28 風が止んで雨が降る


 ――2年後、紂王31年BC1046。周では太子発様の時代になって11年。


 今年こそ天命に従い帝辛を討つ年として、姫発様は同盟諸国に対し、きたる甲子の日に大商の南にある牧野に集結することを連絡していた。


 最終決戦。

 満を持して第二次東征となる大規模な軍勢を整え、周軍は文王の位牌を掲げて豊邑を出発していった。それが1ヶ月前の事だった。

 史記では寒い時期の出兵であった気がしたが、あれも後代の記録なので細かい時期は誤りもあるのだろう。


 出征の前に、丁が2歳下の黄玉さんと結婚した。

 2人はそのまま碧霞の家で同居するらしい。たとえ子牙くんが出征中でも彼らが碧霞の様子を気に掛けてくれるだろう。

 そんなこともあって俺たちは、碧霞の家の近くで2人暮らしをしている。2人は新婚さんだし、碧霞も息子夫婦との時間を大切にしたいだろうと思ったからだ。

 もちろんすぐ近くに住んでいるから、何かあれば駆けつけるのはすぐにできるのだしね。


 さて報告によると、現在、周軍は国境の三門峡で戦っているらしい。

 2年前にすぐに撤退した場所。かつては普通の小さな関所だったはずだが、今では強固な要塞となっているという。激戦が繰り広げられているのは間違いない。

 しかし国境を越えれば次の戦場は牧野。あそこは一日で勝敗が決したはずだから、今が正念場といえる。



 今朝はすがすがしい青空だったが、お昼を過ぎたあたりから、みるみるうちに雲が出てきて、今はどんよりと暗くなってきている。風も湿り気を帯びてきていて、いつ雨が降りはじめてもおかしくはない空気だ。


 春香が髪をかきああげて、ゆううつそうに空を見上げた。

「あ~あ、今日はお出かけもできないね」

「風がやんだら降り出すだろうからね」

「うん。……じゃあ午後は新しい料理にでも挑戦しようかな」

「おっ、それはちょっと楽しみ。肉? 魚?」

「今、うちにあるのは、ええっと」


 頬杖を突いていた手をゆるく握り、人差し指を鼻の下にあてて考え込んでいる春香。新作料理と言っているものの、どうやら余り物をつかった料理になるようだ。


 結婚当初は料理が得意ではなくて、豚と千切りにした大根を一緒に炒め、しかも塩もこしょうも振らないという謎料理「(命名)ぶた大根」を作っていたが、当然のことながら今は俺の好みの味をきっちりと把握している。


 新作料理とはいえ、まあ、それほど外れのものは作らないだろう。……あ、でも一緒に作ってもいいな。小麦粉はあったはずだから水を加えて生地を練って、お肉とか包んだりして蒸し料理なんて面白いかもしれない。


 その時、玄関の方から誰かの声が聞こえてきた。お客さんのようだ。

 腰を上げかけた春香に、手で俺が行くと制して玄関に急ぐ。

 ドアを開けると、そこには丁の嫁のぎよくさんがいた。


 玉さんはにっこりと微笑んで、

「お祖父様。今日はお夕飯を一緒にどうですか」

と誘ってくれた。

 一も二もなく俺は「いいよ」と返事をして、すぐに春香のもとに向かった。

 孫夫婦からのお誘いだ。断れるわけがない。



◇◇◇◇


「パーパもマーマも、最近なかなか来てくれないんだから……」


 俺たちの姿を見た碧霞が、口を尖らせてそんなことを言った。

「丁は新婚さんだし、私一人だとたまに居たたまれなくなるんだよ」


 ……あ、そうか。確かに。


「ま、でもパーパとマーマと一緒でも同じように感じるときもあるけどね」

 俺は碧霞の頭を撫でて、

「はいはい。子牙くんがいないから寂しいんだろ? しょうがないけれどさ」

と言うと、碧霞はあわてたように、

「ちょっと、もう子供じゃないんだから!」と抗議した。

 わざと意外そうに、

「そうか? まあもうちょっと娘を撫でさせてくれ」

「……もう」


 そう言われると、もっと遊びに来ればよかったかなって思わないでもない。が、お前はもう40歳じゃないか。まったくいつまでも甘えん坊で……。頭を撫でている俺が言う事じゃないけれどさ。

