27 帝辛と妲己


 商都の近郊に朝歌と呼ばれる別荘地帯がある。

 そこに一際高くそびえているのが鹿台ろくだいという巨大な宮殿だった。


 最上階にある広間で、齢50半ばとなった帝辛が40歳を超えてなお美しい妲己だつきとともに酒宴を開いていた。

 楽隊が演奏を行い、透けそうなほど薄い衣裳を着た女性たちが舞を踊っている。


 その舞を見ている帝辛が妲己を褒める。


「うむ。この新しい曲と舞はおもしろいな。そなたが手配したのであろう?」

「はい。さすがに毎日毎日同じような曲、同じような舞、同じような料理や酒では飽きてしまいますので」

「お主は気が利く。たしかに前に作った曲もそろそろ飽きてきたところであった」


 満足げにうなずいて酒をあおる帝辛。空になった盃を妲己の方に差し出すと、妲己がにこやかに酒を注ぐ。


 妲己はささやいた。

「なかなか淫靡いんびでございましょう。……ぜひこの後、奥の部屋にいらしてくださいませ」

 帝辛は口角を上げると、妲己の手を引き寄せた。

「そなたはいくつになっても美しいな。この肌もしっとりと柔らかく実にいい」

「陛下のために日々お手入れを怠ってはおりませんから」


 妲己はそう言うと、舞女たちをチラリと見てから、

「陛下には側室が多くいらっしゃる。それにいくらでも新しい女性にょしょうを手に入れることができます。……けれど、一番の寵愛ちようあいは誰にも譲るつもりはありません」


 すると帝辛は笑い声を上げた。

「ははは。心配するでない。朕もそなたが一番いい。他の女など、たまの気まぐれにすぎん」

「私の心は常に陛下とともに。……ただ、子供が生まれないことだけが申しわけなく思っております」


 帝辛は舞から目を離して、妲己を見つめた。

「ふむ、そうか。子供か」


「私もすでに40を超えておりますれば、せめて代わりに他の女性に産んでもらうほかはありません。嫉妬してしまいますが、たまには若い女性を相手にしていただくしかないのが辛いのでございます」

