4 慣れない子育て



 あれから一月ひとつきが経った。


碧霞へきか、いい? 私はマーマ、こっちはパーパよ」


 春香がこっそりと女神としての力、言霊ことだまを使いながら言い聞かせると、さっそく碧霞が、

「マーマ?」

と呼ぶ。

 その仕草が可愛くて、春香ががばっと抱きしめて「はい! マーマだよ!」とうれしそうに笑った。

 くりくりっとした目で俺を見て、「パーパ?」と言われると、思わず俺もにやけてしまう。結局我慢できずに、春香ごと抱きしめたのは仕方がないと思う。


 そんな具合で、俺をパーパ、春香をマーマと呼ぶようになったけれど、まだまだ言葉をしゃべるには至っていない。

 それと、言葉の進み具合から碧霞は1歳になったばかりのようだった。


 夕方になり、台所で料理を作っている春香を見ていると、俺の所に碧霞がトコトコとやってきた。


「あっ」と突然声を上げる碧霞。何か見つけたのだろうか。

「ん?」

「んでぃあでぃー。づくづくづくづくー。マーマ」


 赤ちゃんの言葉はむずかしい。が、その表情を見るに……。

「うん。マーマはごはん作ってるんだよ」

「どぅってぃ」

「抱っこ? ……ほら」


 碧霞の脇に手を差し込んで抱っこをして、そのままイスに座る。碧霞はじっと春香を見ていて、お鍋に何かを入れる度に一生懸命に小さい指をさして何かをしゃべっている。


 その声が聞こえていたのだろう。春香も口元をほころばせながら、時折こちらを見て微笑んでいる。


 ……なんかいいな。こういう雰囲気。


 そう思いながら、膝の上の碧霞の頭を撫でる。すぐに碧霞の興味は春香からテーブルの上に移ったようで、一生懸命に一輪挿しに手をのばし始めた。

 危ないので中に挿してある黄色い花を抜き取って、小さい手に渡してやると、じっとお花を見つめていた。


「ふふふ。本当の親子みたいね」

 春香がそう言ったときだった。

 急に、なにやら膝に違和感が……。


「あっ」

と言いながら碧霞を持ち上げると、そのお尻がべったりと濡れている。……見下ろすと、俺のズボンにも黒々とれた跡がついている。

 おしっこだ。紙おむつがあればいいんだけど、布おむつだからなぁ。


 料理台の方から、

「ぷっ」

と吹き出す声が聞こえた。

 顔を上げると春香が碧霞を指さして、

「すっごい得意そうな顔してるよ」

 くるっと振り向かせると、碧霞が急に「にっひぃ、ははは!」と笑い出した。


 やれやれだ。

 苦笑いをしながら碧霞を床に下ろし、ズボンとおむつを脱がせていると、春香が濡れた布と替えのおむつを持って来た。


 一ヶ月の間でやり方に慣れてきたようで、碧霞は俺の肩に手を置いて待っている。その様子が妙に可笑しくって、なぜか頬がゆるんでくる。

 濡らした布でれいにお尻やおまたを拭いてやり、おむつを巻いて、

「一丁あがり」

とおむつの上からお尻をぽんと叩いてやると、

「んん」

と言って、碧霞はまたイスによじ上ろうとしはじめた。


 汚れた布とおむつを持って、部屋の隅に置いてあるバケツに置き、

「俺も着替えてくるよ」

と声をかけて奥の脱衣場に向かった。


 頻繁にこういう事があるので、今ではいちいち上の寝室に行かなくてもいいように、脱衣場にも俺たちの着替えを用意してあるんだ。

 手早く着替えて、汚れたズボンはそのまま浴室の脇に置いておく。


「――あ!」

 台所から春香が慌てている声と、碧霞の泣き声が聞こえる。

「うん?」

 扉を開け、

「どうし、た?」

 わーっと泣く碧霞の前に、春香が困り顔をしながらしゃがんでいた。その足元には白い粉のようなものがこぼれている。

 なんとなく状況はわかるが……。


 振り向いた春香が、

