35 泰山
斉の国の宮殿に無事に到着した俺たちは、すっかり
春香と交替で抱っこさせてもらうが、やはり母親でないとダメなのか、俺はすぐに泣かれてしまう。
玉さんに抱っこされている季に、人差し指を近づけると、小っちゃなおててでギュッとつかんでくる。羽二重餅のように柔らかいほっぺを堪能し、俺の頬もゆるむ。
丁に聞いたところ、子牙くんは執務室でお客さんに会っているらしい。そして碧霞は……、ここから南にある
子牙くんのところに会いに行くと、途中の廊下で文官に連れられた年老いた女性とすれ違った。どうやら、あの女性がお客さんだったようだ。
執務室に入ると、子牙くんが困ったような表情を浮かべて、俺たちを迎え入れてくれた。
見ると床が濡れている。
疑問に思ったが、すぐに子牙くんが教えてくれた。
「実は、先ほどの女性は……、昔、別れた馬氏の元妻なのです」
え? それって碧霞の前の?
なんでも周の天下となり、その丞相に子牙くんがなっていると知り、はるばるここまでやって来たという。復縁を迫ってきたのだそうだ。
しかし当然のことながら、子牙くんにはそんなつもりはない。そこで目の前で
……そうか。覆水盆に返らずの故事は、子牙くんの関係する話であったか。
「もっとも、本当の狙いは復縁ではないのですよ。商の武人一族であった馬氏の者として、周での地位と、その保証を求めてやって来たのです。……別れたとはいえ、かつて妻であった女性の頼みですし、一族の者が強いことも私はよく知っています。ですから、
「なるほどね。俺はいいことだと思う」
このように説明をしてくれるのは、おそらく子牙くんは前妻の事だけに、俺のことを気にしているのだろう。そんな心配はしてはいないし、子牙くんもそれはわかっているだろうけれど。あくまで気分的な問題として。
「よかった。師父に責められたらどうしようかと」
「しないしないって。……それともいまだに未練が?」
と尋ねると、あわてて、
「あるわけないですよ!」
と返事がかえってきた。
「だろ? 俺もわかってるさ」
ふふふ。かつての軽快なやり取りが戻ってきたみたいだ。
子牙くんからはゆっくり滞在して欲しいと言われたが、それはできない。俺たちは碧霞の居場所を聞くと、そこに向かうことにした。
名残惜しそうな子牙くんの肩を叩き、
「今の君は忙しいんだろ? 俺たちのことより自分の
と言うと、納得したようにうなずいていた。
「さすがは師父です……」
いつものセリフを最後に聞いてから、俺たちは宮殿を退出し、教わった街道を通って南に向かう。
見送りに出てきてくれた、子牙くんや丁たちの姿を見る。彼らには彼らの生きるべき道がある。
だからというわけでもないが、俺たちが旅に出ることは言わない。別れを告げずに去ってしまうことに罪悪感が湧くけれど、どうか許して欲しい。
後で怒るだろうし、悲しむだろう。しかし、煩わしいから言わないのではない。
……俺たちは静かに舞台から去るのみだ。
◇◇◇◇
濃い緑を茂らせている木々の間を、俺と春香の乗ったロバ車が進んでいく。
やがて道は山間の道に入っていった。
黄土高原の、俺たちの暮らした山と、似ているようでどこか違う風景。ここ、泰山に碧霞がいる。
泰山といえば、中国で霊験あらたかな山として有名な場所。なぜ碧霞がここに来ているかといえば、なんと孤児院を開設したらしいのだ。
そして、今日はそこへ慰問に行っているらしい。
さえずる鳥の声と川のせせらぎだけが聞こえる静かな林道。つづら折りの道をのぼった先に、その孤児院はあった。
まるで昼休みの小学校のように、子供たちのにぎやかな声が聞こえてくる。
ロバ車のままに中に入ると、さっそく俺たちを見つけた子どもたちがワラワラと集まってきた。
およそ20人くらいだろうか。下は幼稚園の年少クラスから、上は中学生ぐらいの子までいる。やや女の子の方が多いかな。
「どちら様ですか?」
なかでも一番年長と思われる中学生くらいの男の子が、緊張しながら尋ねてきた。
「俺たちは碧霞の親だよ」
と言うと、
「ああ、ニャンニャンの……。ちょっと待ってください。今、呼んできますから」
と言って、一人建物の中へと入っていった。
山の中に広めの幼稚園ほどの土地が切り開かれ、周りには柵がめぐらしてある。どうやらあの柵の向こうに畑があり、さらに柵を