 頬をふくらませた顔を見ていると、その表情がどこかで見たことがあるような気がしてきた。碧霞じゃなくって誰だったか……。


 春香が苦笑しながら碧霞のほっぺたをプスッと突いた。

「いや、だってさ。丁も玉さんもいるからさ。あなたももう充分に大人だし」

と言う。


 ――あ。そうか。あの顔は、

「春香にそっくりだな」


「え?」「え?」


 思わず声に出ていたようで、春香と碧霞が同時に振り向いた。

「い、いや。何でもないよ」

と誤魔化すが、碧霞が、

「ちょっと、パーパ! そこまで言っておいてそれはないでしょ」

と抗議する。


 春香はそんな碧霞の様子を見て、どこか納得したようでウンウンとうなずいて、

「なるほどなるほど。……私はわかったわよ?」

「えっ?」

「ふぅん。なるほどね」といいつつ腰に手をやり、春香は人差し指で碧霞のおでこをツンと突っついた。「貴女はやっぱり私の娘だってことね」

「えっと、ちょっとよくわからないんだけど……。ま、いいのかな?」


 なぜか疑問系で終わる。

 けれど、そのしゃべり方。本当に春香がもう一人いるみたいだ。

 碧霞の後ろで玉さんが微笑んで見ている。その笑顔を見ていると、やっぱり毎日顔を出しに来てもいいなと、そう思った。


 さっそく台所に行き女性陣が料理を始める。時間はまだ早いけれど早めのご飯にして、夜は夜で春香と一緒に琴を弾きたいそうだ。

 久し振りに俺も2人の重奏を聴いてみたい。きっと丁も玉さんも驚くと思う。


 何とはなしに女性陣の料理を見ていると、ダダダダッと外から激しく地面を打ち付ける雨の音が聞こえてきた。


 窓をのぞくと軒先の瓦から、糸を引くように細くこぼれる雨水が見える。庭の木々に雨がはじけてパシパシっと音を立てていた。


「降ってきたわね」

 俺が窓の外を見ていることに気がついたのだろう。春香が作業をしながらこちらを向いて、ぼそっとつぶやいた。


 俺は窓のそばにイスを持っていき、しばらくザーッと降っている雨をながめることにした。

 まるで梅雨のような光景にどこか懐かしさを覚える。背後の室内では、春香たちが楽しそうにおしゃべりをしていた。


 まるで戦時中とは思えないほどの穏やかな光景。心地よい時間が過ぎていく。これで子牙くんもいれば尚のこと良かったんだが、それは仕方がないことだ。彼はこの時間を守るために戦いに行っているのだから。