「碧霞がお塩の壺をひっくり返しちゃったのよ」

と言いながら、とりあえず碧霞を抱っこしてなだめている。「怒ってないよ。大丈夫、大丈夫。びっくりしたね」


 いたずら盛りなんだろうな。

 俺たちなら神力で創造できるから塩はいくらでも補充はできるが……。これ、一般家庭ならかなり怒られるだろう。


 俺はほうきとちりとりで塩を片付ける。「う~ん。これどうするか……」

 今の時代。普通ならこぼれた塩も不純物を取り除いて使うだろう。だけどなぁ。


「勿体ないけど捨てちゃおうよ」

「そうだな」

 現代人だった俺たちにとっては、さすがに床に落ちた塩を使おうとは思えない。

 ただね……。「大きくなったら、塩を大切にするように教えないとな」


 俺たち基準で育ててしまうと、将来はお金のかかる女の子になってしまう。これは気をつけないといけないみたいだ。


◇◇◇◇

 それからも、すくすくと大きくなっていく碧霞。気がつくとあっというまに9年が経ち、碧霞は10歳に。

 そこで、少し駆け足で碧霞との思い出を話そう。



 ――碧霞3才の夏。

 俺たちはランプを片手に、夜道をのぼり、台地のうえに広がる草原に来ていた。

 春香が一面の星空を見上げて、

「うわぁ。すごくきれい……」

とつぶやく。

 碧霞はそれでも夜の草原が怖いようで、俺にぴったりとくっついていた。

 でも大丈夫。神の一柱である俺と春香に襲いかかるような動物はいない。もちろん、こんなことは碧霞にはいえないけどね。


 ランプを春香に手渡して、碧霞を肩車してやる。

「どうだ。碧霞。星がきれいだろ?」

「うん! きれ! ……うわぁ」

 まだ幼い声で一丁前のことを言う。それがまたおかしくて、俺と春香はくすりと笑った。


 碧霞が楽しんでいる間。春香は持って来たござを敷いて、お茶の準備をしている。

 夏とは言え、この高原台地は風が強くって、気がつくと身体が冷えていることがあるんだ。


 不意に強い風がザアーっと吹き抜け、碧霞が「ううぅ」といいながら、俺の頭にしがみついた。小さな手で俺の目を隠すようにぎゅっとしていて、正直、ちょっと痛い。


 俺は腕を伸ばして小さな身体を持ち上げて、ぎゅっと普通に抱っこすると、

「あははは! パーパ。こちょこちょ」

とか言って笑い出した。

 そっか。この態勢でよくくすぐっているから……。でも、今はやらないよ。


 春香が敷いてくれたシートに行き、親子三人でごろんと仰向けになる。真ん中が碧霞だ。

 こうして寝そべって見上げると、視界の端から端まで星空が広がり、まるで宇宙の中に浮かんでいるような錯覚をおぼえる。


「ふふふ。ギリシャの入り江の夜を思い出すわ」

「ああ。こっちは風があるけどね」

「ん? ギリシャ?」

「えっとね。ギリシャってパーパとマーマが昔住んでいたところよ」

「ふーん。遠いの?」

「そうだね。ずっとずっと遠くかなぁ」

「行きたい!」


 そう言って碧霞は身体を起こして春香をのぞき込んでいる。春香が寝そべったままで碧霞をぐいっと持ち上げて、自分のおなかの上に載せた。

「そうねぇ……」と言いながら俺を見る。

 もっと大きくなったら連れて行けるだろう。もちろんシルクロードの旅になるから、確約はできないけど……。


 そう思いながら、

「碧霞がもっと大人になったら考えてもいいかな」

と言うと、

「うん! 大きくなったら行く!」

と元気よく返事をする。まあ、わかっているのか、わかっていないのか……。でも、機会があれば一緒にシルクロードを旅するのもいいな。

 それから俺たちは起き上がり、温かいお茶を飲みながら星空を楽しんだのだった。



