30 救護所
翌朝、子牙くんはすっかり元の顔色に戻っていた。
目を覚ますやいなや、そばにいた俺たちを見て、
「師父! 春香様!」
と、ものすごく驚いていた。どうやら昨夜、目を覚ましたことは覚えていないようだ。
あわてて寝台から立ち上がろうとしてバランスを崩しかけていたが、ずっと横になっていたのでそれも仕方がないだろう。
転げ落ちそうになった子牙くんを受け止め、まずは落ちつくように命令した。
大人しくなった子牙くんに、俺たちがここに来た経緯を話し、もう毒の心配はないことを伝える。
恐縮する子牙くんに、まずは落ち着きなさいと重ねて言い聞かせ、俺たちは別の天幕を用意してもらうことにした。俺たちは一般人であって非戦闘民だ。あまり顔を出してもよくはない。
子牙くんはさっそく着替えて、姫発様やほかの将軍と軍議を行うこととなっている。5日も寝込んでいたので、状況を早く知りたいのだろう。
それに彼が元気になったと知れば、他の人も安心するだろう。
天幕に籠もっていても仕方がないのだが、外の陣地を勝手に出歩くこともまずい。
そこで俺と春香は天幕に向かい合って座り込み、神眼の神通力を使って、三門峡関やその周辺を視てみることにした。
この周の陣地からさらに東方。
黄河の南岸。三門峡の手前で街道は南に折れ曲がり、山の谷間を通り抜けながらやがて東へと方向を転じていく。
三門峡関はその南へ曲がったところに街道を塞いでそびえ立っていた。
豊邑の城壁よりも巨大で重厚な防壁は、こうして神眼で見るだけでも、のしかかってくるような迫力がある。
しかも周辺の山と平地に合計で5つの砦があって、それが支城の役目を果たしているようだ。
どの砦も、堅固な石壁で守られていて落とすのは容易ではなさそうだが、そのうち1つはどちらの旗もなく扉が打ち壊されて廃墟のようになっていた。
きっとあそこが周が攻め落とした砦だろう。敵に近いために常時確保しておけず、防御能力だけを奪っているのだろう。
しかし、同じような砦がまだ4つもあるわけで、神眼で上空から視てみると、どうやって攻めていけば良いのか迷うような配置だ。
三門峡関を攻めようとしたら、砦から横腹を突かれる。かといって砦を攻めようとすると本隊の関所から増援が来たり、ほかの砦から敵軍がやってくれば背後を突かれる危険がある。
……なるほど。子牙くんが攻めあぐねているのもよくわかる。これは関所とか砦なんてもんじゃない。正直にいって要塞というべきレベルだ。
「ここって凄いね。なんだか視ているだけで怖くなってきちゃった」
ぽつんと春香がそう言う。顔色が悪い。
「どうやって戦うんだろう」とつぶやく春香だが、俺の見たところ、総力戦ではないかと思われる。
この時代の攻城戦の策略としては、壁の下から穴を掘ったり、内部の武将と内通して扉を開けさせる。まだ破城槌も爆薬は開発されていないから、あとは攻城櫓やはしごで壁の上に乗り移るくらいしかない。
しかし、関所の防壁前に空堀があり、攻城櫓を接近させることはできない。穴を掘るのも手前にすでに水堀があり、厳しいだろう。
内部の武将との内通はわからない。可能性としてなくはない。
あとは有効なのは兵糧攻めだろうが、時間的余裕は周軍にはない。敵の準備を見事と褒めるべきだろう。
残るは総力戦。はしごをもった兵士を殺到させて、防壁を乗り越えていくしかない。しかも、さらにもう一つ防壁があるわけで……。かなりの戦力が必要だし、大きな被害が出てしまうだろう。
そう思い至ったとき、春香の様子が心配になって、
「なあ、春香。こんな戦争のまっただ中にいるけど大丈夫か?」
と尋ねると、春香はやや緊張感を漂わせつつも、ゆっくりとうなずいた。
「怖い。ものすごく怖いよ。でも夏樹が一緒だから我慢できる」
という。
天幕の外では、陣の中とはいえ戦場の空気が広がっている。
そのうえ、あの要塞の威容を見てしまえば、たしかに怖くなるのも無理はない。
ただ、春香には悪いが……。
「でもな。春香。俺はこの戦いを最後まで見届けようと思う」
「え? 帰るんじゃないの?」
「ああ。国と国とが戦う。戦争の悲惨さを見届けるのも俺たちの修行だと思う」
「――――そう」
どう考えても壮絶な戦いとなるだろう。人が死ぬところなんて、そりゃあ、見たくはない。
俺が見るのはまだ我慢できる。だが春香にはあまり見せたくない気持ちもある。
彼女には、ずっと幸せな光景だけを見ていて欲しい。本心ではそう思っている。だから、
「もし。もし春香が――「ううん。それはだめ」」
言いかけた言葉を途中で遮られる。膝立ちになった春香がビシッと俺の顔を両手で挟んだ。
ただまっすぐに俺を見ている。揺るぎなく、俺を見つめるその瞳に俺の顔が写り込んでいた。
「私はあなたの妻なのよ」
そっと俺の顔から手を離して座り込むと、自らの肩を抱くように胸の前で交差させてうつむいた。
「もちろん怖いよ。できることなら、碧霞のところに戻りたい。その気持ちも本当。……でも見届けるのが私にとっても修行になる。だからお願い。怖がっていたら抱きしめて」
春香の前ににじりよって膝立ちになる。そのまま春香の頭を胸に抱え込むように抱き寄せた。髪をすくように優しく撫でると、クスッと笑った気配がした。
「ふふん。そうそう。こんな感じで」
そう言って春香は顔を上げて、俺を見つめた。「それで具体的にどうするつもり?」
