21 出陣前夜


 碧霞の家に到着したとき、ちょうど子牙くんが忙しいなかを帰宅している日だったのは幸いだった。


 さすがに機密事項になるので詳しい戦略戦術を尋ねることはせずに、夕飯を一緒にとったあとには早めに休ませてもらうことにした。春香が「丁ちゃん。一緒に寝ようね」と半ば強引に、俺たちに割り当てられた寝室に連れてくる。

 初めてのいくさだ。今晩は夫婦2人だけにしてやりたい。


 夜もけてきたところで、春香と丁と一緒に俺たち用の大きな寝台に入る。ランプの明かりも消して、暗闇の中で俺は天井を見つめながら考えごとをしていた。



 どこか子牙くんも碧霞も空元気というか、わざと普段通りに振る舞おうとしているような、かたさ・・・がある。丁は父親が戦争に行くということは知っていても、まだその実感はないようだった。


 500年を超える旅のなかで戦場を経験したのは一度だけ。

 けれど、どこそこで戦争が起きたとか、なんとかという町が滅ぼされたという話は情報としてよく耳に入ってきていた。


 ふと横を見ると、春香と丁が寝息を立てている。暗闇のなかに浮かび上がる2人の寝顔を見ていると、優しい気持ちが胸の中に湧いてくる。


 旅の途中で子供と馬を駆る遊牧民を見た。一緒に歌をうたい、一緒に羊を追い、一緒に料理をし、一緒に編み物をして、一緒に食事をする。

 親子の関係はさまざまだと思う。


 自分を殺そうとしていると言って、妻だけでなく2人の息子を殺そうとした帝辛。

 また幽閉された父親の釈放を願いに行って殺されてしまった伯邑孝。

 命をかけて娘を守ろうとした碧霞の母親。

 そして、丁の幸せな寝顔を守るために、子牙くんは戦いに行く。


 子どもを思う親の気持ち。親を思う子どもの気持ち。

 どちらも尊いものだが、その親子の愛をも捨て去ってしまった帝辛の親子は哀れだと思う。それも政や国の安定など関係なく、自らの欲望……、いや妲己の言いなりと思われる帝辛も犠牲者というべきか。


 ともあれ、俺たちも守ろう。娘の碧霞とともに。彼が戻ってくるべきこの家を。


 そんなことを考えていたら、妙に目がさえてきてしまった。

 俺は身体を起こして寝台に腰掛ける。


 ……まいったな、ぜんぜん寝られそうにない。中庭で外の風に当たってこようか。


 そっと春香と丁を起こさないように部屋から抜け出して、暗い廊下に出る。回廊には、窓から月の光が斜めにさしこんでいた。


 見上げると空には左半分の下弦の月が輝いている。これから少しずつ欠けていき、やがて新月の真っ暗闇になる。

 月と星の明かりに、ぼんやりと瓦の並ぶ壁が照らし出されている。ぽっかりと開いた中庭。植えられた木々と小さな池も、月の光の中を静かにたたずんでいる。


 ――そして、池のそばでは子牙くんと碧霞が並んで月を見上げていた。



 今、姿を見せるのはまずい。気取られる前に寝室に戻ろうとしたとき、2人の会話が聞こえてきた。


「あの日もこんな月だったね」

「ふふふ。パーパとマーマに隠れてお月見をした日?」

「そうそう。……いつバレるかとドキドキしたな」


 なんだと。そんな話は知らないぞ。……今さら怒る気もないけれど。


「私もよ。パーパとマーマには悪いと思ったけれど、あの日はどうしても一緒にいたかったのよね」

「ふふっ。あのお2人は碧霞のことになると厳しくなるから……」


 クスッと笑い合う気配がした。寝室に戻らなきゃとは思うが、なぜか聞き耳を立ててしまう。


「師父たちに出逢えたのは、私にとって一番の幸いだった。こうして、碧霞を妻にすることもできたのだしね」

「あら、私だってそうよ。実の母ニャンが命がけで私をパーパとマーマに預けてくれたから、今、和私はここにいられるの。ずっと育ててくれて、……今なら胸を張って言える。私にはお父さんとお母さんが2人ずついるって」


 不意に子牙くんが、

「師父たちも碧霞に感謝していると思う」

と、俺たちの気持ちをピタリと言い当てた。しかし碧霞は、

「え? なぜ?」

と首をかしげる。


「碧霞が娘でくれたことに、さ」


 子牙くんの言うとおりだ。

 彼も知らないだろうけど、俺たちは初めて娘を、子供を育てて、人としての一生を過ごせている。

 碧霞の親になって色んなことがあった。これからも永遠に生き続ける俺たちにとって、この思い出はかけがえのない宝物なんだ。


 碧霞も子牙くんの答えに感じ入っているようで、口をつぐんでいる。

 しばらくして、ぽつりと話し出す。その声には切なげな響きがあった。


「こんなことを言うと怒るかもしれないけど。商がどんなに酷いことをしていても、あの国が荒れ果てていても私は気にはならない。自分だけが幸せならいいってわけでもないけれど。……それよりも。絶対に、生きて帰ってきて。お願い」


「心配をさせてしまうな。碧霞。大丈夫だ。師父とも約束したとおり、俺は絶対に生きてお前の所に戻ってくる。

 ……それにな。商の帝辛と妲己を倒してこそ、この周も本当の平和が来るんだ。二度と姜族狩りなどを起こさせないためにも、今、あの国を打ち倒さなければいけないんだよ。

 丁には平和な時代を生きて欲しい。そのためにも、俺たちが戦わなきゃいけないんだ」


「あなた――」


 碧霞もわかっているんだ。だけど、やはり子牙くんが心配なんだ。それは仕方がないことだろう。

 ……っと、これ以上はいけないな。部屋に戻ることにしよう。


 2人に見つかる前に、俺は暗闇の中を部屋に戻った。

 静かに扉を閉めて、そっとため息をつくと、闇の向こうから、

「眠れないの?」

と春香の声がした。

「なんだか目が冴えちゃってね」

「そう……。少しお話ししようか?」

 そういって春香が、丁を起こさないように起き上がった。


「そうだな。碧霞の小さい頃の思い出話でもしようか」

「ふふふ。どうしたの、急に?」

「昔の話をしたい気分なんだよ」「ふうん――」


 そう言いながら、春香はテーブルの上のランプに火をともす。小さな明かりがゆらゆらと揺れている。

 俺はイスに座りながら、置いてあったコップに水差しの水を注いだ。春香がいつもより優しい目でそれを見ている。

 その視線が妙にうれしく、その夜は遅くまで2人で思い出話に花を咲かせた。




 ――それから数日後、軍勢が整い、いよいよ周から崇侯虎討伐軍が出陣する日となった。


「どうかご無事で」

「ああ。丁を頼むぞ」


 抱きしめ合って別れ、一人、馬車に乗って宮殿に向かう子牙くん。

 碧霞と丁はその後ろ姿をじいっと見つめていた。



 そして、その日の午後、周軍は岐山を出発する。

 碧霞は屋敷で留守番をするという。

 俺は春香と一緒に丁を連れて、見送る街の人々に紛れた。

 丁を肩車して、行進していく周軍の勇姿を見せる。

 歩兵。騎兵。弓兵。輜重兵。そして、また歩兵。ところどころで各将軍が馬に乗って通過し、ちょうど中央ぐらいで西伯侯姫昌様と子牙くんの馬車が進んでいく。


 目をキラキラさせながら、小さなその胸を誇らしげにして、丁はその様子を見ていた――。


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