26 微の国へ 


 あれからさらに8年が過ぎた。俺と春香の見た目は60歳となり、子牙くんは52歳、碧霞も39歳となった。

 丁は17歳の青年―とはいっても高校生ぐらいだが―に成長し、今では文官として父の子牙くんの補佐をしている。


 姫発様はとにかく商を攻めろと言っていたらしいが、あれから逆に商が何回も攻めてきたため、その復讐の時はいまだに来ることはなかった。

 いずれにしろ子牙くん指揮により時には地の利を生かして、時には真っ正面からことごとく打ち破り、見事に周を守り続けていた。


 それから周が豊邑に遷都してからほどなくして、哀しい知らせが隴中ろうちゅうから届いた。俺たちがお世話になった宋異人さんが天寿を全うしたのだった。享年65歳。


 子牙くんにとっては親代わりだったこともあり、彼にとって辛い時期だったと思う。それに立場があるから隴中に行くこともできず、ただ使いを遣わすしかなかった。



 ――道の横の畑では、何の穀物かわからないけれど、青々とした穂が初夏の風に揺られていた。

 俺たちは今大胆にも、敵国の商の都・大商から東に向かう街道を進んでいる。目的地は微の国。子牙くんから預かった同盟を求める書状をとある人物に届けに行くところだ。


「意外にのどかだね」

 春香がそう言いながら青々とした田んぼを見つめる。稲はまだ小さいけれど、風に揺られていて、根元の水面をアメンボが動き回っている。オタマジャクシも泳いでいるようだ。


 春香の言うように、ここに来るまで通ってきた農村の様子に変わったところはなかった。少なくとも、一見したところでは何の問題も無いように見えた。

 きっと鹿台ろくだいの建設が終わったので、働き盛りの人たちが戻っていったのではないだろうか。……ただ農作業をしている家族の中には、老人と子どもだけのところもあるようだ。


「かわいそうだと思うことは、傲慢ごうまんなのかもしれないな」

 ふとそうつぶやくと、春香が、

「え? どういうこと」

「すまん。聞こえていたか。……見てみなよ。たとえ親がいなくても、懸命に働いている」


 俺の言葉に、春香も年配のお爺さんと一緒に働いている少年を見つめている。10歳くらい。間違いなくお孫さんだろう。


「あの子はあの子なりに精一杯生きている。ああいう姿を見て、俺たちが親がいなくて可哀想だっていうのは、どうなのかなって思ったんだよ」


 必ずしも両親が揃っている家庭ばかりではない。医療の発達していない時代なら特にそうだ。

 そういう子どもたちを見て可哀想というのは簡単だ。だけど、それは今を必死に生きようとしているあの子らに失礼なのかもしれない。ただ、そう思った。


「……なるほどね」

 春香も納得したようだ。だけど、

「でも私はやっぱり可哀想だと思う。親がいないのは……、やっぱり辛いよ」

と、何かを思い出すようにそう言った。


 春香が父親おじさんを亡くしたのは高校1年生の時だった。

 胃がんで、一度は摘出てきしゆつしたのだが、すぐに再発してしまい亡くなってしまった。あの頃、俺はなるべく春香に寄り添うようにしていたけれど……。


 農作業をしている子どもを見つめる春香。その視線はどこか哀しげだった。

 思わず「春香」と呼びかけると、「うん?」と振り返った春香はすでに元の様子に戻っていた。


「……いや、なんでもない」

「ふふふ。どうしたの? 変な夏樹」

「あ~」と言いながら鼻の頭をかく。

「ま、なんだな。春香は一人じゃないんだ。俺がいる。ずっと一緒にいるからな」

 そう言うと、春香はニッコリ微笑んでうなずいた。

「うん。ありがとう」


 そのまま黙って、水田地帯を通り過ぎる俺たち。春香には、俺が一緒にいるとは言ったが、本当は感謝すべきは俺の方だろう。

 なにしろ、先にアムリタを飲んだのは俺なのだ。その俺に、春香はどこまでも付いてきてくれると言ってくれたのだ。

 孤独な旅を続けるはずだった俺を、救ってくれたのは春香なんだ。


 並んで馬を歩かせる春香の横顔をそっとうかがった。

 年を重ねた姿。白髪交じりの髪となり、手のしわも深くなった。

 けれど、その瞳の輝きはいつまでも変わらない。俺を見るまなざしも、そのぬくもりも。


 不意に春香がこっちを見た。

「ね。夏樹」

「どうした?」

「今晩は、絶対に同じベッドで寝ようね」


 どうやら急にお互いが愛おしくなったのは、春香も同じようだ。「ああ」とうなずいて、俺はまっすぐ道の先を見た。


◇◇◇◇

 微の国は商の東部にある。国とはいっても商の領土内にある属国のような立場といえばいいだろうか。

 本来この国は、帝辛の一族の出身の国であり、商の大本の国ともいえる。果たしてそのような国に書状を届けるのはどうなのかと思わないでもない。


 ただ子牙くんが言うには、

「帝辛の兄にして、賢臣であった微子啓びしけい殿が、商を見限って隠居されています。あの方であれば、きっと我々の力になってくれるはずです」

とのことだ。


 黄河もこのあたりまで来ると川幅がますます広大になり、水量も多くゆったりと流れているように見える。日本では見ることができないスケールの大河。このあたりはもう下流域で海に近くなってきている。

