3 託された幼子
「ふわあぁぁぁ」
隣で春香が眠そうに欠伸をしている。
「後ろの荷台で少し横になるか?」
「ううん。隣がいい」
「そっか。ならもっと寄りかかっていいぞ」
「うん。そうする……」
まるで子供のようなことを言いながら、春香は俺の右肩によりかかって、すぐに寝入ってしまった。
昨夜泊まった宿では、他にも旅人がいて同じ部屋で寝ることになってしまった。それもあって、きっと眠れなかったのだろう。
もちろん、俺たちは部屋の端の寝台で、寄せ合うように寝てはいたけれど。他の人がいるといないとでは違うからね。
「すぅー。……すぅー」
穏やかな春香の寝息が聞こえてくる。起こさないように慎重に俺はロバ車を進めた。
どこかいい匂いのする髪が肩をくすぐる。このぬくもりが、かけがえのない宝物のように思う。
今日の
できれば帰宅するまで、天候が保ってくれるといいんだが。
何事もなく大きな街道から、俺たちの家のある山の中へと向かう林道に入った。そのまま細い林道を少し急がせていく。
春香がううんと言いながら、ようやく目を覚ました。左右をきょろきょろと見回して、俺と目が合った。まだ寝ぼけているようだな。
「ん~……。ふふっ」
急に含み笑いをして、がばっと抱きついてきた。
「おわっ」
体をひねって春香を受け止めるが、危うくロバ車から転げ落ちそうになった。そんなことにも気がつかずに、春香はぐりぐりと顔をすり寄せている。
まったく……。俺もそうだが、春香も寝起きが弱いんだよな。
長い髪が顔に当たってくすぐったいのを我慢して、背中をトントンと叩いてやった。
「ほら、目を覚ませって……」
そっとその頭にキスをすると、ようやく顔を上げた。
「甘えん坊さん。おはよう」
再びチュッとキスをすると、春香はにへらっと笑顔になった。
身体を離して、ん~と伸びをして、
「ふぁ~あ。すっきりした!」
というものの、再び欠伸をしている。その拍子に空模様に気がついたのだろう。
そのまま上を見あげて、
「なんか雨降りそうだね」
と心配そうにいう。
「あと1時間ほどで家だ。なんとか保てば……」
と言いかけたとき、春香が何かを見つけた。
「あれ? ……ちょっと待って!」
ロバ車を停止させる前に、春香はさっと馭者台から降りて林の中に入っていく。
「ちょっと……」
一人だと危険だぞ。
急いでロバ車を止めて後を追って林に飛び込むと、茂みの影に隠れるように一人の女性が倒れ込んでいた。
春香はそのすぐ横にしゃがみこんでいる。かすかに息があるようだ。
俺は周りに危険がないかどうか気配を探りながら、その女性の様子を確かめる。
……
途中で履き物をなくしたようで、足が血と土が混じり合って傷だらけになっている。
よく見ると来ている衣類にもところどころ穴が開いていて、すっかり乾いた血の跡が見える。
あの傷は矢を射かけられたようだが、いったい何かから逃げてきたのだろう。まさか盗賊に襲われたのか? 今のところ気配はないが……。
ろくに食事も水もとっていなかったようだが、すでに
その女性がかすかに目を開けた。ブルブルと震えながら右手を宙にのばす。
春香がその手を握り、さっと女性の口元に耳を寄せた。かすかな声を聞いて、うなずいている。
「わかったわ。任せなさい。……だから安心してゆっくり眠りなさい」
その言葉を聞いた女性はかすかに微笑むと、ふっと力が抜けたように目を閉じた。
じっとその女性を見つめる春香の肩にそっと手を乗せると、春香が首を横に振る。
「……息を引き取ったわ」
見知らぬ女性とはいえ、こうして看取ることになったのも何かの縁だろうか。なんともいえない痛ましい気持ちになる。
どうにかここまで逃げてきたのだろうが、もう少し早く出会えていたら間に合ったのかもしれない。
今は眠っているように横になっている女性。そっと黙祷を捧げようとしたとき、春香が女性の脇から大きな布包みを取り上げて抱え込んだ。
慎重な手つきで布を開いていくのを見守っていると、急にその包みがびくんと動いた。
「
春香がぎゅっと抱きしめて、
「大丈夫。大丈夫。あなたのママはここにいるわ」
と耳元でささやきながら、ゆっくりと揺りかごのように身体を揺らして、その子をあやしている。
「ニャン――」
けれども実の母が亡くなったことを本能的に悟っているのか。その子はお母さんを呼びながら激しく泣き続けた。
暴れるその子の指が頬をひっかくが、構うことなく春香は辛抱強く抱きしめている。「大丈夫。大丈夫よ。ここにいるわ。大丈夫」
小さな背中を優しくトントンと叩いたり、さすったりしながら、ひたすら耳元でささやき続ける。
春香の目から、きらりと涙がこぼれ落ちた。あたかもその子に訪れる悲しみを、その一身で引き受けようとするかのように。
「大丈夫よ。大丈夫――」
俺はそっと春香の背中に手を添えた。ちらりと俺を見る目は切なげだった。
やがてその子は泣き疲れて、電池が切れたようにすとんと眠りに落ちた。
けれども春香は「大丈夫。あなたのママはここにいるのよ」と、まるで子守歌のように、そっとささやき続けていた。
俺はロバ車に戻って布を取り出して、亡くなった母親の顔を拭き清める。そのまま女性を抱きかかえ、荷台に横たえた。