 ――碧霞5才の冬。ヤオトンの家とはいえど、さすがに冬の夜は寒い。

 2階のキッチンなど、いつもいる部屋には火鉢を置いているが、この時期ならではの楽しみもある。

 お風呂だ。


 春香と碧霞が夕食の片付けをしている間に、俺はお風呂の準備にやってきた。

 浴室の片隅には大きな暖炉が作ってあり、薪が赤々と燃えている。その中に石が入っていて、その焼けた石を湯船に投入してお湯を温める。

 ほかにも焼けた石に水を掛けて蒸気を発生させて、サウナにすることもできる。もちろん今日は普通のお風呂だけどね。


 焼け石を浴槽に沈めると、ジューっと音をしながら蒸気が立ち上る。窓を閉めてあるので蒸気が外に逃げることはない。

 少しずつ蒸し暑くなってくる頃、ちょっと熱めの湯温になった。


「お風呂、準備できたぞ」

とキッチンに戻ると、すでに片付けは終わっていて、春香は着替えとタオルを用意していた。


「サンキュ。じゃあ、早速入ろう」

 すると碧霞は春香のまねをして、

「サンキュ。パーパ。行こっ!」

と言う。その口ぶりが小っちゃな春香みたいで可愛い。……そういえば、この頃には俺と春香が出会っていたんだよな。


 さっそく三人で浴室に向かった。

 この時期は更衣室も寒いから、浴室にすのこを置いてそこで着替えるようにしている。さっさと服を脱いで、洗濯物のカゴに入れ、先に湯船に浸かる。


 ザザーとお湯が石の床にこぼれて広がっていくと、碧霞が楽しそうにチャプチャプと音を立てながらやってきた。

 その後ろからやってきた春香が、碧霞を抱き上げて、一緒に湯船に入った。

「ザブーン」

と春香が言うと、「あははは」と碧霞が笑った。


 さすがに三人が一度に入るとお湯が一気に減ってしまう。俺は入れ替わるように湯船から出て、身体を洗うことにする。

 たらいに湯船からお湯を移し石けんを泡立てた洗い布で身体をこすっていると、碧霞も出てきた。

 タオルで洗ってやると、小さな身体が泡だらけになる。楽しそうに両手で泡をすくって、

「ふー」

と息を吹きかけている。さすがにシャボン玉のようには行かないが、充分に楽しいらしい。

 春香が手桶で湯船からお湯を掛け、泡を流してやる。そのまま春香も出てきて碧霞の頭を洗い出した。


 その間に俺は水を足して焼き石を投入し、減った分のお湯を追加する。そのまま湯船に浸かりながら春香と碧霞を見守った。

 碧霞の頭を洗う春香の胸が揺れている。今は寝るときも碧霞と一緒だから、夜の回数は減っているが、満ち足りた気分で過ごせているから特に問題はない。


「――ふふふ」

 俺の視線に、春香はとうに気がついている。

「また今度ね」という春香に、碧霞が真似をして「ねー」と可愛らしく言った。それがまたおかしくって、俺と春香が2人して笑う。


 洗い終わった碧霞を春香から受け取って湯船に入れ、今度は手で水鉄砲を作って碧霞にお湯を飛ばした。

「きゃー」と笑いながら、碧霞が水鉄砲から逃げるように、目をつぶって湯船の中で足踏みをしている。それを見る春香の顔はとても幸せそうだ。


 再び親子三人で湯船に浸かる。長い春香の黒い髪を手にすくうと、まるで黒い絹糸のようにしっとりとしていた。

「私も」というので、碧霞の髪もすくう。こっちは焦げ茶色でこれはこれで可愛らしい。


「碧霞は美人さんになるなぁ」

「もちろんよね。……悪い虫はマーマが捕って食べちゃうよ」

「虫って……。まあな」


 春香はとっくに親ばかになっている。それは俺も同じだが、嫁に行かないとそれはそれで心配になるだろうなぁ。行けば行ったで心配になるだろうし……。


 そんな俺の表情を見て、

「夏樹ったら、まだ嫁に行くのはずっと先よ?」

「いや、な。すでに嫁に出す父親の気分がわかるような気がしてさ」


