8 夜ふけの会話



 一人でマイお猪口を傾ける。


 ああ、なぜ夜はこんなにも静かなんだろう。

 人の気配の無い台所で、飲む一人酒。まるでこの部屋だけが、世界から切り離されているような感覚。

 この寂寥感せきりょうかんというか、アンニュイな気分もいいものだ。……特に寒い日の夜には。


 そんなことを思いながら、誰もいない台所をぼんやりと眺めている。

 普段は春香が料理をし、碧霞もお手伝いをしている台所。

 俺は食器を出すくらいだけれど、おしゃべりをしながら料理をする2人を見ているのが楽しい。


 碧霞ももう11歳か。

 あと5年もしたら嫁にいってもおかしくはない年齢になってしまう。

 ……そういえば、俺と春香が病室で結婚式をしたのも16歳の時だった。あの時は春香のお父さんが――。


 そんな風に思い出に浸っていると、寝室につづく階段から春香がやってきた。

 どうやら碧霞はもう寝たようだ。そのそばには女媧じよか様から預かった鷹、嵐鳳らんほうと名付けたらしい、も寝ているはずだ。


「ふう。疲れた」

と言いながら、春香が右ななめ前に座る。


「お疲れさん」

 その手許にもう一つのお猪口を置いて、お酒をついでやった。トクトクトクという音が、妙に大きく聞こえたような気がした。


 春香は一口飲んでお猪口を置くと、さかなとして置いてある炒り銀杏ぎんなんを手に取った。


 2人が上に行っている間に俺が炒っておいた出来たてだ。殻は固いけれど、すでにヒビを入れてあるから食べやすいと思う。

 春香はパキッと殻を割って、中のぷっくりとした黄金色の実を口に入れた。


 うんうんとうなずきながら、

「ちょうどいい塩味」

「だろ?」

「ビールか日本酒が欲しくなるね」

「ああ、それはそうだな。黄酒だとちょっと味が強すぎるというか」

「おいしいけどね」


 そんな他愛もない話をしばらく続けているうちに、妙に会話が途切れてしまった。


「今日は驚いたわ」

「俺もだ。まさか女媧様が突然来るとは思いもしなかった」

としみじみと言うと、春香がクスッと小さく笑い、急に真剣な表情になる。

「……あのさ。私は古代中国の歴史って知らないんだけど、これから何が起きるの?」

「商と周が戦争になり、商が滅ぶ」

「商が……。じゃあ、宋異人さんたちは」

「そこまではわからない。けれど子牙くんはまさにその渦中に巻き込まれる」

「太公望呂尚だったよね」

「ああ。といっても、俺もそれほど詳しいというわけではなくってさ。色々と民間伝承もあるみたいだよ」

「ふうん」

「もともと商は青銅の武器、戦車を用いる強国だ。有力な九侯きゅうこう鄂侯がくこう姫昌きしょうという3人の豪族がいた。そのうち姫昌という人が周を治めているんだが、あるとき商の国王の帝辛ていしん、――後の紂王ちゆうおうがそのうち2人を殺し、姫昌を幽閉してしまう」

「え? なんで……」

「伝承だとそこに妲己だつきの暗躍があったんだ」


 女媧様から商を滅ぼすように遣わされた九尾の狐の精霊。蘇護そごの娘となり、帝辛の側室の一人となる。

 やがて、彼女の美貌にのめり込んだ帝辛は、妲己の策略によって正妃を殺してしまい、さらに賢臣を処刑し、彼女の言うがままの政治を行うようになっていくのだ。


「帝辛への暗殺者をねつ造し、その依頼主が正妃だと主張した。そして拷問ごうもんを加えて、ありもしない真実を吐かせようとし、さらにその父である九侯を滅ぼす。ついでに他の2人も失言を誘って、崇侯虎すうこうこに密告させて殺そうとしたんだ」

「なるほど……」

「幸い姫昌は幽閉ゆうへいとなるが、その幽閉の間に姫昌は甲骨に変わる新しい占いを開発していく。一方で帝辛と妲己は、諫言をする賢臣たちを炮烙ほうらくという火あぶりの道具で残酷に処刑し、ますます酒びたりとなり、政治が乱れていくんだ」