……せめてお墓をちゃんとした場所に建ててやらなくては。
「ねえ。夏樹……」
すがるような目で俺を見つめる春香。その目を見るまでもなく、春香が言いたいことはわかる。
その子を――。託されたその子を育てたいんだろう。
子供のいない俺たちには、当然、子育ての経験はない。けれども、その大変さよりも、その子に一人前の人生を歩ませなければならない。その責任がある。
だから、決して自分たちが子供が欲しいからという安易な気持ちで、その子を育ててはいけないと思う。それが、かつて俺たちの生きていた平成の日本だったならば……。
まあ、ぐだぐだ言わずとも、俺も春香と同じことを考えている。
その子を放り出すという選択肢はない。ただ……、親になるのはそんな軽いことじゃない。必要なのは覚悟だ。
その子がどのような人間になろうとも、親として愛し続けるという覚悟。
必ずしも善人になるとは限らない。悪いことだってするかもしれない。それでも親は無条件で子供を愛するものだ。
みずから腹を痛めた子ではないのだから、なおのことその覚悟が必要だろう。
俺は春香のそばにより、その腕に抱かれている幼子をのぞき込んだ。黒い髪にぷっくらした頬に、涙の跡が残っている。
ややつり目がちだが、それは母親譲りなのだろう。そっと頭を撫でる。幼子独特の細く柔らかい髪を触っていると、不思議な実感が湧いてきた。
そっか。この子が……、
俺たちの一人目の子供になるんだな。
心配そうに俺を見上げる春香に、にっこりと微笑みかけ、
「名前はどうする?」
すると春香はほっと安心したような、うれしそうな笑みを浮かべ、少しあわててその子の服を持ち上げた。
「あっ、名前? 名前は
そこにはつたないながらも丁寧に名前が刺繍してあった。
ゆっくりと指でなぞる。
碧霞……。女の子だ。
母親は、まだ若い女性だった。
きっと娘が大きくなるのを見たかったに違いない。もっともっと一緒に暮らしたかっただろう。成長した娘と、友達のように笑い合いたかっただろう。
どのような気持ちでこの布に針をあてたのだろう。なにを願いながら糸を重ねたのだろう。……そして、いったいどのような悲劇が彼女を襲ったのだろう。
碧霞という名前のように美しい青緑の糸。そこに込められた母の愛。その愛を、これからは俺たちがこの子に与えなければならない。
「そっか。碧霞か。いい名前だ」
眠り込んでいる碧霞を見下ろし、
「碧霞。これからは俺と春香がパパとママだぞ」
と語りかけた。
そういえば母親の名はなんていうんだろう……。あとで形見になるものなどを探しておかないといけないな。
いつか。この子が大きくなったと時に、君の実の母は命がけで君を守りぬいたんだよと教えるために。
その時、不意に雨が降り出した。
「やば!」
「急ごう!」
俺と春香はあわててロバ車に乗り込み、自宅への道を急いだ。
◇◇◇◇
「すっかり濡れちゃったな」
林道の上に張り出した枝葉でそれなりに雨を
俺たちの家とはいっても、むき出しの岩壁にあった洞窟を改造して家にしたものだ。
夏暑く冬寒いここの気候には、こうしたヤオトンと呼ばれる地中の家が適している。どういうことかというと、地中の方が温度が安定していて
事実、ここから北方の黄土高原地帯では、地面を四角く掘り抜いて、そこからさらに横穴を掘る形式の住居もある。
※家の図面(みてみん)⇒https://12485.mitemin.net/i256896/
岩壁にぽっかり空いた洞窟。
その入り口から5メートルほどのところに石壁を作ってあり、そこが玄関になっている。設置した木の扉を開けて中に入ると、そこは広いエントランスだ。
入り口脇のランプに火をともし、左手にある階段を上がる。
2階は、キッチンダイニング、バスルーム、トイレがあり、さらに3階に行くと俺たちの主寝室とお客さん用の部屋があるのだ。
2階のバスルームからタオルを取ってくると、すぐに後から春香が碧霞を抱っこして階段を上がってきた。
大きなタオルを春香の頭の上から掛けてやる。
「さんきゅ」
「碧霞は大丈夫か?」
「うん。抱え込んでいたから大丈夫よ」
碧霞をのぞき込むと、タイミング良く身じろぎをしはじめた。
そろそろ目を覚ましそうだな。その前に……。
「俺は、碧霞のお母さんをご安置してくるよ」
春香にそう告げて、俺は1階へ向かった。一時的にも、碧霞の母親を安置する場所を用意するためだ。
結局、玄関を入ったエントランススペースに作業用の台を置いて布を掛け、そこに安置することにした。
さっそく雨が上がったら、良い場所を探してお墓を作らなければならない。それもなるべく早く、碧霞に見られる前に。
そうでないといつまでも悲しみが続いてしまうだろうから。
作業を終え、ロバを厩舎に連れて行ったころには雨がやんでいた。
「風が……」
上空は強い風が吹いているのだろう。
まるで雲の中で竜がうごめいているかのように、時折、稲光を走らせながら、黒々とした雲が見る見るうちに東に流れていく。
不意に2階の窓から碧霞の泣き声が聞こえてきた。一生懸命あやしている春香の声を聞きながら、俺も家に入った。
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