「う~む。それは……、やはり仕方ないことではある。だがな、妲己。そんなことでそなたを手放したりはせぬ。朕の隣にはそなただけがおればよい」


 妲己は目をうるわせながら、

「陛下……」

と感極まったようにつぶやいて、帝辛にしなだれかかった。

 帝辛はその腰を抱きしめて、妲己の耳にささやいた。

「うむ。すぐにでもそなたを抱きたくなったぞ」

「私も今すぐにでも陛下が欲しく存じます」

「では奥の部屋に行こう」


 帝辛はばっと立ち上がると「今日はここまでだ」と言い放ち、妲己を抱き寄せながら広間から出て行く。

 その場の人々はさっと平伏をして見送った。


 ――それからしばらくして、奥の寝室では事後の2人が仲よく寝台で横になっている。

 妲己が横になったままで、愛おしそうに隣の帝辛を見つめその胸を撫でている。


「陛下。かつて私の故郷の蘇州へいらした時のことを覚えていらっしゃいますか」

 帝辛が妲己の方を見て、胸に乗せられた妲己の白い手に自らの手をからめた。

「朕が王となる前のことだな。……そなたの父の蘇護そごに狩りに誘われて、一緒に行ったことを覚えておる」

「あの時、陛下は見事に大きな鹿を仕留められました」

「ああ、思い出したぞ。あの鹿の角は父に土産に持って帰ったのであったな」

「はい。……実は私もその時分は小娘でしたが、その場にいたのです」

「む? 狩りにか」


 すると妲己はいたずらが見つかった少女のように、少し照れた表情で告白をする。

「父にダメだと言われましたので、頭から布をかぶりコッソリとついていったのです」

「ははは。そんなやんちゃな時があったのか」

「あら、失礼ですわ。私は陛下の姿をひと目でも見たいと思ってついていったのですから」

「ああ、そうか」


「……陛下は、鹿も仕留められましたが、あの狩りの際に猟師の罠にかかっている子狐を助けられました」

「ほう。もう覚えておらぬがどうだったか……」

「無理もありません。陛下にとっては取るに足らないこと。いつもの通りに慈愛を示されただけですから。ですが、私はその時、思ったのです」


 妲己はぎゅっと手を握って、恋する少女のように帝辛を見つめる。


「この御方にお仕えしたい。この御方の寵愛ちょうあいを得たい。この御方のところに行きたいと」


 帝辛はうなずいて妲己を抱き寄せた。


「今にして思えば、そなたが来るまでは実に退屈な毎日であった。それがどうだ。そなたが来てから、朕の世界は一変した。そなたを手に入れられて良かったぞ」

 そういって妲己の額にキスをする帝辛は、そのまま妲己を組み敷いた。


 再び顔を近づけようとする帝辛に、妲己は言葉を続ける。

「陛下。陛下はこの商を統べる御方。長い商の歴史のなかで諸侯が力を持つに至りましたが、それも陛下あってのものと理解したことでしょう。その覇道を邪魔する者もようやくいなくなりました」


