、「うおぉぉぉ」と叫びながら右手の剣を突き出す。
その剣が張奎の腹に突き刺さる。ゴフッと張奎の口から血が噴き出し、互いに寄りかかり合った。
「あ、あなた!」と高蘭英が叫び声を上げるが、二人にはその声が聞こえていない。
黄飛虎は満足げに笑う。それを見た張奎も血を垂らしながらも口角を上げた。
「見事だ。張奎」
「貴様もな。さすがは大将軍……」
そのまま二人は崩れ落ちた。
黄飛虎は仰向けに転がり、天に向かって叫んだ。
「我が命を天に捧げる! 周の兵たちよ、聞け! 我を乗り越え、道を切り開けぇ!」
これが黄飛虎の最後の言葉だった。
その魂のこもった声に突き動かされるように、周の兵士たちが
乱戦となる戦場。動けなくなった高蘭英もたちまちに討ち取られた――。
俺は話をしてくれた兵士に礼を言う。
なんて壮絶な最期だったのだろうか。視覚が奪われながらも、遂には相打ちで副将を倒したのだ。
改めて黄飛虎殿に向かって黙祷を捧げる。傷だらけの身体が、今は使命を遂げた尊い人のように見えた。
◇◇◇◇
心の中で別れを告げ、振り向いて春香とともに三門峡関に向かった。
すでに周軍は関の中に移動しているのだ。きっと今ごろは、途中から参戦した同盟国、盧の人たちとの打合せをしているのだろう。
しかし、俺と春香は
遺体安置場から激戦の跡となった関までを、春香と並んで歩く。
まだまだ多くの遺体がうち捨てられていて、あちこちに壊れた戦車、射られた矢、剣、槍が落ちている。
兵士が歩き回り、味方にしろ敵にしろ生き残りを探しているようだ。
火計の犠牲者なのだろうか。炭になった遺体からは今もうっすらと煙が上っていた。
人の焼ける
急に春香の足が止まった。振り向くと泣きそうな表情で、
「ごめん。もう歩けないかも」
と言う。
見ると、その身体がブルブルと震えていた。無理もない。目を背けたくなる光景がひろがっているから。
しかし、この悲惨な戦場もまた作りだしたのは人間だ。俺たちはしっかりとこの目に焼きつけておかないといけないのだ。
しゃがみ込み、背中から抱きついてきた春香のお尻に手を回し、踏ん張って彼女を背負う。
死が充満している戦場のなか、春香の重さが妙に尊く感じる。かけがえのない春香の重さ。確かに生きているその生命の重さ。それを俺は感じていた。
これからも人間は何度も戦争を繰り返す。国が興り、他国と戦争をし、侵略し、そして滅んでいくだろう。
数多の人々の犠牲の上に俺たちの歴史が作られていくのだ。
肩から回された春香の腕に力がこめられる。俺の背中にしがみつく春香が、小さくつぶやいた。
「ああ、夏樹……」
かすれたような声に、俺は安心させるように、
「大丈夫。俺たちが死ぬことはない。ずっと春香の
「うん」
まるで濡れた子犬のような春香の様子。
広い広い世界のなかで、俺たちはたった二人で歩き続けている。こんな
関所の前に広がる戦場の跡。見渡す限りの焼け野原のような光景に、5つの砦が不気味に突っ立っている。
くすぶる煙。折り重なる遺体。血の流れている大地。
まさにここが地獄というべきであろうか。
春香を負ぶったままで戦場を突っ切り、俺は関所の中へと入った。
中では遺体の運び出しが一段落しているようだが、多くの兵士たちが何やら作業を続けている。
どこへ行けば子牙くんに会えるだろうか。
思案している俺に、春香が、
「夏樹。あそこ」
と背中から指をさした。その方向を見ると、関所の防壁上にいる子牙くんがいた。
ここからではその表情までうかがい見ることはできない。が、どうやら向こうも俺たちに気がついたようだ。
そばにいる兵士に何事かを言づけると、その兵士が走ってどこかへ行った。……恐らく俺たちのところに向かっているのだろう。
案の定、そのまましばらく待っていると兵士がやってきた。その案内で俺たちは子牙くんの元へと向かった。
俺たちの手助けはここまで。後は豊邑で吉報を待とう。
◇◇◇◇
三門峡関から周軍と盧国の軍隊が整列して出発していく。山間の街道を、まるで
黄土高原はここまでで、あの山脈を越えれば華北平原に出る。その先の平野部には洛邑ができ、やがて洛陽として発展していく。
空にはまだ雲が残っているが、その間から太陽が顔をのぞかせている。まるでスポットライトのように、東へ向かう周軍を照らしていた。
先頭を行くのは
かつて子牙くんとともに周に逃げてきた青年。子牙くんの結んできた人々の縁が、今、彼を支えているのだ。
隣の春香が、
「いよいよ最後の戦いに行くのね。……見届けなくていいの?」
「ああ。俺たちはここまでだ」
「でも――」
「いいんだよ。春香」
史実によれば、牧野の戦いではもはや戦いらしい戦いにはならない。対峙した敵軍の多くが寝返って、あっというまに戦いは終わる。
そこまでは見届ける必要はない。
……それに。今はただ、碧霞のところに帰りたい。そう思う。
そっと春香の顔色をうかがう。
なんとか元気を取り戻してはいるが、凄惨な戦場、ずらっと並んだ戦死者の遺体を見たショックは、今もなお残っているだろう。
今は穏やかな表情をしているが、まるで病み上がりのような弱々しい笑顔だった。
俺の視線に気がついた春香がこっちに振り向く。
「大丈夫だよ。ね。……もう、大丈夫」
無理をしている。それはわかっているが口には出さない。おそらく俺も同じような顔をしていることだろう。
「――そう。なら良かった」
春香の手を取り、待たせていた馬の所に向かう。
「さあ。行こう」
「うん」
しばらくは、いつもより甘えさせてやろう。その心が癒えるまでは。そして、俺も、甘えさせてもらおう。
俺は春香の肩を抱いた。さあ、家路につくとしよう。
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