 本来は有能な王だったはずだが、才能がありすぎて周りの人々がみんな馬鹿に見えたという。妲己はそこにうまくつけ込んでいったのだろう。

 自尊心を巧みにあおり、諫言を遠ざけ……。巨大な鹿台ろくだいという宮殿を作ったのも、その自尊心の表れだ。

 悪い意味で柔よく剛を制すという言葉を実践したともいえる。


「池に酒を張り、肉を木々につるし、国内や諸国から献上された美女を裸にして放ち、同じく裸になった男たちに襲わせる。酒池肉林などという欲望にまみれた酒宴を行った」

「……最悪」


 春香はその光景を想像したのだろう。両腕で自分の肩を抱いて、おぞましいものを見るような目で、お猪口を見下ろす。中の黄酒がゆらゆらと揺れていた。


 しかも酒池肉林は単なる伝説ではない。

 その場所と思われる人工池が、偃師えんしという場所から発掘されているのだ。神と交感する儀式だったという説もあるが、あまりにも度が過ぎているだろう。


「お前と碧霞は俺が守る。安心しろ」

 そう言いながら、俺の神威を広げて春香を包んでやると、嫌そうにしていた春香の目が和らいでいく。


「久しぶりに夏樹のこの力に触れた気がする。……とても力強くって優しいこの空気。私、好きよ」

「俺だって春香の神威が好きさ。もっとも匂いとかぬくもりとかで、充分幸せだけどね」

「ふふふ。それは言えてる」


 春香はそう言って、俺のお猪口に酒を注いだ。

 銀杏ぎんなんを一つ手に取って、殻を割りながら話の続きをする。


「姫昌が幽閉されて7年になる時、姫昌の息子の伯邑孝はくゆうこうが、沢山の美女と数々の宝物を献上して、赦免しゃめんを願い出る。しかし、逆に伯邑考は殺され、その肉を父である姫昌に喰わせたんだ」

「え?」


 春香が口を押さえた。気持ちはわかる。非道、ここにきわまれりだからな。


 再び神威で春香を覆いながら、

「占いでそれが見抜けなかった姫昌は、無能だと判断されて許された。そして、馬鹿にした帝辛は、西方にある異国を討伐する権利を与えた。きっと、できるものならやってみろという気持ちだったんだろう。

 それからも、ますます商では政治が乱れ、有能な臣下は殺され、賄賂がはびこる。黄飛虎という有力な武将までもが一族を連れて国を捨てて周に集まっていく」


 先ほどの伯邑考の話が強烈だったのか、春香は無言で話を聞いている。


「そこで姫昌は周の国力を高めていくうちに、子牙くんと出会う。子牙くんは宰相として呼ばれ、やがて商を討つための軍を起こす」

「……そっか。それで色々戦って商を滅ぼし、周の時代になるんだね」

「そういうこと。周では、商のことをいんと記録されている」

「殷の名前は聞いたことがあるよ」

「実在最古の中国王朝といわれているからね。

 ……これを別の見方で見ると、農耕民族の商を、遊牧民族の周が滅ぼしたわけだ。農耕民族にとっての神は自然界を象徴する様々な神だったが、遊牧民にとっての神は天の一つ。ここから天に対する信仰が定着したといってもいい」