 すると碧霞が、

「碧霞、お嫁さんになる!」

と言った。「マーマみたいなお嫁さんになる!」


 その様子に、俺も春香も目尻が下がりっぱなしだ。


「そう。マーマみたいなお嫁さんになるの」

「うん!」

「じゃあ、モテモテだな」

「うん!」


 ……ここで「パーパのお嫁さんになる」と言って欲しいと思ったりするけどね。多分、お嫁さんになるって言っているのはそういう意味なんだろう。


「悪い虫か……。確かに虫はよくないな」

 思わずそうつぶやく俺だった。



 ――碧霞7才の春。

 今日は森の中にある桃の林にお花見にやってきた。


 背中には7本の弦のある琴を背負っている。最近入手したもので、俺と春香とで練習をしているところだ。

 最初の手ほどきこそ、琴を購入した姜子牙くんから受けたが、今では独学なので上手く弾けているのか判断が難しい。ただ習うにしても、地理的な問題があるからなぁ。

 それでも花見に古琴はよく似合うと思う。つたなくとも風情を楽しめればいいだろう。


 7才になった碧霞は背も俺のお腹ぐらいの高さになった。今日はピンクに朱の帯の着物を着て、おめかしをしている。七五三の風習は中国にはなく季節外れでもあるが、今日は七五三のつもりでもある。


 敷物に3人で座ると、どうやら碧霞がお茶を淹れてくれるらしい。持って来たのは花茶と呼ばれるお茶だ。

 球体状のお茶っ葉が、お湯をそそぐとゆっくりと開いてお花のようになる。目でも楽しめる素敵なお茶で、今日のような桃花宴にはぴったりだ。


 その間にさっそく春香は七弦琴を準備して音合わせをしていた。


「はい。パーパ」

 そういって碧霞が出してくれたお茶は、うっすらと爽やかな黄金色をしている。

「ありがとう。碧霞」

「えへへ」

 はにかむ顔を見ながら口に含む。お茶の香りが鼻に抜け、風味豊かな味わいが口に広がっていく。

「おいしいよ」

と言うと、碧霞はうれしそうに微笑んだ。


 春香の方も準備ができたようで、「じゃあ、まずは私から……」と言いながら、一音一音を大切に弦をつま弾いていく。

 その音色を味わうように、碧霞が目を閉じて聞き入っていた。


 春特有の爽やかな青空に、華やかな桃の花。着飾った春香と碧霞に、古琴の音色。なんとも風流じゃあないか。


「うん?」

 なにやら視線を感じるぞ?


 すると碧霞が、「わあ」と感嘆の声を上げた。

 驚いたことに、林の奥から鹿や狐、兎たちが顔をのぞかせていた。桃の枝にはウグイスらしき小鳥がやってきている。

 びっくりした春香の手が止まり、古琴の音色が途絶えるが、動物たちは恐れるようすもない。


「すごいな。春香の琴を聞きに来てるんじゃないか?」

「え、え? そうなの?」

 怪訝そうな春香に、碧霞が、

「マーマ。みんな待っているよ。続きを弾いて」

と言う。


「そ、そうね」と言いながら、春香が再び習ったとおりの指使いで弦を弾いていくと、動物たちは少しずつ近寄ってきて、俺たちの周りを囲んでしまった。

 鹿が敷物の横で優雅に座っていたり、動物たちも思い思いに楽しんでいるようだ。碧霞がそんな動物たちをキラキラした目で見ていた。

 やがて慣れてきたウサギが碧霞の膝元にやってくる。ウグイスが飛んできて春香の肩にちょこんと停まった。

「動物パラダイスだね」と笑顔の春香が、ウサギとじゃれている碧霞を優しい目で見つめていた。



 ――そして、碧霞10才の秋。

 碧霞のお墓参りに行き、そこでついに俺たちは碧霞と出会った時の事。碧霞の母親のことを打ち明けたのだった。


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