25 武王と子牙



 あれから俺たちは無事に豊邑に到着した。


 豊邑の整備がある程度進んだ時点で、姫発様は服喪の期間を切り上げて都を豊邑に遷すことを発表された。

 一緒に引っ越ししようという人々は、新たに拡充された市街地域に入居することになり、さらに商機を見いだそうとする商人たちも訪れており、今の豊邑は建設と引っ越しラッシュとなっている。



「ねえ。お祖父ちゃん。海でも塩が取れるの?」


 丁の質問に答える前に、

「丁。勉強の間は老師と呼びなさい」

「はい。老師」


 俺はうなずいて、丁の前に広げた地図を指さした。


「普段、この家で使っている塩は岩塩が主に使われている。実はこの岩塩というのは太古の昔にそこが海だったことを証明するものだ」


 岩塩の産出量は少ない。だから塩が貴重となっており、その影響で料理には塩味が少なかったりハチミツを利用した甘いものになっていたりする。


「え? だって岩塩って山の中で採れるんでしょ?」

「ふふふ。面白いだろう。丁が生活をしているこの大地も、実は少しずつ移動しているんだよ。海だったところが、海底から地面が隆起して内海や塩湖となったりして、水分が蒸発して岩塩となるわけだ」


 しかしこの説明は丁には難しいものだったようだ。

 首をかしげながら、

「え? 山が海の底に? そんなこと……、あるの? 想像がつかないよ」

と言う。

 まあ、それもそうだ。プレート理論プレートテクトニクスなんて、この時代の人にはわかるはずもない。


「このまえ竜の骨を見たろう? あれと同じようにごくまれに、山の中から石になった貝や海の生物の骨が出てくることがある。それが証拠なんだが……。

 まあ信じる信じないにかかわらず、とりあえず聞いておきなさい。海水はもの凄くしょっぱいんだが、それは塩の成分が融け込んでいるからなんだよ。

 だから逆に水分を蒸発させると塩が残る、というわけだ。これを人工的に行って塩を生産している」


 ここは豊邑の碧霞の家。俺は今こうして孫の丁に地理を教えていた。


 特に力を入れているのは海に関する内容だ。いずれ海沿いの斉の国に封じられるのだから、その時にこの知識が必要となるだろう。


「塩を生産して内陸の国々に売り、かわりに内陸で生産された物を手に入れる。どこの国も、その国の自然の特徴があり、その特徴に合わせた生産物があるってわけだ。これを覚えておくと、将来、旅をしたときに役に立つぞ」

「あ! なるほど。市場に行くと珍しい物があったりするけど、それって他の国の物なんだ」

「そういうことだ。お店の人なら、それがどこの国のものかってわかると思うから、今度行ったときに聞いてごらん」

「うん」


 そして再び地図を指さして、ここ中国大陸に存在する国々の名前を教える。この国々も、商が滅んだ後は、周によって諸侯が封じられる際に場所が移動してしまう。けれどまずは現在の状況を知り、その風土を教えなくてはならない。

 たとえ支配する人々が替わったとしても、そこに住む民衆の生活には変化がないのだから。


 さて、こうして丁に教えている部屋の後ろでは、春香と碧霞が並んでおしゃべりをしている。まるで授業参観のようだ。


「さすがはパーパだわ。よく知ってるよね」

「ふふふ。あなたの旦那様だって商人だったんだから知っているはずよ。……私たちが知っているのは、それだけ旅をしてきたってことよ」

「そっか旅かぁ。いいな」

「あなたの旦那の立場だと難しいわよね。……平和になったら、小旅行でもしてみたらどう?」


 まあ、こうしておしゃべりできるのも戦況が落ち着いているからだろう。


 人々の生活を守るのは国であり、都市だ。今も子牙くんは整備工事を指揮しているはずだ。

 今この時も、耳を澄ませば遠くから作業の槌音つちおとが聞こえてくる。


 ここ豊邑のあたりは、後の長安にあたる。厳密にはここより東部に長安ができるわけだが、その長安も唐代に拡充され、碁盤ごばんの目のグリッド状に整備されて日本の平城京のモデルになった。

 しかしこの時代はそうではない。グリット状の都市デザインは、流通には便利かもしれないが、ひとたび敵軍の侵入を許せば、直線の道路であっという間に心臓部である宮殿域に突入されてしまう。


 子牙くんがデザインした図面を見るに、どうやら現在の防壁の外側にさらに壁を作って2重の防壁するようだ。壁と壁の間には町を広げるものの、設置される門は直線上に並ばないようにしてあり、道路も直線的にならないように工夫されている。

 より攻められにくく守ることを意識していることが明らかだ。


 日に日に建物ができ、新しい住民が増えていく。いざこざもあるけれど、変化していく町を見ていると新しい時代の到来を強く意識してしまう。


 やがて戦いは終わるだろう。その時、新しい時代を築くのは丁たち若い世代だ。

 そして、その丁は地図を見ながら、国々の名前を覚えようとうなっている。


 そっとその頭をなでると、顔を上げて、

「老師?」

といぶかしげな表情を浮かべた。丁に笑いかける。「なんでもない。……大きくなれ。丁」

「う、うん」


 窓の外を見る。今日も晴れた空の高いところを白い雲が動いている。きっと偏西風が西から東へと強く吹いているのだろう。


「うん。今日もいい天気だ」



◇◇◇◇

 その日の夜。

 いつになく帰りが遅い子牙くんに、春香と碧霞を先に休ませた。

 自宅に帰らずに宮殿や工事現場で寝るときは、いつも必ず連絡があるのだが、今日はそれもない。どれだけ遅くなっても帰ってくるつもりなのだろうが、……これは何かあったな。


 案の定、夜ふけに帰ってきた子牙くんは、疲弊ひへいしきって顔色が悪くなっていた。

「遅くなりました」

 今朝は普通だったのに、何があったんだろう?


