34 決意
碧霞が子牙くんと斉の国に行った次の年、春から夏に変わろうとしているある日。
俺と春香は朝の早い時間に、林の中を歩いていた。
山の谷間には白い
と、倒木にヒラタケが生えているのを発見。さっそく採って腰の
「おっ。椎茸見っけ!」
隣では春香が木に生えていた椎茸を見つけたようだ。
「見て見て! すごい肉厚だよ。これは美味しそう」
顔の近くに椎茸を掲げて、にんまりと笑う春香。すごく楽しそうでなにより。
野生のきのこは食べられるかどうか迷うものも多いが、さすがに500年以上も生きているから、ある程度はわかるようになっていた。もっとも俺たちが毒きのこを食べて、お腹を壊したりするのかどうかも怪しいけれどね。
やわらかい苔や下生えの若葉の上を歩きながら、森林の空気を胸いっぱいに吸い込む。新鮮な空気に心も体も内側から洗われるようだ。いつの年も、この季節は気持ちが良い。
時たまヒョイッと兎が顔を出している。木の皮には猪がかじった跡がついている。
森は、そこに生きるものたちに、豊かな恵みをもたらしてくれるのだ。
「今晩はきのこを
そう言いながらも、春香は機嫌良さそうに鼻歌を吹いていた。
うちの
そんなことを考えながら、ゆっくりと森林浴をしながら家路についた。
お昼を食べ終えてから、特に何をするでもなく春香とキッチンテーブルに座る。
窓の外には、木々や山々の上にどこか優しげな春の朗らかな空が広がっていた。空の底を2羽のトンビがゆっくりと円を描きながら飛んでいる。
その軌跡を目で追いながら、
「なあ、春香」
「なあに?」
「そろそろ、ここから離れる時じゃないかな」
唐突に言った俺の言葉に、
「え?」
と、春香は息を呑む。
「この時代の平均寿命はさほど長くないだろう。……俺たちは充分に人の一生を生きたんじゃないだろうか」
「……でも、そうすると碧霞にも会わないの?」
俺は春香の目をまっすぐ見る。
一瞬、すべての音が無くなった。
「ああ。お別れを告げる時だろう」
俺の言葉を聞いた春香は、じっと固まったように動かない。
「いずれ親は子に先立って亡くなるものだ。俺たちは死ぬことができないが、それでも人として子供の元を去らないといけないだろう」
石になったように微動だにしない春香だが、彼女の気持ちもわかる。俺も碧霞の親だ。死別する以外に、碧霞と別れたくはない。いつまでも一緒にいたい。そう思う。
……だけど。俺たちは神なんだ。ずっと碧霞と同じ時を歩んでいくことは許されないし、できないことだ。たとえ今のように、人としてここで暮らしていたとしても。
身を切られるように辛いことだろう。ここでの生活が幸せだった分、尚のこと離れがたいし、別れは、耐えがたく、辛い。
じっと春香の目を見続ける。もちろん、今はまだ先延ばしにしようと思えば、それでもいい。とはいえ、まだいつか、まだいつかと先延ばしにしても、それほど遠くない時期に限界はくるだろう。親より先に子が死ぬのは不幸だし、彼女の臨終を看取りたくはない。
「……そう」
ようやく口を開いた春香は、それだけ言うと、そっと目を伏せる。
俺は、テーブルの上に乗っている彼女の手の上に、すっと自分の手を重ねた。
春香にもわかっている。俺も辛いと思っていることが。しかし、これもまた……。神となった俺たちの宿命なんだよ。人と同じ時間を歩くことには限界があるんだ。
「そうか……。やっぱりお別れしないと、だよね」
「辛いけどな」
春香の手をさすりながらそう言うと、彼女はそっと微笑んだ。
「仕方がないことだよね……。ずっと死なせないでいるわけにもいかないし」
「ああ。そうだな」
「でも……。それでも、辛いね……。寂しいよ」
そう言う春香の目尻から、一筋の涙がこぼれる。俺はすっと立ち上がって春香の横に座り、肩を抱き寄せた。
子供をあやすようにゆっくりと身体を揺らしながら、彼女の耳元でささやく。
「俺も同じだ。…………すまん。春香」
俺たちが神様でなければ。春香に霊水を飲ませていなければ。……一番最初の、やり直す前の人生で春香とともに歩けていたなら……。こんなことにはならなかったのだ。
「ううん。いいの。貴方と一緒に生きるって決めたのは、私の望みでもあるんだから。それに霊水を飲んだから碧霞とも出逢えたのよ」
「それでも、すまん」
「ううん」
そのまま抱き合いながら、「すまん」「ううん」「すまん」「ううん」と言い続ける。
しばらくすると、急に春香がクスッと笑った。
「碧霞の子孫といつか会えるかな?」
「もちろん会えるさ」
「じゃあ、碧霞そっくりの子とかもいるかも」
「ははは。そうだな……。子牙くんとか、丁とか、玉さんにも似てる子もいるだろう」
「それは楽しみだねぇ。そっかぁ……」
これからの中国では多くの戦乱が起きる。戦国時代を繰り返し、子牙くんの斉の国もいつかは滅びるだろう。
それでもだ。遥かな、遥かな時の先に、俺たちはきっと二人の子孫に会うことができるだろう。そういう妙な確信が俺にはあった。
「それでだ。今後のことなんだが、まずは斉の国に行って――」
春香にこれからの予定を相談する。
神妙な様子で話を聞いている春香を見ながら、俺は不覚にも泣きそうになった。
春香がいなかったら……。きっともっと辛かっただろう。
春香がいなかったら……。碧霞を育てようとは思わなかっただろう。
春香がいなかったら……。人と関わりを持たなかっただろう。
春香がいなかったら……。俺は独りぼっちでさまよい歩いていただろう。
彼女が傍にいてくれるだけで、どれだけ多くの幸せが訪れるのだろう。
心から。心から愛してる――。
――――。
◇◇◇◇
それから数日がして、いよいよ斉の国に出発する日が来た。
玄関に鍵を掛け、ギリシャ、ナクソス島の家にしたように封印を行う。……これで見ず知らずの人がここを発見することすらしにくくなったはずだ。
出発前にお墓に行く。
二人並んでしゃがみ、黙祷を捧げた。
目をつぶり、心の中でそっと、
「今ではあの子が、斉の国のお妃様らしいですよ」
と語りかける。
俺たちは斉の国に行った後で、シルクロードを西に向かう予定だ。
けれど、この場所にはもう寄らない。……ここは思い出が一杯になりすぎた。寄ってしまうと、また出発が辛くなる。
やがて黙祷を終えて立ち上がり、春香と一緒にお墓を見下ろした。
あの日。ここに眠る女性と出逢い、託された碧霞。
お陰で、俺たちにも人並みの幸せを味わうことができた。そう思うと感謝の気持ちが湧いてくる。
「貴女はこれからも碧霞を見守るのでしょうね。……しかし、俺たちはそろそろお別れの時です。俺たちと
……だからお願いします。俺たちの分も、あの子を見守ってやって下さい」
そうつぶやいた時、あたかも俺の願いに応えるように、一際強い風が俺たちをつつんで、そのまま東の方へと吹き抜けていった。
ひゅうおおぉぉと身体を風が通り過ぎるとき、木々のざわめきとともに、かすかに「ありがとう」と声が聞こえたような気がした。
俺と春香は顔を見合わせる。そっと差し出した右手に、春香が左手を繋いでくる。
また2人の、俺たちの旅が始まるのだ。
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