 そう思うとどこか引目を感じてしまうが、俺たちがあまり表だって行動するわけにもいかないのだ。


 外では風も強くなってきたようで、あおられた雨がうねりながら降っている。どんどん雨足が強くなっている。

 こりゃあ、丁が宮殿から帰ってくるときはビシャビシャだな。たとえ馬車だとしても、家に入るまでのちょっとの距離で濡れそぼってしまうだろう。


 その時ふわりと、まるで夏の霧のような風が吹き込んできた。

 同時に、バシャバシャと何かが近づいてくる音が聞こえる。馬車の音。こんな強い雨の中を……。

 そのまま通り過ぎていくかと思ったが、家の前で急停車したようだ。丁が帰ってきたのか? だいぶ早いが。



 ここに急ぐ足音が聞こえたと思ったら、突然、バタンとドアが開いた。


「丁! どうしたの? そんなに慌てて」


 碧霞が大きな声を挙げるが、丁の顔は青ざめていて険しい。何があったのか、一瞬、碧霞を見たものの、すぐに視線を合わせないようにうつむいた。


「落ちついて聞いて欲しい。パーパが……、毒に倒れた。それと玉のおじさんが3人も戦死したそうだ……」


 碧霞と黄玉さんの2人が息を呑んた。カタンとその手から菜箸が落ちる。

 玉さんが弱々しく、

「戦死したのは誰?」

と尋ねると、丁は絞り出すような声で、

黄天化こうてんか様、黄天禄こうてんろく様、黄天祥こうてんしよう様だ。……ほかにも金吒きんた様が亡くなられたと」


 それを聞いた玉さんがフラッと倒れそうになり慌てて春香がその身体を受け止めた。


 春香がワナワナと震えている。

「なんですって……」


 春香から玉さんを丁が受け取り、そのまま抱きしめている。俺も春香と碧霞のところへいき、両腕で2人を抱きしめた。


 腕の中で春香が「そんな……、そんな」とつぶやいている。


 ショックを受ける春香を見ながら、俺の脳裏にはあの雪山で、春香に懐いていた天祥君の姿が思い浮かぶ。

 ……そうか。彼が戦死、か。


 一方の碧霞も気を失いそうな表情をしている。まさか、ここまで戦況が悪いとは思いもしなかった。


 誰もが黙り込んでいて、激しく屋根を叩く雨の音だけが響いた。


 不意に碧霞が俺の腕の中から離れる。

「碧霞」

と呼びかけるが返事はなく、まるで夢遊病者のようにフラフラと扉から庭へと出て行く。


「おい! 碧霞!」

と春香をその場に残して、慌てて追いかける。この雨の中を、一体どこへ、何をしようと……。


 ドアを開けて外に出るや、頭からバケツをひっくり返したような雨がこぼれ落ちてくる。

 激しい雨に身体が打たれ、はじけた飛沫しぶきが目に入ってきて、周りがよく見えない。


 雨の音に包まれ、頭からこぼれ落ちる雨水に目をぬぐいながら碧霞を探すと、彼女は庭の真ん中で空を見上げていた。


 その顔も、髪も、服も、雨に打たれるままに。その姿はまるで雨に打たれた聖母の像のように見えた。


「碧霞」と名前を呼びながらそばに行こうとしたとき、碧霞の叫び声に俺の身体がビクンと震える。



「――天よ! あの人を救いたまえ! 窮地を助けたまえ!」



 懇願するように両手を組んで高く掲げている。その頬を涙が雨と一緒に流れ落ちていく。


「どうかお願いです。私の愛するあの人を、どうか。どうか! 私のもとへ返してください!」


 それは祈り。懇願――。



 魂を削られるような悲痛な叫びが胸を締めつける。俺は一歩も動けなかった。まるで縛り付けられたように。


 ふらっと碧霞が倒れかけた。

 身体に自由が戻る。あわてて抱き留めると、俺の胸の中で「どうか、どうか」と呟きながら、彼女はそのまま意識を失った。

 まるで眉根を寄せて悪夢を見ているその顔を、洗い流すように雨がこぼれ続ける。乱れた髪をそっとぬぐった。


 突然、ピカッと空が光り、雷の震動が大気を揺らした。音が、空気が、俺の身体を貫き、響き、そして、通り抜けていく。

 一つだけでない。二つ、三つと雷が次々に鳴り渡る。



 碧霞を守るように覆いかぶさると、目の前にいつのまにか鷹の嵐鳳がいることに気がついた。


 雨の中を、じいっと俺を見つめる嵐鳳。

 不意に胸の内に言葉が浮かぶ。


 ――天を動かすは、人々の祈りなり。汝、この祈りに応えるや。


 それは嵐鳳の問いかけか。それとも俺自身の心の問いかけだったのか。


 碧霞を抱き上げて、俺は嵐鳳に言った。

「俺が行く。倒れた子牙くんを救いに。だから……。天帝釈様には見守っていて欲しい」


 この俺の返事を聞いた嵐鳳は、一度ギュッと目をつぶり、すっと目を開くとそのまま飛び上がった。雨の中をまっすぐに頭上の雲に向かって飛んでいく。


 その周りを雷光がまたたいた。空に走る稲光がまるで舞い踊る竜のように見える。その閃光の中を嵐鳳が上へ上へと飛んでいく。


 やがてどこからともなく風が吹き始めた。


 嵐鳳が雲の中に消えていったのを見届け、屋内に戻ろうと振り返ると、春香たち三人が部屋の入り口でじっと俺を見つめていた。

 心配そうな目をしている春香に大丈夫だとうなずく。


 雨の中をゆっくりと戻る。

 腕の中の碧霞は思ったよりも軽かった。


 亡くなった人はもう戻らない。

 しかし、子牙くんはまだ間に合う。彼を、救いに行こう。

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