 ピタッと止まった帝辛は、いぶかしげな表情を浮かべて妲己を見下ろしている。

「うむ。小うるさい微子啓や箕子もようやくいなくなったからな。彼奴あいつらめ、朕の兄弟でなければとっくに焙烙ほうろくに処しておるわ」

「前々から仰っておりました生け贄のけんをなくし、長い歴史の間にゆるんでいた君臣の道も正されたと存じます。すべての権力は陛下の御許に」

「ははは。妲己よ。すべてそなたのお陰であるな。……しかし、そうなるといよいよ次は東の人方じんほうを攻めるか」


 人方とは商の東、微の南にある強国で、長年、商と対立していた。

 湿地帯が多く、商の強みである戦車がまともに使えず。戦力が拮抗していることもあり、いくども小競り合いをしながらも、攻めきれずにいたのである。

 かの国を攻め滅ぼして領土を広げること。それが帝辛の宿望であった。


 帝辛の言葉を聞いた妲己が、帝辛に手をのばした。

「はい。長年の宿望を遂げられるべき時かと」

「……お主は実にいい女だ。今宵はこのままそなたに溺れようぞ」

「存分に――」


 西の周のことなどまったく眼中にない。

 所詮は、自らが切り捨てた劣った者どもの国。しかも聞くところによると、先月、周が国境の三門峡に攻めてきたがあっけなく敗退していったという。

 あらたに西方のアッシリア人の武将を登用し、西方国境の守りにしたこともあり、まったく脅威とは思っていなかったのであった。


 2人の夜は更けていく――。




◇◇◇◇

 俺は、宿屋の寝台に寝そべった春香の上にまたがり、その背中をマッサージしている。


「このあたり、こってるな」

 春香が「うん。……うん」とつぶやいていた。


 両手で腰から背骨に沿って左右の筋肉を、ゆったりとしたリズムでほぐすように押していく。特に肩甲骨の辺りや首の根元から肩にかけての筋肉のこりがひどい。


 長旅の影響もあるだろう。

 なにしろ微の国を出発した後、よう国,髳国、国、彭国、濮国にそれぞれ国書を届け、最後には、中国西南部の大国・蜀の都である成都に来ているのだから。

 三国志では、曹操の魏、孫権の呉、そして劉備の蜀とが中国を三分したが、その蜀である。


 ここまでのところ交渉は順調に行っていて、長年、商の侵略に対策を練っていた各国は周との同盟を結んでくれていた。


 強国に対しては同盟を以って対処する。これは後の戦国時代にも合従策として考えられた戦略だ。そして、最後の訪問地のここ蜀も無事に国書を届けることができた。

 あと一つ、きよう国という昔からの同盟国がある。合わせて8つの国々。これで揃ったのだ牧誓八国ぼくせいはつこくが。


 俺たちが諸国を回っている間に、周は第1次遠征として商に攻め込んだらしいが、国境の三門峡であっさりと退却してきたという。

 しかしこの8国が揃ったからには、いよいよ周と商の最終決戦がはじまるのだろう。



 マッサージを終えると、春香が寝台に腰を掛けて気持ちよさそうに肩をのばしている。

「はぁぁ。楽になった。……ありがとうね」


「疲れたろう。こういう時は温泉に行きたくなるよな」

「ふふふ。そうね。スーパー銭湯とか、また行きたいなぁ。……それはそうと」

と春香は立ち上がり、「次はあなたの番ね」

 いや、いいって。俺は。


 しかし、春香が「いいから。ほら」と寝台を指さした。

「そ、そうか。じゃあ頼むかな」

 そういってゆっくりと寝台にうつぶせになると、背中から「よいしょっと」と言って春香が俺のお尻のうえにまたがった。


 腰の根元に春香の手が添えられた。「それにしても、この国って面白いね」と春香は言いながら、ツボをぐいっと押しこんできた。

 腰から背中、肩と、こわばった筋肉を春香の手が順番に揉みほぐしてくれる。かなり気持ちがいい。


 たしかに春香の言う通りだった。

 蜀の国では、男性の多くが髪にそり込みを入れていて、時には模様のようになっている人もいる。身に付けている衣服も生地がしっかりしたものなんだが、暑い季節ということもありどことなく開放的な雰囲気がただよっていた。

 塩があまり流通していないのか、出された料理はどれも薄味だったので味気なくはあったが、国としてかなり成熟しているようで、簡単に言えば豊かな国だと思われる。


 俺は寝そべりながら、記憶にあった知識を披露する。

「蜀はね。太陽信仰の国なんだよ。三星堆さんせいたいっていう遺跡があってね。青銅の技術も発達していて目の突き出た大きな仮面や、九つの太陽を模した青銅の神樹なんかが発掘されていたはずだよ」

「へぇ。神樹かぁ。ちょっと見てみたいかも」


 春香は興味を示しているが、ああいう遺物は信仰とか儀式に関わるもので、そう簡単に見ることはできないだろう。

 ここが豊かな理由は揚子江を利用した江南地域との交易によるのかもしれないね。


 ただし問題もあって、今まで訪問してきた国々は子牙くんの持つ、正確には宋異人さんの商会のネットワークがあったが、この国にはない。何が言いたいかというと、牧誓八国の1つだから同盟を結んでくれるのは明らかだが、その交渉過程で何を言われるのか未知数だったというわけだ。

 けれど、同盟の件も特に問題なく終わってひと安心している。


「ほいっと、終わり!」

 マッサージを終えた春香が、そのまま俺の横にごろんと転がった。仰向けになった春香と目が合う。

「ありがと」「なんのなんの」


 そんな他愛ないやり取りに自然と頬がゆるむ。


 「お代」と言いながら、おでこを出して指をさす春香に、苦笑しながら顔を寄せる。ちゅっとキスをすると、機嫌の良くなった春香がハミングをはじめた。


 こっちを見て、どこか嬉しそうな瞳をしている。きっと理由はなくって、こうして一緒にいるのが嬉しいのだろう。こういう表情を見ているといつも思うんだが、春香って甘え上手だよな。

 でも、それがいい。



 春香が伸びをしながら、

「後は帰るだけだね」

「ああ。お土産もあるし、早くていの顔を見たいな」

「うん。そだね。……丁ちゃんももう17歳なんて。あっという間」

「いっちょ前にガールフレンドもいるし、結婚もすぐじゃないか」


 実は数年前のことだが、孫の丁にガールフレンドができたと一人の女性を紹介された。お相手は黄飛虎殿の一族の娘さんで黄玉こうぎょくさんという。15歳のかわいい女の子だ。

 どこかで見たことがあると思ったら、豊邑に来るときに丁と遊んでいた女の子の一人だった。


 はじめにそれを聞いたとき、父の子牙くんが最初の奥さんと上手くいかなかったことを思い出して心配をしたが、実際にその娘さんと会って話をしてみたところ、その心配は杞憂であったことがわかった。

 考えに偏りがなくて仲よく丁と話をする様子を見て、さすがは黄飛虎殿の一族だと思う。


 すでに婚約の話がまとまりつつあるらしく、俺たちも賛成している。

 タイプが違うとはいえ、親子二代にわたって武門の娘を嫁にするのはやっぱり親子なのかもしれないね。


 明日は周に向かって出発する。

 春香と一緒に、お土産を喜ぶ碧霞と丁の顔を想像するのが楽しみだ。

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