建物は瓦屋根の平屋建て。明るめの壁の傍らに農作業用の道具が置いてあった。
小さい子どもたちが、
「ねぇ。どこから来たの?」
「ニャンに何のご用?」
などと聞いてくる。幼稚園に遊びに来たみたいな雰囲気に、春香もニコニコと満面の笑みを浮かべていた。
碧霞を待ちがてら、お話を聞いてみる。
なんでも、ここにいる子どもたちはいわゆる戦災孤児だという。
周と商との戦争で親を亡くした子どもたち。また商と微や人方の戦いで親を亡くした子どもたちを、見つけては保護をしたらしい。
本当はもっともっと多くの孤児がいると思うが、本当の意味で天涯孤独となってしまい、かつ助けられたのがここにいるだけの人数なのだろう。
春香が荷台から手作りのクッキーを取り出した。
「はい。これ。私が作ったの。みんなで分けてね」
と言うと、子どもたちが歓声を上げながら取っていった。
俺は大きな子どもたちに手伝ってもらって、持って来た食料、お米や野菜、魚の干物の入った荷袋を順番に手渡していく。
その荷下ろしをしている間に、碧霞が小走りでやって来た。その後ろからはここで働いているのだろうか、数人のご婦人と男の人の姿も見える。
「パーパ! マーマ! お久しぶり!」
満面の笑顔の碧霞に、右手を挙げて「おお! 元気そうだな」と声を掛ける。
運び込まれる荷物を見て、
「ありがとうね。こんなに色々と持って来てもらって」
と言うので、俺はその頭をぽんぽんと叩いた。
「気にするなって。俺たちにはこれくらいしかできないからな」
建物の軒下で、子どもたちが一列にずらっと並んで渡したお菓子を食べている。その姿を見ながら、俺たちは碧霞の案内で中に入った。
「遠かったでしょう」
と、お茶を出してくれる碧霞に、俺は笑って頭を横に振る。
「そんなことはないさ。……ここでの生活には慣れたかい?」
と尋ねると、やや疲れの残った笑顔で、
「ふふふ。そうね。だいたいは、慣れたかなぁ」
と言った。
春香が笑いながら、
「まだ一年でしょ? これから少しずつ慣れていくわよ」
「そうよね。なんだかあっという間に一年が過ぎちゃったのよねぇ」
それでも一年経てば、なんとなく行事の流れがわかる。風習も。
これから、この土地に少しずつ融け込んでいけるだろう。
「それにしても、貴女が孤児院なんて、ビックリしたわ」
そうそう。俺もそれは思った。
すると碧霞ははにかみながら、
「実はね……。ここに来る途中に親のない子どもたちを見てさ。思ったの」
「うん」
「私みたいだなって」
「……うん」
「だから、パーパとマーマみたいに、私がこの子たちのニャンになれたらってことで、子牙様にも相談して連れてきたのよ」
そう言われると、不思議とじぃぃんと感動してしまう。
そっか……、立派になったな。そんな感慨が胸に湧き起こった。
朗らかに笑っている碧霞は、毎日が充実しているようだ。ここでは彼女はみんなの母親になっているのだ。
「まあ、今では月の4分の1くらいだけだけど、こっちにいるかな」
と言って、照れたように微笑む碧霞。その笑顔に、俺は彼女を誇らしく思う。
それから俺たちは建物と外に出て、子どもたちと一緒に遊んだ。
なんでも午前のうちに農作業を済ませ、お昼から大きな子どもたちは仕事があるけれど、小さな子どもたちは勉強と遊びの時間となっているという。
というわけで、俺は数人の男の子を連れて、近くの竹林にやって来た。
腰のナタを抜いて5本ほど、竹を切り倒す。簡単に枝を払って、みんなで引きずりながら持って帰った。
枝は集めて紐でくくって竹ぼうきを作り、竹は節のところで切り落とす。細い竹筒の先端に布を巻き付けて糸で固定をし、太い竹筒の節のところにはキリで小さな穴を開ける。
そう。作っているのは水鉄砲だ。
幸いにここは湧き水があり、小さなせせらぎが園内をよぎっている。洗濯や炊事に使っているようだが、当然、水遊びにも最適だろう。
最初の一つを作って実演してやると、男の子も女の子も目を丸くして見ていた。
それからは大忙しだ。早く早くと子どもたちにせっつかれながら、ひたすら水鉄砲作り。途中からは大きな子たちもやって来て、俺の手許を見ていた。
よく作り方を見ておけよ。これからは自分たちで作れるように。
