5 姜子牙君の訪問



「ニャン。私を守ってくれてありがとう」

 自らの母の墓の前で、碧霞へきかはしゃがんで目をつぶったままでつぶやいた。


 そばに植えたかしわの木は、その大きな葉っぱを枯れ葉色に染め、すっかり秋の装いになっている。

 小さなその背中を見守りつつ、俺たちも静かに黙祷を捧げた。


 ……大丈夫。碧霞はいい子で、すくすくと育っていますよ。


 そう心の中で彼女の母親に話しかける。


 実の母親のことを教えたときは驚いていた碧霞だったが、それでもお前は俺たちの娘だよと伝えると、

「うん。パーパとマーマはやっぱり、私のパーパとマーマだよ」

と言っていた。


 彼女に実の母親の記憶はまったくない。あるのは「碧霞」と刺繍ししゆうされたおくるみの布だけ。

 時折、物思いにふけっていることが増えて、その姿を見る度に少し心配になるが、心の整理には時間が必要なのだろう。

 ああ、それから、実の母親のことは「ニャン」と呼び、春香のことは今までどおりに「マーマ」と呼ぶことにしたようだ。残念ながら父親のことは、俺たちも知らないのでどうにもできないが……。

 せめて、このまま実の母がいることを忘れずにいて欲しいと願う。



 墓参りをしている俺たちの頭上には、秋特有の高い空が広がり、近づきつつある冬を感じさせるように空気が冷たい。


 やがて碧霞が立ち上がって振り向いた。

「さ、帰ろうよ」


 俺は、まるで遠くから帰ってきた娘を向かえ入れるように、その肩を抱き寄せた。

 まだ背は俺の肩くらいまでしかないけれど、やがてあの女性と同じくらいの背になるのだろう。


 家までの道を、俺が前を歩き、後ろを春香と碧霞が並んで歩く。

「帰ったら弓の練習をするわよ」

「うん。わかった」


 8才になった頃から、お手伝いかたがたい物や料理を少しずつ教えている。10才になり、1ヶ月前から弓の練習もはじめた。まだ体にあわせた小さな弓だが、引きしぼる表情は幼くも凜々りりしくなってきていると思う。