「そこが問題なんだよ。あまり俺たちが出しゃばってもいけないし、邪魔になってもいけないから」
「そっか。……ま、私は夏樹と一緒ならどこでもいいよ」
「子牙くんに相談だね」
「了解」
春香が俺の胸におでこを当てる。「ああ、ここってホント落ちつくんだよね」
急に甘えモードになった春香だが、甘えられると実は俺もうれしい。
こんな戦場のまっただ中で不謹慎かもしれないけど、俺も春香のぬくもりを感じていると心が落ちつくんだよ。
さて、そんなわけで、子牙くんに相談に行ったわけだ。
困った顔で俺たちの申し出を聞いていた子牙くんであったが、最終的には後方の救護所のお手伝いをすることで納得してくれた。
安全な後方。もちろん、身内だからという理由ではないと思う。非戦闘員を戦場に連れて行くことにためらいがあったんだろう。
「お二人に何かあったら、碧霞が悲しみます。だから、前線はダメです」
……きっとね。
◇◇◇◇
「布だ! すぐに!」
薬師の声に、並んだ寝台を駆け抜けて新しい布を持っていく。
その横では別の薬師が、
「ここで縛れ! きつく。もっと! もっとだ!」
と指示をし、俺たちと同じように救護に当たっている衛生兵に命令をしている。
血に染まった包帯。生臭いにおい。そして、うめき声と怒鳴り声。
救護所もまた戦場だった。
俺たちは1人の薬師について、その補助を行っている。
「この者にはこの薬を煎じて飲ませてくれ」
渡された紙包みを春香が受け取って、すぐに外のお湯場へと向かった。
それを待っている時間はない。薬師はすぐに次の傷病兵をのぞき込む。
ぐったりとしている男。年のころは30半ばの若い男だ。
「……だめだ。もう。外へ」
首を横に振ると、薬師は次の兵士のところへ行った。ぐったりしている男の傍にしゃがみ込んで、だめだと言った理由がわかる。すでに亡くなっていたのだ。
俺は遺体を背負って外に運び出した。
天幕の外にはすでに死んでしまった兵たちが、ずらっと並んでいた。その端に亡くなった兵士を下ろす。
中に戻ると、薬師の服を一人の傷病兵が握りしめていた。頭から血を流しながら、必死の形相で見上げている。
「た、たのむ。死にたくねぇ」
薬師が無言でその男を見下ろしていたが、やがて、
「わかった。だから手を離せ」と言った。
俺は駆けつけて、つかんでいた兵士の手をそっと離させる。
「お願いだぁ」
兵士の容態を見る薬師は、顔をしかめながら、
「これを飲んで休め」
と1つの薬包を差し出した。
兵士の代わりに俺が受け取り、そばにあった竹筒の水を利用して、その兵士に飲ませてやる。
「ありがてぇ……」
そう呟きながら横になる兵士。
薬が効いてきたのだろうか。すうっと眠ったようだ。
視線に気がついて顔を上げると、痛ましそうな目で薬師が見ていた。やがて何かを振り払うように「次だ」と言って、隣の傷病兵のところへ向かった。
その態度に不審を抱くが、診なければいけない兵士はたくさんいる。問いかける時間などなかった。
すでに意識がない兵士の装備を切り裂いて外し、服を脱がせる。露わになった身体には赤黒い血がこびりついていた。寝台から腕がぶらんと垂れ下がっていた。
「……ひどい」
戻ってきた春香が絶句して口を押さえている。男の右胸には切り裂かれた傷が、ランプの光を照り返していた。
すでに薬師の服も血に染まっている。男の容態を見て、黙って首を横に振る。「――外に」
衛生兵が布を敷き、寝台の男の身体を移していく。そのまま布で全身を包み、わずかな黙祷を捧げ外に運び出していく。
くそっ。
気分が悪くなってきた。少し外に出ようと奥に行くと、薬師が「どこへ行く!」と鋭い声で俺を止めた。
「そっちは……だめだ」
どういうことだ。
いぶかしく思った俺に、薬師が近寄ってきてささやく。「死を待つばかりの者たちがいる。今は安楽死させているんだ」
俺は、何も言えなくなった。
「助けたくてもどうにもならない者も多い。……救える命には限りがあるんだ」
黙ってうなずくと、薬師は離れていく。
その後に、そっと春香がやってきた。「大丈夫?」
顔をのぞき込んでくる彼女を見て、かすかに微笑む。
「ああ。すまん」
しかし、俺の顔を見た春香が、さっきより心配そうな表情になっている。正直、自分でもわからない。今、俺はどんな表情をしているのか。
目をつぶって、右手で額をもむ。ため息をついた。……だめだな。こんなんじゃ。
そこへ薬師の声が投げかけられた。
「この者にはこの薬だ。頼んだぞ」
振り向くと薬師は俺の方を向いて、薬包を寝台に横たわっている兵士の上に置いた。
悩んでいる暇はない、か。
「はい」と返事をして、俺は春香と一緒にその傷病兵のところへ向かった。
救護所に、次から次へと兵士が運び込まれてくる。
矢を抜き、切り傷の上に包帯を巻き、折れた骨には接ぎ木をして固定をする。
こびりついた血。無くなった部位。うめき声に、生臭いにおいが渦を巻いて俺を飲みこんでいくような気がする。
俺は考えることを止めた。
ひたすら薬師の指示のままに作業をする。いつ終わるかわからない。果てしない作業を――。
夜になっても戦いは続けられ、周軍は多大な犠牲を払いながらも、遂に三門峡を守っていたアッシリア人の将軍を討ち取ったという報告が飛びこんできた。
しかし、救護所での戦いはいつまでも続いていた。
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