「お疲れ。……休ませたいところだが、相談したいことがあるんじゃないか?」

 そういって机の上に彼の分の盃を置いた。「はい」と言って座った子牙くんは弱々しく微笑み、

「師父にはかないませんね」

と言う。「なに、婿むこ殿のことだ。ほうっておくと一人で抱え込みすぎるだろうからね」

「まったくその通りです。実は今日、工事現場に呼び出しが掛かり、宮殿に戻ったのです。姫発様から――」



 それから離してくれた内容を聞いて、知らずのうちに俺も眉をひそめた。


 なんでも執政の間ではなく姫発様の部屋に通されたことから、どうやら呼び出しが内々の事だとわかったそうだ。


 中に入るとすぐに、

「一体いつになったら東征するのだ?」

と尋ねられたという。


 子牙くんは、豊邑の整備が終わり次第、周辺諸国、そして、商の内部にいる諸侯の取り込みをはかるつもりだったそうだ。

 それを申し上げると、発様からは、

「いいか。とにかく商を滅ぼす。手段は問わん。一刻も早く滅ぼせ!」

と厳しい声音で命じられた。


 文王様ご逝去の際は、子牙くんを亜父と仰ぐとしていたのに。早くもその関係が崩れてしまっているのか。


「商は討伐します。……しかし、その後も問題となります。いかに我が国が商や周辺諸国をまとめあげ、新しい秩序を作り出すのかを考えませんと」

「そんなことはどうでもいい!」

 発様はみにくく顔を歪め、

「いいか! 我が父を幽閉し、我が兄を殺した! あいつらに復讐せよ! 殺し、滅ぼせ! それこそが我が望み。後のことなどどうでもいいんだ!」

と言ったという。


 目の前の子牙くんは疲れ切った表情でうつむいている。

「それが姫発様の本音でした。文王さまは天下のため、それでもなお天命を見極めてと苦悩されておりました。しかし、商と戦うその理由は大義のため、独裁者から民草を守るためであったのに……」

 姫発様は復讐が目的だったというわけだ。


「私が文王様にお仕えしたのは、こんな理由ではなかった……」

 酒杯がひっくり返るのもかまわず、子牙くんは頭を抱えた。


「志立たざれば、それはあたかも舵のない船のようなもの。周はこのままだと進路を失い迷走してしまう。刃を突きつけられようとも志は変えてはいけないのです。

 ああ、私はいかにすべきか……」


 ブツブツとつぶやく子牙くんの頭を見る。


 わだかまりを捨てて、天下の大義なるものに生きることができれば、それは崇高な理想的な姿だろう。しかし、人の世はこんなにきれいなものではない。


 多くの国々は生まれては滅ぶ。そのどれもが正義や天下などを重んじて戦ったのではない。

 そもそもが正義なんて決まったものがあるわけじゃない。人には人の、その数ほどの正義があるんだ。

 歴史の大きなうねりの中に、力のある者もない者も、人は巻き込まれ、踊り、そして、流されていく。そこには善も悪もない。


 だから……。だからこそ見失ってはいけないものがある。


「子牙くん。君には何がある。……今、君のそばには誰がいる?」


 子牙くんが顔を上げた。救いを求める者のすがる目が俺を見る。

「私にあるもの。そばにいる者……」


「君には碧霞がいる。丁がいる。君が守るべきものは何だ? どうすれば守れる? 道を見失いそうになっているのなら、まずは君にとって大切なものが何かを考えなさい。それがわかれば、また道が見えてくるはずだ」


 君は一人じゃない。迷ったときは自分の大切な人を思いなさい。なにが大切なのか。なにを守るべきなのか。


 その答えは君の心の中にあるんだ。


 子牙くんが目をまたたいた。

「……さすがは師父です」


 転がった盃を置き、酒をつぐ。


 天命を重んじていたのだろう。それが復讐のためと変わってしまったのならば、ショックを受けるのも当然だ。

 だが、その天命の赴く先はどこだろう? それは君が大切な者を守る道と同じ方向にある。俺はそう思う。


「……師父。もう一つ報告があります」

「なんだい?」

「姫発様の御子・じゅ様の教育係を命じられました。はじめは何故かと」

「その意味はわかるかい」

「はい。今ならはっきりと……、発様もおわかりになっているのです。復讐の戦いのむなしさを。故に新たな時代は誦様にと」


 俺は盃を手に取ると、子牙くんも自分の盃を手に取った。

 2人で盃を掲げる。


「……また君に重い責任がかかるね。だが――」

「大丈夫です。もう迷いはしません。私は一人ではないのですから」


 盃をカツンとぶつけて、くいっと飲み干す。

 迷いのない目。そうだ。その目だ。君ならできるさ。


 こうして俺は、娘婿と2人きりの酒宴をつづけるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る