「へえ。……やっぱり夏樹は物知りだよね」

「そんなことはないさ。少なくともこの戦争によって、中国での生けにえの風習は衰退する方向になるんじゃないかな」

「それは良いことだね」

「まあな」

 国家による大がかりなものは、だろうけどね。完全にはまだまだなくならないと思う。


「ここは周の西だし、何も起きはしないさ」


 だから碧霞もここにいる限りは安全だ。

 戦の流れを見る限り、周が豊邑にいる崇侯虎すうこうこを倒してしまえば、周の領土内にいる限りは安全といえる。もしも、嫁に出すならそれ以降がいいのかもしれない。

 ただし出逢いは時のえにし。いざ戦乱の時代に結婚となっても大丈夫なように、あの子を育てていかなければならない、か……。


「ふふふ。心配?」

 不意に春香が俺の顔をのぞき込むようにきいてきた。

「碧霞がね」

 俺たちはどうにでもなるからな。


「難しいよね。あの子に何も起きて欲しくないなら、このままここに閉じ込めておけばいいんだけど、それが幸せなのかと思えばそうじゃないだろうし」


 なるほど。確かにそうだ。そんな篭の中に入れるような人生が、幸せだなんてことはない。

 ……守ることばっかりを考えていたけれど、それじゃ駄目なんだ。

 春香はすごいな。俺よりもよっぽど問題の本質を見つめているような気がする。

 それに比べて俺は浅はかだったのかもしれない。単純に守ることばかりを考えてしまっていた。

 でも、人形のようにここに閉じ込めてはダメなんだ。あの子の人生は俺たちのものじゃない。あの子自身のものなんだから。


「凹んでも凹んでも再び立ち上がって、困難を乗り越えていける。そんな子に育ってくれるといいんだけどね」


 凹んでも凹んでも、か。

 たしかに、力強く生きていく。そういう人になってほしいとは思う。

 俺たちにできるのは、立ち上がり歩いて行く力、生き抜いていく力を身に付けさせること。……そして、必要な時にとるべき道を示唆するくらいだろう。


「それも親の悩みだな」

「うん。……でもよかった。これからの事を教えてもらって。明日からまた碧霞に色々と教えないとね」

「少しずつだぞ。いざという時には嵐鳳らんほうもいるしさ」


 きっと女媧様は碧霞のことを思って神獣をつけて下さったんだろう。碧霞が一人きりで危険な目に遭ったとしても、何らかの形であの神獣が守ってくれると思う。


 けれど、春香はじとっとした目で俺を見る。

「……ねえ。それって何か起きるのが確定じゃない?」

「確かに」

 俺は苦笑する。

「まあ、しょうがないかな。戦乱になるんなら、何が起こるかわからないしね」


 再び酒をつごうとしたが、どうやら空になってしまったようだ。ふむ……。

「そろそろ寝るか?」「そうね。洗い物は明日するわ」


 そういって、使った酒器を流しに持っていく春香。そのまま水に漬けていくのを見ながら、俺も立ち上がって火鉢の炭に灰を懸けた。


 片付けを終えて、ランプを消して、真っ暗な中を俺たちは寝室に向かう。



 ――先のことの不安は尽きない。それでも。明日はやってくるんだ。

 今夜はもう寝よう。



◇◇◇◇

 次の日の朝。

 目が覚めると、目の前で春香の幸せそうな寝顔があった。

 抱き枕のように俺をギュッと抱きしめている。涼しくなってくると、どうやら人肌が恋しくなるらしい。……いや、いつもの事か。


 布団の中に春香のぬくもりが充満していて、わずかに甘いミルキーな匂いが立ちこめている。

 俺に安らぎを与えてくれる春香のぬくもり。たちまちに愛おしくなって、そっと春香の額にキスをする。

 起こさないように気をつけながらベッドから降りた。隣のベッドでは碧霞が毛布を頭からかぶって寝ている。


 昔から寝相ねぞうが悪くって、夜中は布団をはねたりしているんだが、寒くなってくると無意識のうちに布団をたぐり寄せているようだ。不思議というか、器用というか……。


 碧霞のベッド脇には嵐鳳の寝床を急造してある。どうやら嵐鳳はすでに目を覚ましているようで、目を開いて俺を見上げていた。

 軽く手を挙げて嵐鳳に挨拶し、布団からちょこんと出ている碧霞の頭をそっと撫でる。


 まだ小さな頭。

 指の間を、さらさらとした髪がくすぐる。


 ずっと春香が一番で、たとえ子供が生まれてもその子は二番目だと思っていたけれど、実際に子どもを持つと、2人とも同じくらい大切に思ってしまう。

 もちろん、妻に対する愛と子供に対する愛は違う。

 けれど、まだまだ手のかかるうちは碧霞の方が優先になってしまっているのも事実だ。

 きっと春香も同じ気持ちだと思う。……親心ってそういうものなんだろう。


 それはそうと、俺は階下の台所の火鉢に火を入れに行くことにする。


 扉の辺りまで来た頃に、

「……う、んん」

 背後から春香がもぞもぞと動き出した。


「ううぅ。夏樹ぃ」


 半分以上眠っているだろうに、俺を探して腕で布団をまさぐっている。……毎回のことだが、不思議と俺が居なくなったのがわかるらしい。


 やがて起き上がって、寝ぼけ眼のままで部屋を見回し、俺を見つけるとニマっと笑った。

 それで安心したのか、そのままパタンとベッドに倒れて再び寝入ってしまう。


 ……完全に寝ぼけているな。可愛いけど。


 頬が自然とにやけるのは仕方がないと思う。クスッと微笑んで、俺はそっと部屋から出た。


 台所に降りて火鉢に火を入れ、天気を見るために窓をそっと開ける。

「うぅ。さぶっ!」

 ヒンヤリとした空気に思わず声が漏れる。黎明の薄暗い時間帯だが、どうやら晴れていい天気のようだった。


 そのまま2人が起きてくる前にと、ロバや馬たちの面倒を見るために厩舎に向かう。


 ……今日は三人で少し遠くまで狩りに行くか。


 昨夜の会話を思い出し、なんとなくそう思った。

 狩りの仕方、薬草の知識、護身術など、まだまだ教えないといけないことが沢山ある。教えるのもまた楽しみだ。


 そのまま作業をしていると2階の窓が開いて、春香が顔を出した。


「おはよ! って、さぶっ!」


 さっきの俺と同じ事を言う春香に、思わずプッと吹き出すと、春香は楽しそうにこっちを見る。

「ご飯だよ」

「ああ。もう入るよ」

と言うと、「早くしてね」といいながらバタンと窓が閉まった。


 その時、山の向こうから朝日が昇ってきた。朝日が俺を、世界を、その貫くような光で照らし出す。

 その光に力強い熱を感じていると、まるで生まれ変わったようなたくましいエネルギーが身体の中から湧いてくるようだ。


 今日もまた新たな一日が始まる。

 朝日を見上げながら、俺は清々しい気持ちで玄関に入った。


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