 水深も深くなり、ときおり濁った水の中からピンクのイルカが頭を出している。

 あれはカワイルカの仲間で、後に黄河からは姿を消してしまい、わずかな数が揚子江に残るだけとなっていたはずだ。


 ともあれ俺たちは子牙くんに指示されたとおり、微子啓という人の屋敷へと向かった。




「――よくもまあ、周の者が私の屋敷まで来られたものですな」


 おそらく今の俺たちと同じくらいの60歳くらいだろうか。微子啓殿に会うなり、俺たちは嫌みを言われた。

 さらっと受け流して、

「微子啓様は賢臣として仕えたと聞きます。いかに敵対する国とはいえ、使者をないがしろにすることはないでしょう。……まずはこちらの書状をご覧になって下さい」


 そう言って、子牙くんの書状竹簡を最初に手渡した。


 フンッと鼻を鳴らして、書状を受け取り、彼は紐を解き放ってカタカタと中を開いた。

 文字を追っているその目が、ある箇所で大きく見開かれた。

「なんと。あの2王子はやはり周にいたのか!」


 驚きの声を上げた微子啓殿は、それから真剣なまなざしで続きを読んでいる。そのまま読み終えて、ため息をつくと黙って考え込んでしまった。


 その表情からは考えていることはわからない。

 が、この交渉はまず上手くいくはずだ。少なくとも俺の知る歴史からは。この国は周の同盟国となるはずなのだ。


「あの愚王では国は滅ぶほかない。となれば、一族を守るのが私の役割か」


 そうつぶやいた微子啓殿は、顔を上げて俺を見つめた。

「我らが周に味方するということは、一族から帝辛を見限るということでもある。簡単には決められぬ。……普通ならばな」


 そして、書状をそばのテーブルの上に置いて、

「帝辛は妲己におぼれて、毎日酒を喰らい、正常な判断をすることができぬほどに堕落してしまった。今では祭祀さいしを行わぬばかりか、後宮から出てきもせぬ」


 おいおい。それってもはや末期的じゃないか? ここに来るまでに見た商ののどかな風景が幻影のように思えるぞ。


「まあ、むしろそのお陰で、地方の政治は現地任せとなって上手く治まっている面もある。

 なにしろ、先代まで地方諸侯に分散していて各地を支配させていたが、奴は中央集権を進め、強引にすべての領地領民を自らの支配下に置こうとした。結局、諸侯の反発を招くだけであった。反乱が起きる前に愚物になって幸いというか、なんというか……」


 なるほど。そういうことか。前後不覚に酔っているからこそ、放っておけば無理難題も言わないというわけだ。

 しかし、それでも一度亀裂の入った関係を修復するのは難しいだろう。水面下で何が起きているのかわかったものではない。ヒビの入った氷の上を歩いているようなものだ。

 そして、その状況は微子啓殿も承知しているようだ。


「帝辛は愚かにも敵を作りすぎている。なにか事あらば商はバラバラになるであろうよ。……私は、太公望殿の申し出を飲むほかないと考えている。だが、この国の一族をまとめる為に少し時間が欲しい」


 なるほどね。確かにここは帝辛の一族の国だ。いかに微子啓殿とはいえ、一族の長老もいるだろうし時間がかかるのだろう。


「少し商の内情を知らせておこう」

 そう言って、微子啓殿が教えてくれた話は極めて重要な内容だった。



 いわく、周による商への包囲網が完成しつつあって、すず鉱石の輸入が止まってしまい。そのために青銅の生産が少なくなってしまっていること。

 これは軍事力の低下を意味するわけで良いニュースだ。


 いわく、商では微の南方にある人方じんほうを侵略しようとしている。西方への備えとして、アッシリア人の武将を迎え入れ、周との国境の三門峡に派遣したという。


 アッシリア人の武将か……。厄介だな。

 だが、早めに知ることができたのは幸いだ。早めに子牙くんに伝えておかねばならないだろう。

 どれも見逃せない貴重な情報だが、それを俺たちに伝えるということは、同盟の申し出に前向きということでもある。


 微子啓殿は一転して、厳しい目で俺を見た。鋭い眼光が向けられる。

「しかし君たちは、我が一族が代々君臨してきた商の敵国だ」


 その険呑けんのんな雰囲気に思わず身構えそうになるが、彼は目をゆるめ、急に遠くを見るようなまなざしになった。


「ただ帝辛には、私ももうついてはいけぬ。彼奴あやつは妲己のほかには、傍らにいるのが人ではないかのように振る舞う。強引すぎる政策に反発する諸侯。その結果、今の宮廷は佞臣ねいしんばかりで腐ってしまった。我らが同盟を組むとしたら、それはやむを得なくすることだ。それを覚えておいてくれ」


 ……きっと複雑な心境なのだろうな。


 俺は黙って頭を下げた。


 こうして俺たちはしばらく彼の屋敷で滞在をし、彼が一族、つまり微の国の宮廷を取りまとめるのを確認した。


 次の目的地は商の南部の国々だ。

 出発しようとするとき、微子啓殿がこういった。


「我らは周の灯火を受け入れた。その明かり、絶やさせないでくれ」と。


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