 きっとこうやって少しずつ大人になっていくのだろう。


 弓の先生は、かつてギリシャで女神アルテミスから弓を貰った春香だ。俺の方は乗馬を教えている。

 今のところの碧霞の腕前は、そうだな。早足くらいは大丈夫だが、走らせるのはまだまだ心配というレベルだ。

 いずれは一緒に猟や遠乗りができるといいなぁと思う。


「おや? 誰か来ているみたいだ」

 家に近づいたところで、1台のロバ車と3人の男たちがいるのが見えた。俺たちの家に来る人なんて限られている。きっと宋異人さんの使いの人たちだろう。


 俺たちが近づいていくのを見つけた男性が、こちらを向いた。……あの顔は子牙しがくんだ。

 彼も10年が経って、今では24才。才気さいき溌剌はつらつとした好青年になっている。隴中ろうちゅうの支店も順調に切り盛りしているようだが、結婚する気配はまだない。


「老師! お久しぶりでございます!」


 うれしそうに俺に挨拶をする子牙くんだが、いくら俺は人に教えるようなものはないと言っても、かたくなに老師と呼んでくる。

 ……ちなみに老師というのは先生という意味だからな。決して見た目が年老いて見えるわけではない。


 彼のそばに行き、

「元気そうで何よりだね」

と声を掛けると、子牙くんは「はい!」と明るく返事をして、春香と碧霞にも会釈をした。


「奥様もお久しぶりです。……碧霞様も久しぶりです。大きくなりましたね」

「ああ。ほら、碧霞もご挨拶」

 そう言うと、少し緊張した面持ちでお辞儀をして、

「こんにちは。子牙様。お久しぶりです」

と小さく挨拶をした。すぐに恥ずかしげに俺の後ろに隠れてしまう。

 こんな山中に住んでいるから、滅多に人と会うことはない。そのせいだろうか。ずいぶんと人見知りになってしまったようだ。


 春香が苦笑しながら、

「ごめんなさいね。子牙くん。うちの、ちょっと緊張しているみたい」

と言うと、子牙くんは気にしないというようにうなずいた。


「いえいえ。……将来は美人になりそうですね」

「はっはっはっ。もちろんさ。きちんと悪い虫が近寄らないように排除するさ」

と俺がわざと大仰おおぎように言うと、子牙くんは頬を少し引きつらせて、

「ええっと、親ばかでもあるんですね」

とつぶやくように言った。

 それ、聞こえてるからと思ったが、いかにも演技ですというように、いたずらっぽい目をしている。


 彼とのやり取りはこういうところが楽しくて、妙に愉快な気持ちになる。

「その通り! まあ、本人の意思が一番だけどね。……さ、中に入りたまえ」

と言いながら彼の肩を叩いて、家の中へと案内した。


 応接室などないので、2階の食堂兼リビングのテーブルに対面して座る。部下の2人は外で待機しているそうで、碧霞にお茶を持って行ってもらった。

 子牙くんへは春香がお茶を出して、そのまま俺の隣に座った。


隴中ろうちゅうはもう寒いだろう」

「そうですね。あそこは風も強いので、なおのこと寒いですね」


 俺はお茶を一口飲み、彼が話し出すのを待った。子牙くんもお茶に口を付けて、心を落ち着けたようで、

「実はこの度、宋異人さんがしょうの都・殷に新たな店を出すことになりまして、私も一緒に行くことになりました」


 え? 商に店?

 さすがは宋異人さんと言いたいところだが、大丈夫だろうか。


 だって子牙くんはきよう族の出身だろ? 商が姜族を捕まえて生け贄にしているというのは俺も知っているんだが。

 もちろん、かの強国の都に店を出すというならば、当然、彼も行った方がいいと言えばいいのは確実だ。

 ただ……、俺はこの後の歴史で戦乱になることを知っているからなぁ。


 何と言ってやればいいのか迷っていると、子牙くんが、

「実は正直、迷いました。ご存知のとおり、我が姜族はかの国に幾度も襲撃されていますから」


 む。この話は碧霞には聞かせない方がいいかもしれない。

 そう思って碧霞を向くと、

「いいえ。パーパ。私にも聞かせて」

「しかし……」

「わかってる。でも大丈夫だよ」


 子牙くんが申し訳なさそうに、

「すみません。配慮が足りませんでした」

「いや、いいよ。……続けてくれ」

「はい。実は昨年、商の王が帝乙ていいつ様から帝辛ていしん様に代が替わりました。まだ若いですが文武の才知に富んだ方で、その補佐には先代より仕えている商容しょうよう様らがついております。……宋異人さんは、その商容様と知遇ちぐうを得まして、それで商に店をと」


 帝辛。……そうか。とうとう紂王ちゅうおうの代になったのか。


「子牙くん。優秀な人だからといって、必ずしも国が治まるというわけではないぞ。たとえどんなに才能があろうとも、素晴らしい技術を持っていてもだ」

「はい」

「武器と同じだ。使いようによっては人を殺すことにも、人を守ることにもなる。大事なのは……、そうだな、徳と言っておくべきだろうか」

「……徳ですか」

「ああ。人望というか。自然とその人になら付いていこうと思わせるものだ。しかしな、徳にこだわって、大義名分や道理にこだわってしまえば、それも国を貧しくさせ、人々を苦しめることになる。難しいけどな」

「なるほど」


 ここまで黙って話を聞いていた春香が、

「ねえ。子牙くん。それで結局、なぜ商に行こうと決めたの?」

「ああ、話がまだ途中でした。実はその帝辛様が人間を犠牲にする生け贄を止めようとされているのです。……そうであれば、捕らえられている姜族の人々を救うことができるかもしれません」