大きな女の子たちは春香と碧霞と一緒に、建物の中でお菓子を作っているらしい。
目の前では、一人の男の子が水鉄砲から周りの子どもたちに向かって、ピューッと水を出している。掛けられた方も、同じく水鉄砲でお返しとばかりに水を掛けている。
どの子も服が濡れ、足も泥だらけになってしまっていた。それでもその顔には満面の笑みが浮かんでいる。
綺麗に晴れた空の下で、一生懸命に遊ぶ子どもたち。水が空中に小さな虹を描く。子供たちの笑顔もキラキラと輝いているように見えた。
夜になり、遊び疲れた子どもたちを水浴びさせて、そして寝かしつける。
静かになった孤児院の一室で、ようやく碧霞とゆっくり話ができる時間となった。
ランプの明かりがジジと燃えている。
「どの子もみんな良い子だな」
「ふふふ。そうでしょ」
と、うれしそうな碧霞に、春香がうなずいて、
「貴女があの子たちの母親になっているから、みんな楽しそうなのよ」
と言う。
俺は一つ息を整えると、意を決して碧霞を見つめた。
「なあ、碧霞」
急に雰囲気が変わったことに、碧霞はビクッとして俺を見る。
……その表情からは、この先の話をできれば聞きたくないという気持ちが読み取れた。
碧霞は碧霞で何かを感じていたのかもしれない。
「驚かないで聞いて欲しいんだが……、俺と春香は一度西域に旅に出ようと思う」
「え? うそ?」
「いいや。うそじゃない」
碧霞が春香の方を見るが、春香も黙ってうなずいた。
「な、なんで? どうして? そんな遠くに。だってもう年なんだよ! なぜ? 私たちが、嫌いになったの?」
混乱しながら声を荒げる碧霞に、俺は自らの神力を広げて包み込む。
碧霞の前にしゃがみ込んで、膝の上で固く握りしめられている両の拳の上に、手を重ねた。
「そうじゃない。そうじゃないよ。碧霞」
そう言いながら碧霞の顔を見上げた。
「俺たちがお前を。お前たちを嫌いになるわけがない。ずっと。愛してる。その気持ちは本当だ」
「……だったらなぜ」
「親はいつかいなくなるものだ。だがな。俺と春香は、お前に死を看取ってもらいたくはない。だから、ずっといつまでも、どこかでお前のパーパとマーマは元気で生きているって思っていて欲しいんだ」
「そんなの! そんなの! ……ないよ」
碧霞の目尻から涙がツーッと頬を流れる。
「頼む。聞き分けてくれ。お前には子牙くんもいる。丁や玉さんも、そして孫の季もいれば、ここにたくさんの子どもたちもいるじゃないか。みんなのマーマとして、俺たちを見送って欲しい」
神力を言葉に乗せ
「ま、マーマ。お願い。私を置いていかないで」
そう訴える碧霞に、春香も泣きながら、
「碧霞。そうはいかないのよ。……貴女もうすうす感じているんでしょう。私たちが誰なのかを」
春香はそう言いながら、碧霞の頭を自らの胸に抱きかかえた。泣く子をなだめる母親の姿がそこにはあった。
「パーパについていけるのはマーマだけなの。もう私たちが手を引いていた、小さな歩幅だった貴女じゃないのよ。貴女は貴女のペースで歩いて行ける。寄り添って、並んで歩いてくれる人だっているでしょ?」
碧霞はその言葉に答えられなくなり、抱かれるままになっている。
そっと春香が碧霞をなで続ける――。
しばらく無言のままで時が流れていく。
「もっと早く知りたかったな」
「すまんな。でも、そうするとズルズルしてしまうから……」
「それでもよ」
春香が碧霞の髪を撫でながら、
「愛してるわ。私も夏樹も、ずっと貴女を愛してる」
「うん。マーマ……」
俺は鞄から人形を取り出した。幼い頃、碧霞が遊んでいたあの人形。
そのうち、俺と春香の2体を碧霞の手に握らせる。
人形を見た碧霞が目を細めた。「この人形は」
「寂しくなったら、この人形を俺たちだと思いなさい」
そう言って、幼い子供の碧霞の人形を手に持ち、
「俺たちも、この人形を大切に持っている」
碧霞は2体の人形をそっと胸におしいだいた。
「……うん。パーパ。マーマ。ありがとう」
その言葉には万感の思いがこもっていた。俺も碧霞を抱きしめる。このぬくもりを俺は決して忘れない。
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