 気持ちはわかる。

 だがそれが上手く行くかどうかはわからないな。捕まえた生け贄の人々を生かしておくとは思えない。少なくとも解放されることはないだろう。

 もっとも、どういう状況がわからないから、正確なところは言えないけれどね。


「そっか。それはそうかも」

「ですが、代々の生け贄を止めるとなりますと、反対する者がほとんどだそうです。商容様は帝辛様に賛成なのですが、反対する諸侯や大夫たいふたちを納得させるのに苦労しているらしく、私たちは商容様を手助けしたいのです」

「それで商に行くことを決めたというわけね」

「はい」


 ……彼が決意した経緯はわかった。

 ううむ。こまったな。歴史を知っているとはいえ、殷周革命にはそれほど詳しくないんだ。果たして後の太公望になるような人物が殷で働いていたのだろうか。彼をこのまま行かせてしまっていいのだろうか。


「老師? どうしました? なにやら難しい表情をされていますが」

「あ、ああ。すまん」


 今さら俺が言っても、どうにもならないことだな。

 歴史に修正力というものがあるのなら、きっとその力が商に行く彼を守るだろう。


「そのうち、私たちも遊びに行くかも。だから、その時は都の案内をお願いしようかしら」

「ははは。それは勿論です。ぜひ碧霞様と一緒にお越しください」

「ですって、碧霞、大都会よ。あなたが上手に馬に乗れるようになったら行こっか」

「はい。マーマ」

「子牙くん。その時はよろしくね。碧霞にもいい目標ができたわ」


 春香たちのあいあいとした会話の最中も、俺は考える。


「……子牙くん。もし何か危険が迫ったのなら、何としてもここまで逃げてくるんだ。俺たちが君をかくまうよ」


 すると、子牙くんはしばし考え込んで、

「はい。老師。ありがとうございます。もしもの時には、何としてもここへ」

「ああ、そうするがいい」


 こくりとうなずいた子牙くんは、

「老師。もし、その時は色々と私に教えて下さい」

「え? 急に何を……」

「はい。老師の知識はどこか我々とは違います。その理由はわかりませんが、私は少しでもその教えが知りたい」

「いやいや、そんなことはないさ。ただ西方貿易路を旅したこともあるし、君より多くのものを見ているってだけだよ」


 まったく、勘弁してくれ。考古学ならまだしも、そんな風にものを教えるようなことはできないよ。

 春香も、うんうんとうなずいているんじゃないって。


 にぱぁっと笑顔になった春香が、

「うんうん。やっぱり子牙くんもそう思うよね。やっぱり夏樹はすごいよ。昔っからさ――」

「は、春香? あの、そろそろ……」

「えー! すっごい久しぶりに、せっかく私の夏樹自慢をしようと思ったのに」


 おいおい。なんだその恥ずかしい自慢話は! って、やったことがあるのかよっ。


「ほら、高校や大学の時にさ」「いやいや、春香さん、そこまでにしなさい」

 でないと、俺の春香自慢もするぞ。なにしろ俺はずっとうらやましがられているからな。そういうネタはいくらだってあるんだ。


 すると、後ろで聞いていた碧霞が、

「ちょっと、パーパもマーマも仲がいいのはわかってるからさ……」

と呆れたように言った。

「あ」「あ」

 我にかえって前を見ると、子牙くんが困ったように、

「はは、は」

と苦笑いをしている。


 ともあれ、これから時代が荒れそうだ。子牙くんは否応なしに巻き込まれていく運命だろう。もしかしたら俺たちにも強い風が吹くときがあるかもしれない。


 俺と春香なら大丈夫だ。どうにでもなる。

 ただ……、願わくば、碧霞には幸せな人生をおくって欲しい。過酷かこくな運命が彼女を翻弄ほんろうすることがなければいいのだが……。

 俺はそう思った。

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